2221 ミャンマーの長距離バスでは、なかなか眠ることができなかった。昼間は賑やかな音楽が途切れることなく流れているし、夜は夜でビデオの上映会になるからだ。ミャンマーを走るバスの多くは、日本で使われていた観光バスや路線バスの払い下げ品なので、テレビ付きのものも意外に多いのである。前にも書いたように、ミャンマーの田舎ではテレビも貴重な娯楽だから、バスの中でビデオを流すのは乗客へのサービスなのだ。

 メイッティーラを午後8時に出発したバスは、午前1時まで香港のアクション映画やミャンマー製トレンディードラマを流し続けた。それがようやく終わって車内が静かになり、これでやっと眠れると思った頃に、突然の衝撃がバスを揺すぶった。僕は首を前に折ってうつむき加減でうとうとしていたものだから、前の座席に思いっきり頭を打ち付けてしまった。

 衝突事故だった。反対側から来たトラックと僕らの乗るバスが、すれ違う時に誤って激突してしまったらしい。バスは急ブレーキをかけて道路脇に止まり、運転手と車掌が慌てて外に飛び出していった。ミャンマーの田舎道は一応の舗装はされているものの、バスがやっと一台通れるほどの幅しかないので、すれ違うときにはどちらかが道を譲らなければいけない。たぶん双方が道を譲らずに衝突に至ったのだろう。

 幸いにしてバスの運転手も乗客も無事だったし、相手のトラックの運転手にも怪我はないようだったが、バスのサイドミラーはもげ、フロントガラスの半分には蜘蛛の巣のようなひびが入っていた。
 それでも、当事者達は実にのんびりと構えていた。この程度の事故はさほど珍しくないのか、それとも「起こっちゃったものはしょうがないよね」と考えているのか、煙草を吹かせながら悠長に話し合っていた。

 運転手同士が何らかの合意に達したのは30分ほど後のことで、詳しいことはもちろんわからなかったが、バスはこのまま目的地を目指すことになった。あれだけの衝撃を受けても走行には支障がないらしく(日本製のバスは優秀だ)、運転手が応急修理したのはフロントガラスの穴をビニールテープで目張りした部分だけだった。

 ミャンマーの幹線道路には、横転したまま道路脇に放置され、錆の赤く浮いたバスやトラックの残骸――それはサバンナの生存競争に敗れた草食動物を思わせる――を何台も見かけたが、我々はそうならなかっただけ幸運だと思うべきなのだろう。

 

日本の思い出は「サンタフェ」

 事故でしばらく止まっているとき、僕よりも何列か後ろに座っていた男が近づいてきて、僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「あなたニホンジンか?」
 男はかなり上手な日本語で言った。彼は10年前に東京のインド料理屋で働いていたことがあって、そのときに日本語を覚えたのだという。

「ニホンゴを話すのは、長いことなかったね」と彼は言って、上機嫌で日本の思い出を喋り始めた。「ニホンにはミャンマーにないもの、たくさんあったね。特に夜のカブキチョーはすごいね。女の子カワイイね。いいオモイデね」

 しかし、彼の記憶の中に一番強く残っているのは「サンタフェ」だった。
「サンタフェって何?」と僕は訊いた。
「あなた知らないの? サンタフェ。リエちゃんね。ミヤザワリエ!」
 なるほど。10年前といえば、ちょうど宮沢りえのヌード写真集「サンタフェ」が発売されて日本中の話題になっていた頃だ。宮沢りえの大ファンだった彼は、10年経った今でもあの写真集のことが忘れられないのだ。

 ミャンマーでは町中でヌードやポルノグラフィーを手に入れることはとても難しいし、その点で日本は素晴らしい国だったよ、と彼は言った。確かにミャンマーのような検閲の国から見れば、日本はまさにポルノ天国である。もっともサンタフェの場合は、芸術作品ということになっているのだけど。
「リエちゃん、世界で一番キレイね。エンジェル、テンシだね」と彼は何度も繰り返していた。

 

カタコトの日本語を話す人

2651 ミャンマーで驚いたのは、カタコトの日本語を話す人が意外なほど多いということだった。観光地のセールストークとして「オニイサン! ヤスイヨ!」とオウムみたいに連発する女の子を別にすれば、ベトナムでもカンボジアでも日本語で呼びかけれることはほとんどなかった。しかし、ミャンマーではどこで覚えたのか知らないが、普通の町中でも「コンニチワ」とか「サヨナラ」と声を掛けられることが多かった。もっともサンタフェの彼のようにきちんとした日本語を話す人は非常に稀で、挨拶以上は全く知らない人がほとんどだったが。

 メイッティーラの町をぶらぶらと歩いていたときも、自転車に乗った15才ぐらいの男の子がすれ違いざまに、
「コンニチハ! アナタ ニッポンジンデスカ?」と勢いよく話しかけてきた。
「そうですよ」と僕が言うと、
「ワタシ ナマエハ マンゴーサン」と満面の笑みで自己紹介を始めた。
「そうですか。私の名前はマサシサン」僕も彼に笑顔につられて言った。

 さてさて次はなにを言うんだろう、と期待を込めた目でマンゴーさんの顔をじっと見ていると、彼の笑顔がにわかに曇った。何かを言おうと一生懸命口をもごもごしているのだけど、次の言葉が出てこないのだ。
 僕らはしばらくの間無言で見つめ合っていたのだけど、ついに彼は耐えきれなくなったらしく、「サヨナラ!」という言葉だけを残して、一目散に自転車で走り去っていった。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ!」
 僕は彼の背中に声を掛けてみたが、彼は一度も振り返らなかった。

 たぶん、彼が知っている日本語は「ワタシ ナマエハ マンゴーサン」で打ち止めになってしまったのだろう。それだけのボキャブラリーで外国人と会話しようとする無謀さには呆れるほかないのだけど、僕だってビルマ語がまったく話せない状態で町を歩き回っているわけで、無謀という点では彼と似たり寄ったりなのだとも思った。

 

 

月収5ドルの女性教師

2694 バゴーの町では、小学校にお邪魔した。二階建ての古い木造の建物から子供の元気な声が聞こえてきたので近づいてみると、好奇心いっぱいの顔をした子供達が身を乗り出して、「見て、見て。ガイジンがこっち見てる!」と騒ぎたててしまったのだ。騒ぎを聞きつけた女性教師が校舎から飛び出してきたので、授業の邪魔になると追い払われるのかと思ったら、「どうぞ、お入りなさい」と手招きをしてくれたのだった。

「今は授業中ですが、構わないから見ていってください」と女性教師が英語で言った。
 彼女の説明によると、この「バゴー34小学校」は60年前に建てられた校舎を、今も使っているということだった。確かに見るからに年季の入った建物だった。二階の床板には足がすっぽりとはまりそうな穴がいくつも空いていて、そこから一階の子供の顔が見えるほどだった。
「これは危ないですね」と僕が言うと、彼女は表情を曇らせた。
「政府からお金が出ないんです。教師の給料もとても安いし、校舎を直すこともできません」

 現在、教師の月給はおよそ15ドルだという。いくら物価の安いミャンマーとはいっても、これでは家族を養っていくことは不可能だ。
「これでもまだ良くなった方なんですよ。去年までは月収5ドルで、それすら支払いが滞るような状態だったんです。政府のお金は、まずヤンゴンなどの都会に回されて、バゴーのような田舎にはなかなか回ってこないんです」
 女性教師は深くため息をついて首を振った。彼女の後ろにくっついていた男の子達が、それを真似て一緒に首を振ってくすくすと笑った。

 そう言えば、バゴーのゲストハウスで働いている男も、元々教師をしていたと言っていた。「そんな安月給でどうやって生活していたんです?」と僕が訊ねると、彼は皮肉っぽい笑みを浮かべながら「だから仕事を変わったんじゃないか」と言った。ミャンマーでは小学校の教師の大部分が女性だった。教師という職業は、子供を教えたいという情熱の元に、収入を度外視して就くものになっているようだった。

 

2604 二階建て校舎の1階には1~2年生が、2階には3~5年の生徒が学んでいた。ひとつの学年には5、60人もの生徒がいて、それを一人の教師が見なければいけないので、勉強はなかなかはかどらない様子だった。教室には電灯がひとつもないので、真昼でも薄暗かった。

 教師は白いブラウスに緑のスカートという制服姿で黒板の前に立ち、生徒は床に直接座って、背の低い机に広げたノートに計算問題を書き付けていた。見たところ、教科書の隅っこにパラパラ漫画を描いたり、太宰治の顔に落書きをしているような生徒はいなかった。もっとも彼らの教科書には写真も絵もない素っ気ないものだから、落書きのしがいもなさそうだったが。

「あなたの国は教育が進んでいるそうですね」と女性教師が言った。「この国はとても遅れています。教育が重要だということを誰も理解していないのです」
 そして彼女は再び深いため息をつき、首を振った。ミャンマー人は陽気で楽天的な人が多いけれど、彼女のように真剣にこの国の将来を憂う人もいる。

 教室の窓から首を出して見送ってくれる子供達に手を振りながら、女性教師が笑顔で黒板の前に立つ日が一日も早く訪れることを願わずにはいられなかった。