娘が一歳になりました。
 ちょうど1年前、満開の桜が風に揺れる4月7日に、この世に生まれ落ちてきたのです。

 あれから1年が経って、3キロもなかった体重は今や8キロを超えました。
 いつも抱かれているか眠っているかだった赤ん坊が、今では家中を這い回るようになり、驚くほど豊かな表情を見せるようにもなりました。
 今も「ふぬふぬ」とか「ぺにゃぺにゃ」といった意味不明の喃語を話しながら、脇目もふらず猛然と床の上を進んでいます。自分がしたいことの自己主張も始まって、おもちゃにしているテレビのリモコンや電話の子機(意外にメカニカルなものがお気に入りなのです)を取り上げられるとかんしゃくを起こすようになりました。
 感情の芽がぐんぐんと伸びていて、「よくわからないイキモノ」から「言葉を交わせるヒト」に変わりつつある。毎日起こる小さな変化にいつも驚かされています。

 3月11日。大津波が東北の街を次々にのみ込んでいく様子をテレビで呆然と眺めていた僕のかたわらで、娘はただニコニコと笑っていました。当たり前のことだけど、彼女には今起きていることがさっぱりわかっていないのです。本物の、まじりっけなしのイノセントな瞳。

 護らなくてはいけない、と強く思いました。
 と同時に、彼女が生きるに値する世界を作っていけるのだろうか、とも考えました。

 僕らは自然の力に対してあまりにも無力だし、1世代先、2世代先のことまで考えて物事を判断できる「賢さ」を持ちあわせてはいなかった。それが今回の震災と原発事故で明るみになった事実でした。
 その重い事実を受け止めながら、復興への道を歩まなければいけません。長くタフな道のりです。簡単には終わらないでしょう。グランドデザインの再設計と、ライフスタイルの変更も迫られるかもしれない。
 それでもきっと立ち上がります。立ち上げらなければいけない。

 床を這いずり回っている娘が、突然バランスを崩して顔面から崩れ落ちて、大泣きしています。と思ったらすぐに起き上がって、何事もなかったかのようにハイハイを始めました。
 命とは強いもの。たくましいもの。
 子供はその姿を通じて、そんなことを親に語りかけているのかもしれません。