質問:日本人女性のふわふわ感について

三井さんこんにちは。いつもHPを楽しく拝見しています。
今まで海外に滞在したり旅行したりして日本に帰るたび思うのですが、日本の女性たちはとてもキレイにメイクしてオシャレもばっちりです。日本女性ってかわいい!といつも思うのです。(自分はさておき。。)
と同時に、自立していない、ふわふわした感じを受けるのです。
 
それは、社会が求める女性像「女性はかわいくあるべき」という枠にみずから女性たちがおさまってるような…そんな気がするのです。もちろん人によりますが。
 
三井さんの写真の女性たちは、日本よりはるかに自由がなかったり女性の人権が低かったりする国の人たちである場合が多いです。それでもあんなに堂々と、地に足がついた感じでいます。
 
今私はシンガポールに住んでいますが、ここのような大都会の女性たちも、見た目は日本人と似ていますが(中華系)、なんと言うか堂々さ加減が日本女性と違います。
 
こんなふうに外国の女性を見ると、日本女性のふわふわ感というのはやっぱり日本だけなのか、どこからその違いがくるのか、つらつら考えてしまったりするのです。
 
たくさんの国のたくさんの女性たちを見てきた三井さんはどう思われるでしょうか?? ご意見をおきかせくださればさいわいです。

 
 

三井の答え

 僕も「日本女性ってかわいい!」というあなたの意見には100%同意します。というのも、僕が長い旅を終えて、成田空港なり関空なりに降り立った直後にいつも思うことは、「なんて女性が綺麗な国なんだろう!」ということですから。
 
 客観的に見ても、アジアの中における日本女性の小綺麗さは群を抜いています。ここで「小綺麗」という言葉を使ったのは、造形的な美しさと明確に分けたかったからです。
 
 女性が持って生まれた造形的な美しさは、日本人でも中国人でもインド人でもあまり変わらないと思います。もちろん民族的な違いはあります。目の大きさや肌の色や髪の毛の質といった部分は大きく違います。僕が言いたいのは、ある集団の中に占める「美人」と「普通の人」と「不美人」の割合というのは、どの国でもそれほど変わらないという事実です。
 
 例えば、僕にとってネパールは「美少女の国」なのですが(それは過去の写真を見れば理解していただけると思います)、そのネパールにしても、美人の割合が突出して高いわけではありません。「美人」と「普通の人」と「不美人」の割合というのは、日本と同じようなものなのです。
 
 つまり、日本人女性は美しいけれども、その美しさは持って生まれたものばかりでなく、むしろその後の努力によって磨かれた部分が大きいのではないか、というのが僕の意見です。
 
 そして、そのように美しさに磨きをかけられるようになった背景には、日本という国の物質的な豊かさがあるのです。ベトナムでも中国でも、女性の美貌に対する欲求は年々強くなっていますが、質の良い化粧品やセンスの良い服やアクセサリーを買ったり、エステティックサロンに通ったりできる女性は、まだまだごく少数のお金持ちだけでしょう。
 
 日本人女性はかわいいいし小綺麗だということを確認した上で、どうして「ふわふわ」としているのか、という話に移りましょう。
 
 ご指摘の通り、僕が旅をするアジアの国々において、女性の社会的地位というのは決して高くありません。子供を5人も6人も産み育て、畑や家畜の面倒も見ながら、家事の一切も引き受ける。そういうきつい労働をしているという現実があります。
 
 そのような社会では、「女性というもの」と「男性というもの」の違いは厳然としてあって、それが安定しているのです。「女にとっての幸せとは、家族のために尽くし、次の世代を育てること」という価値観が、揺るぎないものとして存在する社会なのです。
 
 そんな社会に生きる女性は、不自由さを背負っています。女性が誰にも頼らずに一人で生きていくことは大変に難しい。社会がそれを許容しないのです。
 
 しかし彼女たちは耕すべき土地と家族にしっかりと結びついている。そして、そのことによって「自分の居場所はここなのだ。自分はここで必要とされている存在なのだ」という確信を得ています。その確信こそが、彼女たちの「地に足の着いた」たたずまいの根源にあるのではないか。僕はそう考えています。
 
 しかしネパール女性のような「確固とした居場所」は、今の日本女性にはありません。
 男女雇用機会均等法の施行からずいぶん時間が経って、建て前としての男女平等はすっかり浸透しています。けれども実際には、結婚・出産後も同じペースで仕事を続ける女性は少数派です。企業側にもそれがわかっているから、女性のキャリア職の採用は相変わらず少ない。能力はあってもそれを発揮できないというイライラ感、諦めのようなものを感じている女性は多い。
 
 その一方で、以前と変わらない「専業主婦志向」も社会の底流にはしっかりと流れていて、それが「セレブへの憧れ」や「ヒルズ族との合コン」とかいうかたちで持ち上げられたりもする。「やっぱオンナの幸せは、お金持ちのオトコをゲットすることよねー」なんて身も蓋もない本音が、十分なリアリティーを持って響いたりもする。
 
 例えば、「専業主婦として夫と家族を支えるのが女の幸せだ」と胸を張って言えた時代は良かったのです。あるいはベトナムやカンボジアのように、ろくに働きもしない男たちの尻をバシバシと叩き、汗水垂らして働くのが女ってものよ、と実感できる社会ならいいのです。
 
 しかし今の日本においては、誰かが決めてくれた「女の幸せ」ってものはどこにもない。生き方の鋳型のようなもの、「私はこういう女になりたい」というコースは無数にある。異なった価値観がデパートのショーケースの中にずらりと並べられていて、「さぁどれを選んでもいいのよ」と言われている。だけどどれかひとつを選ぶことができない。ひとつを選んだら、もうひとつを選ばなかったことを後悔しそうで怖い。そのようなどっちつかずの中途半端な状態。とりたてて大きな不満はないけれど、何となく座り心地の悪い現実。それが今の若い日本女性が置かれている状況だと思うのです。
 
 決められた鋳型がないというのは、「男の幸せ」の場合でも同じなのかもしれないけれど、やはり男の場合には「仕事ができてなんぼ」という価値観がまだ支配的です。輸出依存型の日本経済だって健在だから、仕事の中に、あるいは経済活動の中に、自分の居場所・アイデンティティーを見出すことは女性ほど難しくないのです。
 
 日本女性が綺麗になり、なおかつふわふわとしているのは、日本社会が豊かになり、かつ自由になったということの表れである。今までの議論をまとめるとこうなります。
 
 日本人は自由を持て余している、という言い方も出来るでしょう。自由って、これはこれでなかなか大変なことなのです。自由には責任が伴うのです。自分で選んだ人生なんだから言い訳ができないし、誰かを恨むわけにもいかないのです。どこかの誰かが「幸せになれる道」を決めてくれて、そっちに向けて流れていく方が、あるいは決断を保留し続けることの方が、遙かに楽なのです。
 
 とまぁ、ずいぶん話の間口を広げてしまったように思うので、この辺でやめておきましょう。
 
 ここに書いたのは僕なりの現状認識であって、だからどうするべきかという未来への展望のようなものはありません。それは一人一人の女性が決めるべきことだと思います。