人口が減り続ける国・ブルガリア

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ブルガリアの駅はいつも閑散としていた

 ブルガリアは小さな国である。面積は北海道より少し大きいぐらい。人口は800万あまりで、それも徐々に減りつつある。ブルガリアは出生率よりも死亡率の方が高い国で、人口が自然減に転じているのである。だから、町中では老人を目にする機会が多く、子供の姿は少なかった。首都であるソフィアでさえ、衰退期を迎えた地方都市みたいに閑散としていた。

 アジアの国の多くは、増え続ける人口と拡大するマーケットを抱え、国全体が微熱を帯びているような状態にあった。各地で建設ラッシュが起こり、都市部に人が流れ込み、喧噪と環境汚染と貧富の差が生まれていた。
 ブルガリアはその反対だった。平熱状態から緩やかな体温低下期に入っている国なのだ。町の公共施設の多くは老朽化し、駅はいつもがらんとしていた。人や物の流れが活発でないことは、列車の本数の少なさからもうかがい知ることができた。国内のマーケットが小さく、生活必需品を含めた工業製品のほとんどを他のヨーロッパ諸国からの輸入品に頼らざるを得ないので、食料品以外のものは意外に高かった。

 小さくて静かで、周囲から忘れ去られそうな国。そんなブルガリアの旅が刺激的であるはずはなかった。

 

古い民家が建ち並ぶ町・コプリフシティツァ

7009 コプリフシティツァという舌を噛みそうな名前を持つ町も、とても静かなところだった。ソフィアから各駅停車で3時間半のところにあるコプリフシティツァは、昔ながらの古い民家が建ち並ぶ町として観光名所にもなっているという話だったが、僕の見る限り旅行者の姿はほとんどなかった。そもそもブルガリアという国自体、あまり観光には縁がないのである。

 周囲を取り囲む山の斜面に沿って、赤い屋根瓦が特徴的な古い家屋が建ち並び、石畳の道を薪を積んだ馬車がゆっくりと行き交う。コプリフシティツァではそんな牧歌的な風景が見られた。町の中心を流れる小川には小さなアーチ型の石橋がかかっていて、その上をガチョウの群れが幼稚園児の遠足みたいに並んで歩いていく。近くの牧草地では艶やかな毛並みの馬がのんびりと草を食み、その隣で牧羊犬が昼寝をしている。
「あたしはもう年でねぇ」
 家の前で編み物をしていた老婆が、僕に声を掛けてくる。ブルガリア語がわからなくても、身振りや表情を見ていれば彼女の言いたいことは伝わってくる。
「もう足がうごかんようになってしもたから、編み物をしとるんよ。でもきっと次はこの指もダメになりよるけどねぇ。あんたはどこから来なさったの? ジャパン? そりゃまぁえらく遠くだねぇ。ジャパンだってさぁ・・・」

 

7095 静かなコプリフシティツァの町が束の間の賑いを見せるのが、放牧に出していた牛や馬が帰ってくる日暮れ間際の時間だった。乳の張った雌牛や、子供を背中に乗せた馬が、男達に引き連れられて石畳の道を帰ってくる。「カランコロン」というカウベルのくすんだ音色が町にこだまし、それぞれの家の門が大きく開け放たれる。編み物をしていた老婆も立ち上がって、家畜を小屋の中に追い立てる。
 それが終わってしまうと、町は一段と静かになる。中央広場の周りにいくつかある商店も次々と店じまいを始め、営業を続けるのは小さなレストランと飲み屋だけになる。しかしレストランも9時には店を閉める。夜に出歩く人はほとんどいないのだ。

 

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なぜ日本人は「ブルガリア=ヨーグルト」なの?

7056 コプリフシティツァは特に何か面白いことが起こるような町ではなかったし、刺激を求める旅には不向きな場所だった。だけど不思議と印象に残る町だった。
 この町を吹く風には、ふくらみのある豊かな匂いがした。森の木々と藁と家畜の糞が混ざり合った、存在感のある匂いだ。空模様が怪しくなるとツバメが地面すれすれに飛び、その予告通りにぽつぽつと雨が降ってきた。
 この町には時間を経ても変わらない確固たる生活があった。人々は朝起きて牛を牧草地に送り出し、夕方になると家に連れ戻ってくる。そういう生活を何十年続けているのだという静かな重みのようなものを感じることができる町だった。

 安ホテルというものがほとんどないブルガリアでは、一般家庭の空き部屋を旅行者用に開放した「プライベート・ルーム」と呼ばれる民宿がバックパッカーの寝床となっている。だいたいは1泊10ドル以下で泊まれるし、バスタブ付きのシャワールームを使わせてもらえるというのも魅力なのだけど、全くの素人商売のところも多く、サービスの基準のようなものも定かではないので、当たり外れの差が激しいのも確かだった。

 プライベート・ルームの客引きは、経営者である宿の奥さんが自ら行う。旅行者が降りてきそうな駅で待ち構えていて、片言の英語で「我が家に泊まりんさい」と声を掛けるのだ。プライベート・ルームの当たり外れとは、ひとえにこのおばちゃんの当たり外れであり、彼女達の人となりをどう見極めるかが、東欧を旅するときの重要なポイントになってくるのだ。

 

7026 ブルガリアでプライベート・ルームを経営するおばちゃんは、「控え目系」と「元気系」という2タイプに分けられる。「控え目系」おばちゃんは「寡黙でシャイ」というブルガリア人らしく、余計なことは言わない人である。英語もあまり得意ではない。それに対して「元気系」おばちゃんは人の言うことなんてろくに聞かずに、一方的に喋りまくるタイプの人である。明るくて押しつけがましい。たぶんブルガリア人の中にあっては変わり者の部類に入るのだと思う。でも、どちらのおばちゃんについていくのが得策なのかは、僕にもよくわからない。結局は運任せになってしまうことが多いのである。

 ヴェリコ・タルノヴォのロサおばさんは典型的な「元気系」おばちゃんだった。髪の毛をマラソン・ランナー風に短くしていて、血色の良さそうな顔をしていた。
「あなたプライベート・ルームを探してるんでしょ? だったら近くに安くていいのがあるわよ。歩いてすぐのところ。ほら、あそこに教会が見えるわよね。あそこのすぐ近く。どう、行ってみる?」

 しかし実際には、ロサおばさんの家はそこから歩いて25分もかかる場所にあった。ヴェリコ・タルノヴォの町は坂と階段の多い町だから、直線的には近そうに見える場所でも、実際にはかなり遠回りをしないと辿り着かないのだ。
「ずいぶん遠いじゃないですか」
 僕はおばさんに抗議した。重い荷物を担いで坂道を上ってきたせいで、息が切れた。しかしロサおばさんは「あら、そう?」と言っただけで、すたすたと家の中に入っていってしまった。ここまで歩かされてしまったら、もう他の宿を探すことは不可能だった。まんまとおばさんの手口に乗せられてしまったわけだった。

 

7020 でもロサおばさんは悪い人ではなかった。彼女はとにかく世話好きで、もてなすのが好きな人だった。彼女は僕が部屋に荷物を置くやいなや、サラダの大皿を運んできて、テーブルの上にどんと置いた。キュウリとトマトの上に削ったチーズがたっぷりとかかっているサラダだった。
「美味しいから全部食べてね」と彼女は言った。
 一人分にしてはいささか多すぎる量のサラダを食べていると、おばちゃんは目玉焼きにハムとチーズを盛ったお皿を左手に、チーズとケチャップを塗ったパンを盛ったお皿を右手に持って現れた。
「美味しいから全部食べてね」と彼女は言った。
 そのボリュームを見ただけで、お腹が一杯になりそうだった。

「どうして日本人はみんな『ブルガリアに来たらヨーグルトを食べなくちゃ』って言うだろうね。他の国の旅行者はそんなこと言わないのに」
 デザートのヨーグルトを持って現れたロサおばさんが不思議そうに聞いた。
「それは明治乳業のせいですよ」
 そう言おうかとも思ったけど、おそらく理解してもらえないだろうと思ってやめておいた。「ブルガリア=ヨーグルトの国」というイメージは企業によって作られたものであって、実際にブルガリアの町中にヨーグルト専門店が軒を連ねているわけではなかった。もしかすると美味しい自家製ヨーグルトを食べている家庭があるのかもしれないけれど、パッケージされたものに限って言えば、他の国のヨーグルトと味は変わらなかった。安いことは安かったけれど。

 

 7067ブルガリアよりもむしろインドの方が「ヨーグルトの国」のイメージに近いと僕は思う。インドの町にはいたるところにヨーグルトやラッシーを売る店があり、新鮮でとても美味しかったからだ。
 それはともかく、「ブルガリアと言えばヨーグルト」と反射的に答えてしまうぐらいに、日本人のブルガリアに対するイメージは貧弱なのは確かだ。僕にとってもそれは同じだった。

 すごい量の昼食を何とか胃に収めてほっとしていると、おばさんは僕を外に連れ出して、勝手に観光案内を始めた。
「ここは私が結婚した教会なの。素敵でしょう? 中に入りたいでしょう?」
 おばさんは何の変哲もない教会の前で言った。
「・・・はぁ」
 僕は気のない返事をした。だってそんなもの見たいとは思わないもの。しかし、おばさんはそんなことには構わない。
「さぁ、入りなさいってば」
 そう言って僕の腕を引っ張るのだった。あくまでもマイペースなのだ。

 教会では「午後のお勤め」みたいな儀式が行われていた。ブルガリアのキリスト教も東方正教の流れを汲んでいて、その儀式は以前に見たギリシャ正教のものとよく似ていた。祭壇には磔にされたイエスを描いたイコンが飾られていて、司祭がそれに十字を切ってくちづけをしていた。

 

7028 夜は夜でお酒が振る舞われた。最初はクリスマス用の特別なロゼワイン(と言ってもクリスマスは半年以上前のことだから、要するに売れ残りらしい)を飲み、そのあとは緑色をした「ミンタ」というミント味のお酒で乾杯した。それも飲み干してしまうと、おばさんはギリシャのお酒・ウゾーを持ってきた。これはアルコール度数40%というとんでもなく強い酒だったので、僕はすっかり酔っぱらってしまった。

 ロサおばさんは酒の飲みながら、彼女が結婚したいきさつや夫婦の思い出話なんかを話してくれた。彼女の夫は画家である(おばさん曰く「有名な」画家らしい)。僕が泊まった部屋にも、静物画と若き日のロサおばさんを描いた肖像画が何枚か飾られていた。でも古びたロサ家の様子を見る限り、(有名かどうかはともかく)彼女の夫が画家として成功してはいないようだった。プライベート・ルームで得られる現金収入で、おばさんが何とか一家の家計を支えているのだろう。

 

7038 おばさんが見せてくれた宿帳には、世界各国の旅行者の名前が記されていた。これだけサービスをしてくれて1泊7ドルなのだから、人気が出るのも当然である。宿帳には日本人の名前も目立った。
「2年前、この部屋に日本人の女の子が泊まりに来たの。彼女は隣の部屋に泊まっていたアメリカ人の銀行員と仲良くなって、今年になって結婚したのよ」
 おばさんは二人から送られてきた写真を嬉しそうに見せてくれた。どこでどんな出会いが待っているかなんて、誰にも予想することはできないのだ。でも、二人が最初に交わした会話はだいたい想像がついた。
「ここのおばさんって、すごく親切だけどちょっとお節介ですよね?」
 そう言って笑い合ったに違いなかった。

 無愛想で何を考えているかよくわからないという僕の中のブルガリア人のイメージは、ロサおばさんによって少し変わった。彼女のような人が平均的なブルガリア人だとは言えないだろうけれど、こういうお節介で温かいおばさんだってちゃんといるのである。

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