1885 「東南アジアの田舎」とも呼ばれるラオスの中でも、北部の山岳地帯は特に貧しい地域だ。平地と呼べる場所がほとんどなく、男が僅かばかりの農地を耕し、女が山で薪を集めてきて、何とか日々の糧を得ている。そういう場所だ。

 ムアンシンの町は、四方を山に囲まれた小さな盆地にあった。ラオス北部の中では比較的大きな町だということだが、市場の周りにバス停と郵便局と銀行があるだけだった。他の町と結ぶ定期バスは一日に数本あるだけで、電話はなく、電気は通っているものの一日2時間半しか使えない。

 そんな不便な町に、バックパック旅行者が集まり始めたのは、数年前、英語版のガイドブックに「少数民族の住む人里離れた辺境」として紹介されてからだという。しかし、それから何年か経って、いくつもの安宿が建ち並ぶと、この小さな町もにわかに観光地の様相を呈するようになり、辺境としての意味を失っていった。

 ムアンシンの物売りのしつこさは、アンコールワットと同じか、それ以上だった。とは言っても、ムアンシンには遺跡や寺院といった見どころがあるわけではない。強いて言うなら、ごく普通のラオスの田舎であるということが、旅行者を引きつける魅力だったのだ。しかし、旅行者が増えれば増えるほど、田舎町としての風情は失われ、後に残ったのは、お金を落とす旅行者とそれを得ようとする地元民とのいびつな関係だけになった。
 僕が訪れたのは、辺境でも観光地でもない、中途半端な存在となったムアンシンだった。

 

 

娘を嫁にもらってくれないか?

1735「正直言って、僕もこの町にはがっかりさせられました」
 と彼は言った。僕らは宿の食堂の古い木のテーブルを挟んで、「フー」というベトナムの「フォー」そっくりの麺をすすりながら話をしていた。
「おばちゃん達が『ネックレスを買え』『指輪はどうだ』って、しつこく言ってくるでしょう。僕はああいうのを振り払うのが苦手で、何か買ってあげようとも思うんだけど、でも要らないものは買えないですから。それに写真を撮ろうとすると、口々に金を払えって言われるのも、いい気はしないですしね」

 彼は30代の半ばぐらいに見えた。細身ではあるけれどがっしりとした体つきで、顎は長期旅行者の証とも言うべき無精ひげで覆われていた。
「旅は長いんですか?」と僕は聞いた。
「いや、タイからラオスに入って、まだ2週間ぐらいです。これからラオス奥地の森林の様子を見に行こうと思っているんです。ラオスの田舎でも、タイ語が意外に通じるので、大丈夫かなと思っているんですけど」
 彼はただの旅行者ではなかった。NGOのメンバーとして数年間フィリピンやタイに住み、伐採された森に植林をするプロジェクトに携わっていた人だった。

「森林破壊が一番ひどいのがフィリピンでした。違法な伐採によって、森ひとつが完全に消えてしまったところが、いくつもありました。そういうところで、植林を始めるなんて言うと、地元の人から『そんなことをしても意味がない。どうせ森が元に戻るわけがない』と言われるんです。でも不可能じゃないんです。森が再生するには2、30年、あるいはもっと長い時間がかかります。でも、できないことじゃない」

 彼はビールを注文して、ふたつのグラスに注いだ。ビールは冷えていないせいで、やたらと泡立ちがよく、グラスの大半は白い泡で満たされてしまった。僕らは泡だらけのグラスで乾杯して、一息で飲み干した。泡の苦みだけが口の中に残る。

 

1839「植林事業というのは、木を植えたらそれでおしまいではないんです。よく何かの行事で、皇族か誰かが植樹をして、めでたしめでたしというのがあるでしょう。現実はあれでは終わらないんです。木を植えてから、それをどう育て森を管理していくか、そっちの方がずっと重要なんですよ。僕らは現地の人に植林のやり方と、その森をどう守っていくかの両方を教えなきゃならないんです」

 彼は若い頃から家具職人の見習をやったり、住み込みで農家で働かせてもらったり、他人とは違った生き方を模索してきたという。一貫していたのは「自然と共に生きたい」という思いで、それが自分を植林NGOに導いたんでしょうね、と彼は言った。

「以前、タイの少数民族の村に3年ほど住んでいたことがあるんです。ちょうどこのムアンシンみたいに電気も水道もない田舎でした。ある日、知り合いの男が僕を訪ねてきて『うちの娘を嫁に貰ってくれないか』と言ってきたんです。向こうは真剣でしたよ。『娘は19歳でまだ嫁に行っていないんだが、どうだ?』って。でも、その村で19で嫁に行っていないっていうのは、実は完全に行き遅れているんですよね。みんな15、6歳で結婚してしまうわけだから」

「それでどうしたんですか?」
「もちろん断りましたよ。一応父親の手前もあるので、会うだけは会ってみたんですけどね。まあ、それなりに行き遅れているなって顔をしてました。やっぱり」
「もし、その娘が好みのタイプだったら、結婚したかもしれませんか?」
「そうですね・・・その時になってみないと分からないけど、結婚してあの村にずっと住むというのも、悪くはないって気もするな」
 彼はそう言って、少し懐かしそうに笑った。その出来事があってしばらくしてから、彼は日本に呼び戻されて、デスクワークをするように言われた。
「それでNGOを辞めたんですよ。僕はどうもデスクワークに向かない性格なので」

 

 

現代の「木を植えた男」

1815 8時を回った食堂に残っているのは、僕らと大柄な欧米人の夫婦だけだった。日が沈んでしまうと、表通りを歩く人の姿もほとんどなくなり、町全体が眠り込んだように静かになる。

「焼畑はサイクルさえ守ってやれば、森林破壊には繋がらないんです。この近くでも焼き畑をやっているところがありますけど、これ以上広げない限り大丈夫です。一番の問題は、日本を含めた先進国が熱帯の森を次々と切り倒し、輸入し続けているってことです。森を持つ国々も、外貨が欲しいからそれを止めることが出来ない。フィリピンの森を食い潰した今、開発の手はインドネシアに延びています。その後はミャンマーやラオスにも向かうでしょう。でも僕には、それがいいことだとはどうしても思えないんです」

 世界の木材輸出量のうちの実に20%が、日本に集まっているという。そうやって世界各地から伐採され運ばれてきた安価な木材の多くは、ビルなどの建設現場でコンクリートの型枠として大量に消費されている。そういった現実に対して、僕らはあまりにも無知だし、無頓着すぎる。

「僕らは日本人からも地元住民からも、変わり者扱いされるんです。『どうして日本人が、東南アジアの植林を手伝わなきゃいけないんだ』と。でも、僕は日本人がやるべきだと思うんです。日本に彼らの持っていない技術や知識があるなら、それを役に立てるのが当然だと」

 

1867 彼の話を聞きながら、僕はフランスの作家ジャン・ジオノの「木を植えた男」という話を思い出した。第一次大戦から第二次大戦の南フランスで、一人の老人が黙々と木を植え続け、荒れ果てた大地を緑豊かな森林に蘇らせるという話だ。

「僕もその話は知っていますよ。でも僕らがやっていることは一人じゃできないし、あんな風に全てがうまく行くわけでもないんです。あの話はフィクションですからね。でも『木を植えた男』の最後に、枯れた泉に水が戻り、村に住民が戻ってくるって下りがあるでしょう。あれはまさにその通りなんだなと、フィリピンで実感しました。木を植えることによって森が再生するということは、そこにあったコミュニティーも再生するということなんだと」

1838 彼は自分の意見を人に押し付けようとはしなかった。自分の出来ることと出来ないことを把握した上で、やるべきことを実行している人だった。そして、自分の生き方を自分自身で選び取っているという強さが、彼の言葉に説得力を与えていた。
「でも、やっぱりタイの村で結婚しておくんだったかなぁって、少し後悔もしているんですよ。この年になると、お嫁さんもなかなか見つからないですから」

 9時になって町中の電気が一斉に消えてしまうと、僕らは話を切り上げて、それぞれの部屋に戻った。
 靴を脱いでベッドに仰向けに寝転がり、ろうそくの小さな明かりが天井に様々な模様を描き出すのをぼんやりと眺めながら、僕は彼のような強さを身につけることが出来るのだろうか、と思った。

 ろうそくが燃え尽きて、部屋の中が深い闇に包まれても、その夜はなかなか眠ることが出来なかった。