ヨルダンに渡る定期船に乗る

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紅海に面したヌエバの砂浜をラクダが歩いていた

 シナイ半島の東端にあるヌエバという港町に向かったのは、そこからヨルダンに渡る定期船が出ているという話を聞いたからだった。
 次の目的地をヨルダンに決めたのは、エジプトが予想以上に面白かったからだ。僕はエジプトで多くの変な人に出会い、多くの奇妙な出来事に遭遇した。予測がつかないというところが実にアジア的だった。だからエジプトだけでなく、他のアラブの国を訪れてみたくなったのだ。

 スエズからヌエバまでは、シナイ半島を横断するバスで移動した。始めから終わりまで、ひたすら砂漠が続くという路線だった。
 パキスタンでもイランでもそうだったけれど、砂漠の風景はとても魅力的だった。自然の気紛れが作り出した造形がそのまま残る砂漠は、決して単調な世界ではなかった。地面が黒い石に覆われた「漆黒の大地」とも言うべき景観が続いたかと思えば、灌木が生い茂り山羊が放牧されている場所が現れたりする。荒々しい岩肌が無秩序に顔を覗かせている月面世界のようなところもあった。
 太古の地球、生命の版図が海の中に限られていた頃の地上は、きっとこんな姿だったのだろう。そんなことを想像しながら、僕はバスに揺られた。

 ヨルダンへ行く船が出るヌエバの港には、出発を待つ男達が既に長蛇の列を作っていた。乗客の中には僕のようなバックパッカーも何人かいたが、ほとんどはエジプトからヨルダンに出稼ぎに行く男達だった。僕は窓口に行って、フェリーの空席を確認した。

「席ならあるよ」と窓口の男が言った。「しかし、どうして君はヨルダンに行くんだい?」
「どうして?」
 僕が質問の意味を計り兼ねて聞き返すと、男は続けた。
「エジプトにはどのぐらいいたんだい?」
「10日間」と僕は答えた。
「10日だって? そりゃ短いな。最低でも2ヶ月はいないと、エジプトの本当の良さは理解できないよ。今すぐ引き返すべきだね。ビザの有効期限はまだ先だろう?」

5774 よくわからない話だった。チケットを売ることが仕事の男が、お客に対して「チケットを買うな」と説得しているのである。自分の国の良さを旅行者にも知って欲しいという気持ちはわからなくはないけど、それを自分の職務よりも優先させてどうするんだ?
「2週間では短いかもしれない。でも僕は暑いのが苦手なんだよ。だから早くエジプトを離れたいんだ」
 と僕は説明した。
「エジプトが暑いだって?」
 男はこいつは驚いたとばかりに大袈裟に両手を上げた。
「おい君、この国じゃこのくらいの暑さは、暑さのうちに入らないんだぜ。来月になるともっと暑くなる。再来月はもっともっと暑くなるんだ」
「それは知っているよ。だからこれ以上暑くならないうちに、この国を出たいんだよ。わかるかい?」
「オーケー、オーケー。確かに君の言う通りだな」
 男はようやく頷いて、フェリーのチケットに僕のパスポート番号を書き込んだ。疲れる男である。

「君の旅なんだから、君の行きたいところに行けばいい。だがね、ヨルダンはここよりももっと暑い。だから昼間はおとなしく休んでいた方がいい」
 男は最後までお節介な忠告を忘れなかった。たぶん親切な人なのだろう。その親切の使い方が、あまり適切ではないようだけど。

 
 

紅くない紅海

6040 フェリーは紅海の北端にあるアカバ湾を北上して、ヨルダン唯一の港町アカバに向かった。
 紅海はもちろん紅くはなかった。それは今までに見たことがないほど鮮やかなブルーだった。まるでパレットに押し出したばかりの水彩絵の具のような、不自然なまでのブルーだった。水面は湖のように穏やかで、目を凝らすと水中にふわふわと漂う赤いクラゲを見ることができた。どうして紅海が「Red Sea」と呼ばれているのかは知らなかったが、青い海の中で揺らめくクラゲの赤い色が「Red Sea」の正体なのではないかと、ぼんやりと思ったりした。

 アカバ湾はとても狭く、船のデッキからは右手にあるアラビア半島と、左手にあるシナイ半島が共にくっきりと見えた。しかしどちらの海岸線にも人の住んでいる痕跡はほとんど見当たらなかった。サウジアラビアもエジプトも乾ききった砂漠が支配する土地なのだ。

 フェリーがアカバ港に到着すると、ベルギー人の二人組とタクシーをシェアして市街に向かった。彼らがペトラホテルというのがアカバでは有名な安宿なのだと教えてくれたので、僕もそこにチェックインした。

 
 

ベドウィンには国境なんてなかった

 宿に荷物を置いて、チャイハネでチャイを飲んでいると、一人の若者が声を掛けてきた。彼の名前はイブラヒム。両親は砂漠の遊牧民ベドウィンだが、彼自身は建築現場で肉体労働をしながら独学で英語を学んでいるという。

「もともと僕らベドウィンには、国境なんて関係なかったんだ」
 イブラヒムはチャイを飲みながら言った。ヨルダンのチャイにはミントの葉が一枚入っていて、歯磨き粉のようなさっぱりとした後味がする。
「僕らベドウィンはアラブのあちこちを移動しながら暮らしていたんだ。昨日はサウジアラビア、今日はシリア、明日はパレスチナといった具合にね。だけど2、30年前から環境が変わったんだ。以前は砂漠にも緑の草が生える場所がたくさんあったんだけど、それが急速になくなっているんだ。羊を育てたくても、食べさせる草がない。遊牧生活が成り立たなくなっているんだよ」
「原因は何なの?」
「それは僕にもよくわからないんだ。羊が増えすぎたからだと言う人もいるし、気候が変わって雨が降らなくなったせいだという人もいる。僕だってできることならベドウィンの伝統的な暮らしを続けていきたい。でもそれはとても難しいだろうね」

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伝統的ベドウィンスタイルの男

 アカバでは、ガラベーヤという長袖の衣装を着て、カフィーヤという赤い布を頭に被った伝統的ベドウィンスタイルの男達が町を闊歩していた。それは実にアラブの国らしい光景だった。しかし、イブラヒムはショートパンツにスニーカーというカジュアルな格好だった。この方が動きやすいし、女の子にも受けがいいのだそうだ。
「僕は綺麗な女の子を見ると、いてもたってもいられなくなるんだ。ほら、あそこを歩いている白いシャツの子。あの子なんてとびっきりセクシーだろう? 胸が大きくて、髪が長くて。君もそう思わない?」
「そうだね」
 僕は笑って同意した。男性が好む女性のタイプというのは、民族が違っても似通ってくるものらしい。

「でも付き合うとなると真剣だよ。浮気なんて絶対に許されない行為だ。妻と子供達は一生愛し続けなきゃいけない。神様がそう決めているんだから。もちろん、僕が結婚する相手は処女でなければダメだ。これは僕らベドウィンとラクダが守ってきた習慣なんだ」
「ラクダ?」
「ラクダってのは面白い動物でね、オスは交尾する前に必ずメスの匂いを嗅ぐんだよ。そこにもし他のオスの匂いがついていたら、もうそのメスに関心を示さなくなるんだ。バージンかどうかを匂いで判断しているんだ」
 女性の純潔を重んじるイスラム社会では、結婚初夜の出血を確かめる習慣が残っているところも多いと聞いていたが、ラクダにもそんな習性があるとは驚きだった。ラクダがムスリムから特別に愛されているのは、こういう面があるからなのだろうか。

6156 日が暮れてから、僕とイブラヒムは連れ立って海岸まで歩いた。そしてアカバ湾を一望できる堤防の上に腰を下ろして、話を続けた。独学で英語を勉強しているイブラヒムは、自分と同じくらいの語学力を持つ(要するに英語がそんなに上手ではない)外国人と会話がしたかったのだと思う。それには僕のような存在はぴったりだったのだろう。
 アカバ湾を挟んだ向こう岸には、街明かりが広がっていた。様々な色のネオンサインや、高級ホテルらしい十数階建ての高層ビルディングも見えた。それはアカバの数倍の規模を持つ華やかな街だった。

「あそこに見えるのがエイラットの街だ」とイブラヒムは言った。
「あれはヨルダンではなくてイスラエルなんだね?」
 と僕は訊いた。ヨルダンと国境を接するイスラエルの街が、アカバからわずか3kmのところにあると聞いていたからだ。
「僕は『イスラエル』という国は知らない」彼はきっぱりと言った。「あそこは『占領下パレスチナ』の街エイラットだ。イスラエルという国を僕は認めない。彼らはもう何十年も不当な占領を続けているんだ。武器の力でパレスチナ人の自由を奪っているんだ」
 イブラヒムの言葉は僕に向けられているのではなく、エイラットの街とイスラエルに住むユダヤ人に向けられているように感じた。

 イブラヒムの両親はパレスチナを追われて、ヨルダンに逃げてきた。ヨルダンの人口の半数以上は、彼らのようなパレスチナ難民で占められているという。
「でも僕らは決してイスラエル政府には屈しない。たとえ銃を持つことを禁止されても、抵抗の意志を示すために、イスラエル兵に向かって石を投げる。それがインティファーダだ。しかし石を投げる人々に対して、イスラエル兵は機関銃を撃ち込むんだ。これは誰が見たっておかしいことだろう? 許されることではないだろう? でも、これが今のパレスチナで起こっている現実なんだ」

6078 イスラエルの理不尽な弾圧に対するやり場のない憤りは、パレスチナ人だけでなく他のムスリムにも共有されていた。イランでもエジプトでもヨルダンでも、イスラエル兵がパレスチナ人を何人殺したというニュースが、テレビやラジオを通じて繰り返し流されていた。
 その報道の中には、反イスラエルと反米意識を煽り立てようとする政治的な思惑も多分に含まれていたように思う。しかしそれでも『占領下パレスチナ』で多くの市民が殺されているのは紛れもない事実だったし、それがムスリム同胞の内なる結束力と、外に対する敵愾心を強くしているのもまた確かだった。

 いつの間にか、エイラットの街明かりの真上に新月が浮かんでいた。針の穴に通りそうなぐらい細い月だった。
「戦いはいつ終わるんだろう?」
 イブラヒムは呟くように言った。僕は答えなかった。その質問は僕に答えられるようなものではないし、彼自身も答えを求めているわけではない。
 様々な歴史的悲劇がもう解けないほど複雑に絡まり合っているのがパレスチナ問題だった。パレスチナとイスラエルの双方は、一方が示した和平案をもう一方が破り捨てるということを延々と続けていた。それは底のない沼であり、出口のない迷宮であり、終わりのない因果律だった。

 パレスチナ人のテロリストがイスラエル市民の乗るバスを爆破したというニュースが伝えられたのは、それから二日後のことだった。インティファーダを起こしたパレスチナ人をイスラエル兵が射殺したことへの報復だという。パレスチナ人達の鬱積した怒りが、ついに無差別テロという最悪の形で吹き出したのだった。
 当分、戦いが終わることはない。はっきりとわかっているのは、ただそれだけだった。