最終目的地・中国へ

8619 モンゴルの首都ウランバートルから中国に向かう列車に乗り、国境を越えて、ニ連浩特(エレンホト)という駅で降りた。2000年12月から始まった「ユーラシア一周の旅」も、いよいよ最終目的地・中国に入ったわけである。

 ニ連浩特は国境に作られた便宜的な町であり、旅行者にとっては何の面白味もない場所なので、僕はすぐに内モンゴル自治区の主要都市である呼和浩特(フフホト)へ向かうことにした。駅の窓口で聞いてみると、呼和浩特へ行く列車は1日に1本しかないのだが、それが15分後に出るという。まさにグッドタイミング、と喜んでいたのも束の間、僕は中国の通貨・人民元を全く持っていないことに気が付いた。

 どうやら駅周辺に銀行はないらしく、両替して戻ってくるだけの時間はなさそうだった。やれやれ、今日はここに一泊して、明日の列車で行くしかないな、と考えながら駅を出て歩いていると、一人の男がつかつかと近づいてきた。
「あんた北京に行くのかい?」と男は言った。
「ノー、呼和浩特に行きたいんだ」
「オーケー、呼和浩特なら俺の乗り合いタクシーで行ける。一人120元だ。列車なら12時間かかるんだがね、タクシーなら4時間だよ」

 悪い話ではなかった。列車だと36元で行けるのだが半日もかかるうえに、出発は明日になってしまう。乗り合いタクシーだと運賃は列車の3倍近くかかるが、今日中に着けるというのは魅力的だった。
「ところでタクシーってどんな車だい?」
 そう僕が訊ねたのとほぼ同時に、黒塗りの大きな車が僕らのそばにやってきた。
「これだよ」
 と男は自慢げに車のボディーを叩いた。さぞかし年季の入ったボロ車なんだろうと思っていたのだが、意外や意外、重厚なデザインの高級車だった。高級車といっても洗練したデザインとは言い難く、日本で乗っていたら「その筋の人」に間違われるんじゃないかというような強面の外観だったが、とにかく大きくてパワフルであることは間違いなさそうだった。「紅旗」という漢字のエンブレムが入っているところを見ると、どうやら国産車のようだ。

 
 

ニーハオトイレの衝撃

 タクシーで呼和浩特へ出発する前に、銀行に行ってトラベラーズチェックを現金に替え、近くの食堂で腹ごしらえをした後に、公衆トイレに行った。
 このトイレが強烈だった。埃っぽい路地をしばらく歩いたところにある掘っ立て小屋が公衆トイレなのだが、その中に一歩足を踏み入れた途端に、全身が硬直してしまうような強烈な臭気が襲ってきたのだ。それは「便所臭さ」というレベルを遙かに超えたもので、鼻だけでなく目の粘膜までも刺激するほどの濃密な臭気だった。化学工場のプラントから出てくる刺激性のガスのようだった。

 僕は右手で鼻をつまみ、目をしばたたかせながら、奥へ進んだ。便意を催しているのだから、踵を返して出て行くというわけにもいかなかったのだ。臭気の次は汚物のお出迎えである。どうやらこの公衆トイレは定期的な清掃というものが行われていないらしく、通路には紙くずや痰やその他なんだかわからないような汚物が散らかり放題になっていたのだ。今までにもバングラデシュやインドなどで汚い公衆トイレは散々見てきたのだが、これに比べればまだ綺麗な部類に入るのではないかと思う。

 更に驚いたのは、トイレ全体の構造だった。通路を挟んだ両側に用を足す場所がある、というところまでは普通なのだが、隣同士を仕切る壁の高さが50cmぐらいしかないうえに、扉というものが存在しないので、しゃがみ込んでいきんでいる姿が通路を通る人から丸見えになってしまうのである。コンセプトは男性の立ち小便用の便所と同じである。
 このスタイルは中国の公衆トイレに共通してみられるものであり、別名「ニーハオ・トイレ」と呼ばれているという。隣との敷居も低いし、全体的にひどく開放的なので、隣同士気軽に挨拶を交わしながら用が足せるというわけだ。

 中国人はニーハオ型に慣れていて違和感はないのだろうが、仕切りの中でいきんでいる男達の姿が否応なく目に飛び込んでくるというのは、やはり強烈な光景だった。長旅の間に滅多なことではカルチャーショックを受けない体質になっていた僕にとっても、ニーハオトイレだけは別格であった。

 通路を塞ぐ汚物を避け、刺激臭に鼻をつまみ、仕切りの中で尻を剥き出しにした男達をなるべく目に入れないようにしながら、何とか一番奥の仕切りまで辿り着いた。やれやれ、これでようやく用を足せる、と思ってふと横の壁を見ると、毛筆で大きく「男女淋病梅毒」と書かれた張り紙が目に飛び込んできた。たぶん性病治療専門の病院が貼った広告のちらしなのだろう。便所というのは性病医院にとって格好の宣伝場所なのかもしれないが、いきなり「淋病」という文字を見せられるとびっくりしてしまう。何しろ「淋しい病」である。

 強烈な臭気と汚物に囲まれながら、僕はしばらく「淋病」という名前の由来について思いを馳せてみた。そしてふと、今自分は世界の端っこに座っているんだなぁというある種の感慨を覚えるのだった。

 
 

硬臥に乗ってチベットを目指す

8648 我らがタクシー「紅旗」は、砂漠地帯の中を猛烈なスピードで砂塵を巻き上げながら突っ走った。列車の半分以下の時間で行くという運転手の言葉は嘘ではなかった。残念ながらスピードメーターは壊れていたのだが(重厚な外観と対照的に、内装は結構ちゃちだった)、時速140kmは出ていたと思う。内モンゴル自治区の道路はモンゴル国とは違ってきちんと舗装されているし、障害物の全くない砂漠を走るので、いくらでもスピードが上げられるのである。結局、タクシーはニ連浩特から呼和浩特まで500kmほどの道のりを5時間で走り抜いた。

 僕は呼和浩特の駅前でタクシーを降りると、そのまま駅の窓口に直行し、銀川行きの夜行列車の切符を買った。いったん移動を始めたらどんどん先に進むというのが僕の旅のスタイルではあるのだが、ここまで気持ちが前へ前へと向かっていたのは、なるべく早いうちに西へ移動したいと考えていたからでもあった。

 中国はとてつもなく広い国なのだが、僕はその中でも西端に位置するチベット高原を旅することにしていた。内モンゴル自治区から見ればチベット高原は遙か彼方にあり、のんびりと旅をしていればそこに行くまでに何週間も費やしてしまうだろう。そうならないうちに、できるだけ早く移動しておきたかったのである。

 夜行列車というのは、できるだけ長く移動したいときにはとても便利な乗り物である。宿代だって浮くし、寝ている間に次の目的地に着いてしまえるからだ。中国はインドやロシアと同様に鉄道輸送が発達した国なので、夜行列車も頻発しているようだった。国土が広いうえに人口も多いので、長距離大量輸送の需要が見込めるからなのだろう。

 銀川行きの寝台列車は20時56分に出発した。僕が乗ったのは一番安い寝台である「硬臥」だった。三段ベッドでエアコンのない、いわゆる庶民向け寝台車である。
 僕の寝台の近くにいたのは、30代から40代の中国人の男ばかりだったのだが、誰も僕のことを外国人だとは思っていないようだった。日本人も中国人も顔かたちはほとんど同じなのだから、僕がこの場にすんなりと馴染んでいるのは、当然といえば当然のことである。しかし、どの国に行っても「ガイジン」扱いをされ、良くも悪くも注目され続けるのが当たり前になっていた僕にとって、その土地の人間のように旅ができるのは、とても新鮮なことだった。

 初めてモンゴルに入ったとき、僕は「アジアに帰ってきた」ということを強く意識した。
 そして、地元中国人に混じって旅をすることによって、自分がまた一歩旅の終点である日本に近づいたことを知ったのだった。

 
 

中国の安宿は便所が臭い

9111 夜行列車が銀川の駅に着いたのは朝の6時半だった。早朝の街は濃い霧にすっぽりと覆われていて、街全体がまどろみから抜け切れていないという雰囲気だったが、それでも公園などには人々が集って太極拳やラジオ体操に励んでいた。ラジオ体操なんてことをやっているのは、日本人と中国人ぐらいではないかと思う。他の国ではこういうものを見かけたことはなかった。

 銀川にしても呼和浩特にしても、中心街の様子は日本とほとんど変わらなかった。人々の服装や町を行き交う自動車なども日本と同じだった。中国ならではの光景といえば、自転車専用道路が整備されていることぐらいである。近年自動車が急激に増えているとは言っても、まだまだ庶民の足は自転車なのだ。

 銀川では「銀川飯店」という安ホテルに泊まった。中国ではホテルのことを「飯店」や「酒店」というのである。といってもレストランやバーが併設されているわけではないのだけど。
 ホテルの部屋選びは、フロントの壁に貼ってあるパネルを見て決める。パネルには部屋の写真と値段がランク別にいくつか表示されていて、その中から気に入った部屋を選ぶのである。このシステムはどこかで見た記憶があるな、と思った。しばらく考えた後に、なんだ日本のラブホテルと同じじゃないか、と膝を打ってしまった。

 僕はいくつかの選択肢の中から迷わず一番安い「乙単身房」を選んだ。安い部屋を選ぶというのは、もはや習慣的かつ反射的な行為となってしまっている。値段は一泊39元(600円)だった。安いからあまり文句は言いたくないのだが、部屋はともかく共同便所の臭いのひどさには閉口した。ニ連浩特の公衆便所の刺激臭には及ばないものの、ちょっとした尿意だったら我慢しようと思うぐらい臭かった。

 この宿の唯一の救いは、各部屋にテレビがついていることだった。KONKAという耳慣れないブランド名の中国製14インチテレビで、スイッチをONにすると数秒間「福」という文字が画面に大写しになる、という妙な機能を持っていた。なかなかおめでたいテレビである。

 この福々しいテレビをつけて、適当にチャンネルを回していると、日本のドラマを放送しているチャンネルが見つかった。竹野内豊主演の連続ドラマ「WITH LOVE」の中国語吹き替え版だった。中国では「東京ラブストリー」をはじめとして、日本のトレンディードラマがブームになったという話を聞いたことがあったが、それは本当のようだった。
 「WITH LOVE」の中国語タイトルは「網路真情」という。このドラマはEメールで知り合った二人のネット恋愛を軸にしているから、おそらく「網路」は「インターネット」を表しているのだと思う。なかなか上手い訳語である。

9209 中国は町中で英語をほとんど見かけることがなかった。看板も標識も漢字ばかりなのだ。あのコカコーラさえも「可口可楽」として売られている。中国人はどんな外来語も自国の言葉に翻訳しようという努力を今もなお続けているのである。
 「家庭内暴力→ドメスティック・バイオレス」、「企業買収→エム・アンド・エー」というように、母国語をわざわざわかりにくい外来語に変えてしまう日本とは、発想が全く逆なのである。

 中国の町を歩いていて見つけた面白い訳語の例を紹介しよう。DVDショップに置いてあった「豆先生」とは「ミスター・ビーン」のことである(そのままなのが逆に笑える)。コンピューター専門店に置いてあったのは「防殺毒軟件」。これは一瞬、地下鉄サリン事件を思い出させるような強烈な字面だが、よくよくパッケージを見るとウィルス対策ソフトだということがわかった。殺毒(ウィルス)を防ぐソフトウェア(軟件)というわけだ。
 ところで「Photograph」のことを中国では「照相」と表すのだが、これは日本の「写真」の方が訳語として優秀ではないかと思う。

 
 

旅客人身保険

9134 銀川から再び夜行列車に乗って蘭州の町に向かった。夜行列車での移動はまるでエレベーターに乗っているみたいだった。外の景色の移り変わりを楽しむ余裕もなく、チンとベルが鳴って扉が開くと、もう次の町に着いているのだから。それでも一泊分のホテル代と長い移動時間が省けるという夜行列車のメリットは何ものにも代えがたいものだった。

 モンゴルのウランバートルから蘭州までは、移動に次ぐ移動でほとんど町歩きをしなかった。それは中国北部の町があまり魅力的ではなかったからでもあったし、僕自身の体調がすぐれなかったせいでもあった。モンゴルを旅していたときに引いた風邪が完全に治りきらないうちに、中国に入ってしまったのが良くなかったのだ。

 悪寒と乾いた咳は2週間近くも続いていたが、じっくり休養を取ることなくひたすら移動し続けていたのは、多少無理をしてでも早く旅を終わらせたいという気持ちが強かったからだ。ユーラシア一周の旅を何とか完結させようという気持ちが、だるい体を前へ前へと引っ張っていたのである。

 蘭州から先はバスでの旅に切り替わった。ここから四川省、雲南省へと続く中国西部の辺境地域は、鉄道が未整備なのでバスに乗って旅をするほかないのである。
 ところで、僕ら外国人が甘粛省をバスで旅するためには、「旅客人身保険」なるものに加入する必要がある。そうしないとチケットを売らないという決まりなのである。この保険の掛け金は30元(450円)。もし不慮の事故で怪我をしたり死んでしまった場合には、最高で10万元(150万円)の保険が降りることになっている。おそらく今までにも何度か外国人がバスの旅で死亡して、損害賠償問題に発展したことがあるのだろう。その予防措置として、このような「強制保険」が存在するのではないかと思われる。

8687 実際、甘粛省の山岳地帯の道は「ひとつ間違えれば奈落の底に落ちるだろうな」という難所がいくつもあった。崖崩れが起こっている場所も多く、大型バスでさえぺしゃんこにしてしまえるほどの巨石が散乱しているそばを通りすぎたこともあった。地盤は見るからに軟らかく、大雨が降った後などはよく事故が起こっているらしい。

 予め事故は起こるものとして保険をかけさせるのも大事かもしれないが、それ以前に事故が起こらない道路を作る方が先決だろうと考えるのは、僕が事故予防先進国である日本から来ているからなのだろう。大都市圏はともかく、田舎の道路のメンテナンスまではなかなか手が回らないというのが中国の実情なのだ。