ne04-2265 南部のタライ平原を別にすれば、ネパールの国土のほとんどは山である。そこに暮らす人々は農耕をしようにも平坦な土地が少ないために、山の斜面を削って棚田を作り、そこに稲やトウモロコシを植えて、生活の糧を得ている。

 棚田は膨大な時間をかけて、ひとつひとつ手作業で作られたものだ。単純に山を削るだけではなく、雨で土砂が流失するのを防ぐために、あぜの部分に石垣を積み上げなければいけない。一見アバウトにも見えるけれど、実はとても綿密な作業が行われているのだ。

 ネパールの棚田は、人が自然に立ち向かい、大きく作り変えたものではなく、あまり豊かではない土地から食べ物を得るためのささやかな試みの集積であると思う。地道な作業を何世代にも渡ってコツコツと続けた結果なのだ。だからこそ、棚田には独特の美しさがあるのだと思う。それは削げる部分を全て削ぎ落とした後に残るシンプルな美しさだった。

 

 

ソレンタール・失われた世界

ne04-2306 平地が極めて少ないネパールの山岳地帯にあって、ソレンタールは別世界のような場所だった。そこは険しい斜面を三十分以上登り続けた後に、何の前触れもなく現れる真っ平らな土地だった。山の中腹より上の部分をスパッと水平に切り落とした形——プリンとか相撲の土俵みたいな形——を思い浮かべていただければいいと思う。

 ソレンタールの平地は南北に十キロ、東西に二〜三キロほどの広がりがある。ちょっとした町ならまるまるひとつ飲み込めるぐらいの広さだ。山また山の山岳地帯にそのような平地が唐突に現れたら、誰だってびっくりすると思う。まさにコナン・ドイルの小説「失われた世界」に描かれているような光景だった。

 

ne04-1625 ガイドのサンタは、このような不思議な土地が生まれることになった経緯を説明してくれた。
「もともとソレンタールは比較的平らな土地だったんですが、ほとんど誰も住んでいなかったんです。地面が水持ちの悪い赤土だということもあったし、水を手に入れるには斜面を三十分もくだったところにある川まで行かなくてはいけなかった。農耕には適していなかったんです。ところが、十年ほど前にソレンタールに新しい国際空港を建設するという話が持ち上がったのです。カトマンズにあるトリブバン国際空港は滑走路が狭くて危険だったので、政府は別の場所にもっと広い空港を作ろうとしたんです。ご存じのように、ネパールには空港向きの広くて平らな土地というのはほとんどありません。そこで政府の人間がソレンタールに目をつけたというわけです。計画はある程度まで進みました。地表を覆っていた樹木を切り倒し、地面をなだらかにしました。あなたが目にしている平地は、この工事で作られたものなんです。ところがこの土地にはひとつ問題があった。ここと首都カトマンズは一六〇キロも離れているんです。道路を整備したとしても、車で何時間も走らなければいけない。これではせっかく空港を作っても誰も利用しないだろうということで、計画は頓挫してしまったんです」

 

ne04-1976「でも、空港とカトマンズが遠く離れているなんて、最初からわかっていたことじゃないんですか?」
「確かにそうですね。私も政府の人間が考えることはよくわかりませんよ」
 サンタはそう言って笑った。こういう後先のことを全く考えない計画の進め方は、ネパールでは当たり前のことなのかもしれない。

 それはともかく、空港建設の話が流れた後、この土地には続々と入植者が移住してくるようになった。広大な平地がただで手に入るわけだし、生活用水の問題も遠くの山からパイプラインを引くことで何とか解決することができた。

 そうは言っても、ソレンタールが入植者達にとっての楽園になったわけではない。土地が農耕に不向きな赤土であることは変わりなかったし、農業に使う水は雨季(モンスーン)に降る雨に頼るしかないからだ。

「モンスーンはいつもゆっくりやってくるのさ」
 トウモロコシ畑を牛を使って耕していたプルナさんが、空を見上げながら言った。空は鉛色の雲に覆われ、そこからぽつぽつと雨が落ち始めていた。
「一度雨が降ったからといって、すぐに毎日降り続くわけじゃない。モンスーンの本当の始まりを見極めるのは、とても難しいんだ。だから俺たちは来る日も来る日も空を見上げて、いつ種蒔きをしようかって悩むわけだ。でも、どうやら今年のモンスーンはいつもより早いみたいだ。明日には種蒔きが始められると思うよ」

 

ne04-2419 モンスーンの先触れとなる雨は次第に強くなり、乾いた赤土を湿らせて焦げ茶色に変えていった。雨を吸い込んだ畑の土からは、恵みの予感をたっぷりと含んだ匂いがした。土と家畜の糞と雨が混ざり合ったふくらみのある匂いだった。

 穏やかに降っていた雨が、突如として激しい雹に変わるまでには、それほど時間はかからなかった。雷鳴が轟き、稲妻が空を走る。やがて直径一センチほどもある大粒の雹が、叩きつけるように大量に降ってきた。僕は大慌てで軒下に入ったのだが、雹の勢いは凄まじく、屋根が打ち付けられる音で耳が痛くなるほどだった。歩兵部隊の最前線で敵軍の集中砲火を浴びているようだった。

 

ne04-3758 音が特にひどいのがトタン屋根の家だった。伝統的なネパール家屋は屋根を薄い石で葺いているのだが、最近は安価で持ち運びもしやすいトタンで葺くことが多くなったという。しかしトタンは集中豪雨や雹には弱く、十年もすれば駄目になってしまうから、本当の意味で経済的とは言えないのだそうだ。

 この日の雹でも、いくつかの家のトタン屋根に穴が空いた。もしトウモロコシがある程度まで成長していたら、ずたずたにされていたかもしれないな、とサンタは言った。ネパールの人々にとって雨は天からの恵みであるけれど、雹や集中豪雨による濁流が農民の生活を脅かすことだってある。自然とうまく折り合いをつけていくのは、昔から容易なことではないのだ。

 

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霧の中で明けた朝

ne04-2359 大量の雹が降ったソレンタールの朝は、深い霧の中で明けた。舞台装置で使われるドライアイスのような濃い霧が、平らな大地にすっぽりと覆いかぶさっていた。大きな菩提樹も、納屋付きの家も、村の共同井戸も、全てが乳白色の霧の中に埋没していた。朝霧があらゆるものの色彩を吸収してしまうので、まるでモノクロフィルムの世界を見ているようだった。

 その中で、牛と人だけが黙々と働いていた。二頭立ての牛に犂(すき)を引かせて畑を耕しながら、籠に入れたトウモロコシの種を蒔いていく。それはターナーが描いた絵のように、実直でありながらどこか幻想的な光景だった。

 八時を過ぎる頃になると、南から吹く風が朝霧を静かに払っていった。にわかに空が明るくなり、雲の切れ間から陽光が燦々と降り注いだ。霧が晴れるのを待ちかねていたように、遠くから賑やかな音楽が聞こえてきた。鐘と太鼓とホルンに似た音が混じり合っている。あれは結婚式の行列だな、とガイドのサンタが言った。

 

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