宣言:「たびそら」を読むのをやめます

はじめまして
2年ほど前からあなたのサイトを愛読してたものです。
しかし、今後あなたのサイトを見るのを止めるのでその理由をお知らせしようとおもいます。
そんなこと、知らせてくてもいいと思うかもしれませんけど。
理由としてはあなたのような写真を撮りたいと思うあまり、だんだん自分本来の写真から単なる旅空のコピーになりさがっているようになったこと。
そして、旅空チックな写真が撮れないと旅がつまらないものに思えるようになったこと。
別にいい写真が撮れなくても、自分なりに旅を楽しめればいいはずなのにね。
 
そして、もっとも、大きな理由としては、現地の子どもや大人が、牛を引いて歩いていても、水浴びしてても、民族衣装着て赤ん坊を抱いていても、なさけ容赦なく撮る自分の嫌らしい姿に気付いたからです。
まあ、これらはあなたにはまったく責任のないことですけど。
 
あなたはこう言うでしょう、「ど素人が俺の物まねしてもいい写真なんか撮れるわけねえだろう、いい被写体を求めてりゃ向こうのほうからやってくるものなのさ、ほら、むこうからカモがネギじゃなくて、かわいい女の子が牛ひいて歩いてくるじゃないですか、あなたの写真を撮らせてくださいなと心の中で思うと、ほら通じた!いい笑顔が帰ってきた、パシャ、ほらいい感じの絵葉書の出来上がり、100枚は売れるかな、幸せだろ、学校行けなくても、貧乏でも、牛がいればいいんだろ、なに?マネー、ふざけんじゃない、あっちへいけ!ち、これだから観光地は嫌なんだ餓鬼がすれてくるから。誰だよ、マネーなんて教えたのは。
 
お、水を汲んでるぞ、それ、撮っていいかい?いい?いいよな?パシャ。それマネーだマネー1ドルあげるよ、おまえの写真で絵葉書作っても、本作っても、文句いうなよ、金あげたんだからな。1ドルて、貧乏なおまえらには大金だもんな。でも、それ以上はあげらんない、いろいろ経費がかさんでな、このカメラだって高いんだぞ、おまえのおやじが1年働いても買えねえだろ。
お、今度は水浴びしてるぞ、それ撮ちゃえ、なんだよ、嫌な顔して逃げんなよ、俺は他の観光客とは違って本2冊も出してるプロなんだぞ。まあ、いいか、餓鬼なんかいくらでもいるしな。
さて、久しぶりに美少女のとこ行ってみるか、よーひさしぶり、おや、すっかり貧乏くさくなって、これじゃ誰も買わねえな、まあいいか子供なんかいくらでもいるんだから、もっと、奇麗な子を本の表紙にするか。
 
さては、次はどこにいくか、地震のあったパキスタンなんかいいかも、家が潰れても、家族が死んでも、けなげに復興にいそしんでるだろうな、もちろん、笑顔で、その姿を撮れば売れるかも、でも、それだけじゃつまんねえな、もっと一般うけするのを撮らなきゃ、あまり観光客のいかないとこの少数民族ならまだすれてないかも、変わった祭りのシーンも絵になるな。
 
え?俺の本買いたくない、だったら買うなよ、見たくない、だったら見なきゃいいだろ、俺は写真家、なんか文句ある?」
 
あなたは次は何を撮る,盗る、つもりなんですか?
 
 

三井の返信

 あなたは僕にとって初めての「失われた読者」です。たぶん過去にも「もう、たびそらなんて見ない」と決意した人は何人もいたのでしょうが、さすがにメールで直接その決意を送ってくる人はいなかったのです。
 
 それはともかく、「たびそら」によって、あなたが旅と写真を楽しめなくなったのだとしたら、こんなに残念なことはありません。僕は多くの人にアジアの美しさや旅の楽しさを伝えたいと思って「たびそら」を作ったわけで、それが正反対の結果を生んだのは本当に残念なのです。
 
 
>別にいい写真が撮れなくても、自分なりに旅を楽しめればいいはずなのにね。
 
 その通りだと思います。まず自分が旅を楽しむことが何よりも大切です。そして写真撮影がその邪魔をしているのだとしたら、カメラを置いて旅に出ればいいと思います。
 
 あなたにとってそれが仕事ではないのなら、写真なんて無理に撮る必要はありません。それは僕にとっても同じことです。
 
 
>あなたのような写真を撮りたいと思うあまり、だんだん自分本来の写真から単なる旅空のコピーになりさがっているようになったこと。
 
 オリジナリティーのある写真を撮ることは、大変に難しいことだと思います。僕にもそれがあるのかどうか、正直言って自信がありません。同じようなカメラを持って、同じような被写体を撮ろうとするんだったら、出来上がった写真は必然的に似てくるわけです。そして僕の写真だって、結局は他の写真家の構図などを意識した上で撮られたものなのです。
 
 創作というものは、常に模倣から始まります。そして模倣と試行錯誤を繰り返した結果として、ほんの少しの自分らしさ、オリジナリティーというものが得られるのだと思います。
 僕もその途上です。まだ何も成し遂げてはいません。
 
 
>現地の子どもや大人が、牛を引いて歩いていても、水浴びしてても、民族衣装着て赤ん坊を抱いていても、なさけ容赦なく撮る自分の嫌らしい姿に気付いたからです。
 
 たぶん、この部分があなたと僕とが根本的に違う部分なのだと思います。
 著作にも書いていることだけれど、僕は常に被写体と対等なところに目線を置いて写真を撮ろうとしています。「撮ってあげる」でもなければ「撮らせてもらう」でもない。傲慢でも卑屈でもない。お互いの意識がぴったりとシンクロする瞬間というのがあるのです。たとえば、カンボジアの牛を引く少女を撮ったときのように。
 
 もちろん、そういう瞬間を捉えるのは容易ではありません。ときには「こんな風に撮るのはフェアじゃないな」と思うこともあるし、お金を要求されることも、撮影を拒絶されることもあります。特にアメリカ人のウィリアムとの二人旅では、そういう場面が多かった。それはある程度ウィリアムのプロジェクトに沿った写真を撮らなければいけなかったからです。
 
 でも、僕が一人でアジアの町を歩き回っているときには、僕は心から写真を撮ることを楽しんでいるし(たとえ困難であっても、その困難さを楽しんでいるのです)、僕が誰かから何かを「盗」っているわけではないと信じています。
 
 僕がやろうとしているのは、日常の中でごく当たり前に見過ごされている美しさに、光を当てるという仕事なのです。普通の人々が持っている表情の中に、かけがえのない輝きが宿る瞬間を切り取ることなのです。それが写真家として「何かを生み出す」ということなのだと思います。
 
 そのような目的がなくて、ただやみくもに「きれいな写真を撮ろう」とか「誰かを感心させる写真を撮ろう」としている人は、あなたのように「だんだんと自分の行為に嫌気がさす」か、あるいは「自分の感覚を麻痺させてしまう」かのどちらかの道筋を辿ることになるのではないでしょうか。
 
 あなたが最後に書いた「あなたはこう言うでしょう」という部分は、きっとあなた自身が旅の中で感じていることだと思うのだけれど、僕もこの中の一部は同じように感じることはありますね。(例えば、「誰が『マネー』って言葉を教えたんだよ」とか。本当に誰なんだろう?)
 
 けれど、他の多くの部分はあまり当てはまってはいません。少なくとも「これは売れるな」などと考えながら写真を撮ったことは一度もありません。
 
 僕は純粋に自分の心が動いたものにしかカメラを向けません。それは最初の旅でも今年の旅でも変わりません。むしろ近年その傾向が強まっているように思います。
 
 もうちょっとポピュラーな場所でポピュラーなものを撮るべきなんじゃないか、と考えることもたまにはありますが、それでも結局は頑なに自分のスタイルというものを貫いています。そういう意味ではプロフェッショナルではなくて、アマチュア的な精神をずっと持ち続けているのだと思います。
 
 そして今の僕にできるのは、自分が正しいと思うやり方で人を撮り、それを誠実に発表していくことだけなのです。
 
 僕が同じ場所を二度三度と訪れるのは、過去に撮った写真や本を直接人々に手渡すためです。それが作品を作り出す上で大切な役割を担ってくれた人々に対して、感謝の気持ちを伝える僕なりの方法なのです。
 
 今回の旅でも、カンボジアとインドネシアのアチェ州を再び訪ねました。そこで少女たちの成長を見つめたり、津波復興の現状を教えてもらったりしました。そしてそこで得た経験が、次の作品に生かされているのです。
 
 僕の作品が多くの人に読まれるということは、もちろん僕の収入にも繋がるわけだけど、それは次の旅へのステップともなっているのです。
 そのようにして旅を繰り返す中で、写真家として成長していければいいし、その過程を読者のみなさんと共有していきたいと思っています。
 
 写真の専門家から褒められたことはほとんどないし、何かの賞をもらったわけでもない。それでも僕が写真家として活動していられるのは、「たびそら」読者のみなさんのおかげです。僕が撮るアジアの人々の表情に「かけがえのない何か」が宿っていると感じている人が少なからずいるという事実が、僕の信念を支えているのです。 
 
 また気が向いたら、「たびそら」に戻ってきてください。
 僕はいつでもここにいます。
 
 

「失われた読者」さんからの返事

僕のかなりひねくれたかつ失礼な内容のメールに対し誠実に答えてくれてありがとう。
あなたの人柄のよさが伝わってきましたよ。
 
メールを送った時は、もしこのメールに対し返事を書かないようなら多分かなりの部分が図星だからだろうなと思ってました。
まあ、どんな人物かというのはなかなか判断しにくいもので、誠実さを装ってるだけの人も多々いますから。
 
元来はあなたの写真に対する嫉妬心で書いたのです。
あたたには笑顔で、なんで俺に対しては嫌な顔するんだみたいなね。
あるいはこちらの方がメインですけど、なんでいい被写体あるいはシーンに遭遇できるんだみたいなね。
旅空のようなシーンは、いかにもアジアの土地なら遭遇しそうで、実はなかなか有り得ないてことは、同じようにアジアの土地を歩いたことのある人なら分かると思います。
 
ちなみに、お送りした写真は元来は日本人の友人とカンボジア人の友人に対して送ったもので、これが自分の旅空だといえるのはあなたが指摘しているように、夕日を背景にした子供達と学校を見つめる少女の写真です。
 
ちなみに、送った写真は小型デジタルカメラで撮影したもので、本当に撮りたいと思った写真はフイルム式一眼レフカメラで撮ります。
併用してるのはデジカメの方は小型なので身軽に歩きたい時に持ってても邪魔にならないから。それと、被写体に撮った写真を見せられるから。ただし、僕の持ってるデジカメの欠点はピントを合わせてから撮るまでの間に間があいてしまい、ここぞとうい瞬間を撮れないから。分かってると思いますが、子供の表情というのは刻一刻変化してますよね、ですから、本当はすぐにピントの合わせて瞬時に撮れるタイプのデジカメにすべきなんですけど、まあ、値段が高いですからな。
他にも多々理由がありますけど、割愛します。
 
それで、学校を見つめる少女の写真なんですけど、旅空で、同じくカンボジアですけど、教室を見つめる少女の写真がありますよね。
問題はそこなんです。自分が本当にその被写体に引かれたから撮ったのか、それとも、おっ、旅空チックだから撮っちゃえ、と思ったから撮ったのか自分でも分からなくなり、そして後者じゃないかなと思えるようになってきたことが自分にとって問題なんです。
 
自分が心から撮りたいと思ったものを撮りたい、あるいは、自分の感性を大切にしたい、そう思ったからこそ旅空を見るのを止めようと思うのです。
その気持ちは今でも変わりません。
 
なんか、書き足りない気がしますけど、この辺で失礼させていただきます。
 
 

三井の返信

> あたたには笑顔で、なんで俺に対しては嫌な顔するんだみたいなね。
 
 もちろん僕だっていやな顔をされることはあります。気持ちが通じないことで苛立ったりすることもあります。
 でも、そういうこともひっくるめて旅じゃないですか? いやな日もあれば、いい日もある。雨の日もあれば、晴れる日もある。そのような気持ちの余裕がないと、長く旅をするのは難しいですね。
 
 
> 自分が心から撮りたいと思ったものを撮りたい、あるいは、自分の感性を大切にしたい、そう思ったからこそ旅空を見るのを止めようと思うのです。
 
 そう考えられているのなら、僕の方からこれ以上言うべきことはありません。あなたなりのやり方で、写真をそして旅することを心から楽しんでください。
 
 

「失われた読者」さんからの追伸

 前回のメールの部分で書き足りないことが、あると書きましたのが、それが、なんなのか一晩とスコータイ遺跡を自転車で走りながら考えてみました。ちなみに、いまはタイを旅行中です。
 
 あのようなメールを送ったのは確かに嫉妬心もあったかもしれませんが、それ以上にあなたが被写体、多くは貧しいアジアの人達、と対等の立場だと思ってること自体が欺瞞であり、感覚が麻痺してるからじゃないかと思ったからです。彼らにとって外国人旅行者は金持以外のなにものでもなく、どんなに安宿泊まろうが、安食堂でめしたべようがです。
 
 ましてや、あなたの手にしてるカメラは、日本人の俺でさえ買えません。
 高価なカメラを手にして歩いてること自体が、現地の子供達にカメラを向けてること自体が、それが観光地でないならなおさら、奇異な光景なんじゃないですか。
 
 まあ、最近はカメラ機能つき携帯電話が普及してるから写真を撮られることが貧しい人であってもまれではなくなってるかもしれませんが。逆に撮られちゃうかも。
 
 しかも、あなたは言葉も通じないそれどころか、単に道ですれちがっただけの相手を、自分では心が通じたと思ってるかもしれませんが、写真に撮っていいのが撮れたと悦にいってますよね。
 そして、そうして撮った写真を絵葉書や本にしておきながら、自分では売れるかどうか考えてないと考えてますよね。それって、感覚が麻痺してるからじゃないですか。
 
 それと、あなたは貧しさを美化しすぎてる。子供が牛を引いて歩いたり,水を汲んで歩いたりするのはなにも彼らが好き好んでやってる訳じゃないですよね。そうした、行為の裏側に彼らの厳しい生活の現状があるからでしょ。それが、あなたの写真では抜けてると思います。
 まあ、これはあなたの写真のスタイルや思考の問題であり、他人がとやかくいうことではないかもしれませんが。
 
 話を戻しますが、自分も道であった、子供の写真を撮ります。時には撮った写真をあげることもあります。そして、なかにはすばらしくよく撮れたと思える写真もあります。
 
 でも、なぜうまく撮れたのか、あるいはそう思えるのは何故なのかは自分でも説明できません。自分が彼らと対等だと思い上がる気持ちもありません。
 あなたは何故被写体と対等になれたと思うのか、そして、その根拠はなんなのかを教えてください。
 
 

三井の返信

> あなたが被写体、多くは貧しいアジアの人達、と対等の立場だと思ってること自体が欺瞞であり、感覚が麻痺してるからじゃないかと思ったからです。
 
 前にも書いたように、僕は「被写体と対等なところに目線を置いて写真を撮ろうとしている」のであって、それは僕自身が「被写体と対等の立場だと思っている」ということではありません。
 
 もちろん、僕らは豊かな国から来たリッチな旅人です。高価なカメラを持っていようが、みすぼらしい格好をしていようが、往復何万円もする航空券を買って自由に旅が出来る恵まれた環境にいることは確かですから。僕はその事実を否定しません。否定できるわけがありません。
 
 僕と僕が旅をする場所に住む人々は、育った環境も違うし、言葉も習慣も収入もまったく違います。置かれている立場はまったく違う。そういう両者が心を通わせることは確かに難しいでしょう。その困難は旅行記にもたびたび書いています。例えば、ネパールで出会った少女・サリタのように。
 
 しかし、僕は自分なりのやり方で、アジアの日常に目線を近づけようと努力しています。僕が旅行者のいない国や辺鄙な場所を旅するのは、そこに行けば自分がまったく無力になるからだし、そこでは日本語も英語も数百ドルの米ドルも、たいして役には立たないという事実に直面するからなのです。そのようにして自分が一人の無力な異邦人となることによって、僕とその土地の人々とを隔てる壁は確実に低くなるのです。
 
 そのような旅を続けることで、お互いの立場の違いを乗り越えて、心が通じ合う瞬間がきっと訪れるに違いない。僕はそう信じています。その信念にあまり根拠はありません。ただ信じているのだ、としか言えません。祈りのようなものかもしれません。
 
 
> 撮った写真を絵葉書や本にしておきながら、自分では売れるかどうか考えてないと考えてますよね。
 
 何度も言うようだけど、僕は「売れるかどうか」ということを考えて写真は撮っていません。
 
 確かに僕は自分の写真を作品という形にして、それを買ってもらうことで写真家として生活しています。しかし僕の中では、「旅をしている自分」と「作品づくりをしている自分」と「作品を経済活動に結びつける自分」が、明確に別れているのです。わかりやすく言うと、製造部と企画部と営業部が一人の人間の中に棲み分けをしているようなものです。そして「旅」をしている間は「経済活動」のことは一切考えていません。それは日本に帰ってからやればいいことだからです(そして今がまさにその時期です)。つまり営業部の人間は製造部に口出しをしないのです。
 
 旅に出ているときは、100%旅に集中する。目の前の光景にフォーカスし、目の前の笑顔に全神経を注ぐ。少なくとも僕の場合は、そのようにしないといい写真を撮ることができないし、いい出会いにも恵まれないのです。
 
 
> それと、あなたは貧しさを美化しすぎてる。子供が牛を引いて歩いたり,水を汲んで歩いたりするのはなにも彼らが好き好んでやってる訳じゃないですよね。そうした、行為の裏側に彼らの厳しい生活の現状があるからでしょ。それが、あなたの写真では抜けてると思います。
 
 写真家は自分が本当に見たいと思うものを見るものです。目を背けたくなるような貧しさがあるのがアジアだし、その中にとびきり豊かな表情が宿るのも同じアジアなのです。そして僕が見たいと思っているもの、最も強く惹きつけられるものは、厳しい現実の中にある一筋の光なのです。だから僕はアジアで笑顔を撮り続けています。
 
 現実は決して単純なものではありません。多層的であり混濁したものなのです。豊かさと貧しさ、美しさと醜さが隣り合って同居しているのです。
 そのような複雑な現実を僕なりの方法で切り取っていく。写真家として僕に出来ることはそれだけです。写文集「素顔のアジア」を読んでいただければ、僕の立場を理解してもらえると思います。
 

 それから、今後このような長文のメールを書くときは、書いてから一日が二日おいて、自分の書いた文章を読み直した上で送る方がいいと思います(僕はそうしています)。
 
 このメールはあなたが思い付いたことを瞬間的に書き連ねて、すぐに送っているのだと思います。だから感情が先走っているうえに、論点が不明確で、結局何が言いたいのかがわからない文章になってしまっているのです。
 
 まず、自分が何を言いたいのか、何を聞きたいのかを明らかにしてから、要点を整理して書くように心掛けるべきです。それが相手に敬意を払うということです。そして、良いコミュニケーションというのはお互いの敬意から生まれるものなのです。
 
 あなたがアジアを歩く中で、様々な矛盾やもどかしさを感じているのはわかります。その一部は僕も共感できます。
 しかしその苛立ちを力任せに他人にぶつけても、なんの解決にもなりません。それは旅人一人一人が自分の身に引き受けて、時間をかけて解決していくしかないのです。
 
 僕は他人のやり方にあれこれとケチをつけるよりも、自分のやり方でいい作品を生み出すべきだと考えているし、またそのように行動している人を尊敬しています。
 
 というわけで、もう僕の言うべきことはなくなったようです。
 この辺で終わりにしましょうか。