写真家 三井昌志「たびそら」 アジア旅行記 フォトギャラリー 通信販売 写真家・三井昌志プロフィール ブログ

  たびそら > 旅行記 > インド編


 パンジャブ州に入ると風景が一変した。乾ききった不毛の砂漠から、緑豊かな実りの大地へ。その変化は鮮やかだった。
 どこまでも続く畑には青々とした麦穂が風に揺れ、運河を流れる水が大地を潤していた。空気も少し湿り気を帯びていて、日光もやわらかかった。

麦畑で働く男

 パンジャブ州ももともとはラジャスタン州と同じように不毛の地だったという。それを変えたのは灌漑事業だった。インダス川の支流に巨大なダムを作り、そこに貯めた水を運河によって下流の農地に行き渡らせようという一大プロジェクトが、当時の首相ネルーの元で実行に移されたのだ。住民たちもこの事業に惜しみない労力を注ぎ、やがてパンジャブ州はインド有数の穀倉地帯と呼ばれるまでになったのである。現在目にすることができる緑豊かな大地は、実は人の手によって造られた景観なのだ。


 パンジャブ州にはターバンを巻いたシク教徒が多かった。インド全体に占めるシク教徒の割合はわずか2%足らずなのだが、パンジャブ州内に限れば60%以上にもなるのだ。当然のことながら町はターバンだらけで、警察官や兵士もちゃんと制服の色に合わせたターバンを巻いていた。

 パンジャブ人はとても大柄だった。身長180センチを超える男も珍しくないし、みんな胸板が厚く、腕っ節が太い。顔つきも違う。アーリア系民族の特徴なのだろう、鼻が高く、目が大きくてはっきりしている。これまで旅してきた南部や中部のインド人とは、明らかに異なる外見だった。

「パンジャブ人が体格が良いのは食べ物のせいです」
 と言うのはマンディップ・シン君。19歳の大学生である。
「他のインド人に比べて肉をよく食べるんです。だから体が大きくなる。それからお酒もよく飲みます」
「お酒?」
「ビールやウィスキーを飲むと体格が良くなるらしいんです」
 初めて聞く珍説だった。アルコールが背を高くしたり分厚い胸板を作ったりするとは考えにくかったが、パンジャブ州に酒屋が多いのは確かだった。しかも鉄格子に覆われていないオープンな酒屋ばかりなのだ。

 どうやらインドでは「飲酒」と「肉食」がリンクしているようで、お酒に厳しい地域ほどベジタリアン食堂が増えるという傾向が見られた。法律で酒の販売を禁じているグジャラート州はその典型で、ほとんどの食堂が肉を出さないベジタリアン専門店だった。グジャラートとは逆に飲酒に寛容なパンジャブ州には、肉や魚を食べさせる店が多いのである。禁欲的とは言えない僕のような人間には、やはりパンジャブ州の方が居心地が良かった。

ジャガイモ畑に水を流していたシク教徒のおじさん

 マンディップ君とは、彼が通う工科系のカレッジのそばを通りかかったときに知り合った。パンジャブ州にはカレッジ(単科大学)がやたらと多い。国道をひた走っていると、突然コンクリート造りのカレッジが麦畑の中にそびえ立っていたりするのだ。農業以外にこれといった産業がないから、教育に力を入れているようだ。そのあたりの事情は南部のケララ州とも共通していた。

 僕らはカレッジの隣にある原っぱに座り込んで話をした。工科系なので生徒の大半は男子で、彼らもやはり体格が良かった。特に上半身の分厚さはアメリカ人をもしのぐほど。男子生徒同士の仲の良さも際立っていた。インドには仲良く手を繋いだり、べたべたくっつき合ったりしている暑苦しい男たちが多いのだが(もちろんホモセクシャルではなく友情である)、パンジャブ人はその暑苦しさの度合いがずば抜けて高いのである。

 彼らがふざけ合ったりじゃれ合ったりする姿は、猫科の動物の子供を思わせた。じゃれ合ううちに次第に喧嘩モードになってしまうのも動物と同じ。いつの間にか原っぱの上で取っ組み合いの喧嘩が始まったのだが、まわりの連中はただ笑っているだけで誰も止めようとしなかった。まるで小学校の休み時間である。
「あいつらは酒を飲むといつもああなるんです。放っておけばいいんですよ」
 とマンディップ君は呆れ顔で言った。実際、お互いに疲れたのか、始まったときと同じようにいつの間にか喧嘩は終わっていた。

 その直後に目にした「バス車掌事件」は、パンジャブ人の血の気の多さがそのまま出たような出来事だった。
「僕らは今から戦いに行きます」
 とマンディップ君は興奮した口調で言った。
「戦うって誰と?」
「あのバスとです」
 彼が指さした先には、何の変哲もないローカルバスが停まっていた。バス?
「あのバスの車掌は、僕ら学生から運賃を取るんです。だから車掌を殴りに行くんです」
 意味がよくわからなかった。車掌が乗客からお金を取るのが悪いことなのか?
「インドでは学生は無料でバスに乗れることになっているんです。政府がそう決めている。その代わりにバス会社は税金を免除されているんです。でもあのバスの車掌は決まりを破って学生から運賃を取っているんです。絶対に許せないですよ!」
 バスの運賃は2キロあたり1ルピーで、マンディップ君の場合には往復で20ルピーが必要になる。それを毎日払い続けるのは大きな負担なのだ。学生にとって交通費は死活問題なのである。
「これは僕だけの問題じゃない。このカレッジの学生全員の問題です」
「それはわかるけどさ、なにも殴ることはないんじゃないの?」
「いいえ、殴らないとわからないんですよ。今から行ってきます!」

 彼はそう言い残すと、仲間と一緒にバスに向かった。文字通り「殴り込み」である。学生たちはバスに乗り込むやいなや車掌の胸ぐらを掴み、拳を握りしめて振り上げた。しかし殴りはしなかった。まずは威嚇するだけのようだ。もちろん車掌の方も黙ってはいなかった。リーダー格の学生の胸ぐらを掴み返して、激しく睨みつけた。まさに一触即発。ガンの飛ばし合い。ヤクザ映画のような迫力だった。

 結局、両者の衝突は暴力事件には発展せずに収束した。車掌は学生たちの主張を受け入れ、今後は運賃を取らないと約束したのだ。奇襲作戦が見事に成功したわけだ。
 それにしても荒っぽい手口である。まず力を誇示することで交渉を有利に進める。それは我々がインド人に抱く「非暴力」のイメージとは正反対だった。
「我々はガンディーとは違います」とマンディップ君は首を振った。「ガンディーは偉大なインド人ですが、パンジャブ人は戦いを好みます。我々は相手に黙ってやられるような人間ではありません」

血の気の多いパンジャブ人が熱中するスポーツがカバディだ。筋肉質の男たちがぶつかり合い、取っ組み合う激しい競技で、練習にもかかわらず血を流す男もいた


 もともとパンジャブ人には「戦士の部族」として鍛えられてきた歴史がある。体格が良く、忍耐強く、規律正しい。そのような特徴ゆえに、パンジャブ州出身の兵士はインド軍でもとりわけ有能だと認められてきたという。
 往年のプロレスファンにはおなじみのタイガー・ジェット・シンも、パンジャブ州出身のシク教徒だ。サーベルを振り回し「インドの猛虎」と恐れられた悪役レスラーは、もちろん彼の「地」ではなく作られたキャラクターだったが、マッチョで血の気が多いというパンジャブ人の特徴を生かした絶妙のキャラ設定だったと言えるのではないだろうか。


メルマガ購読はこちら Email :