写真家 三井昌志「たびそら」 アジア旅行記 フォトギャラリー 通信販売 写真家・三井昌志プロフィール ブログ

>> 旅の質問箱へ戻る



■ 「お米の食べ方」 

(ネパールでは)今でも、こんな原始的な方法で米を作ってるんですね。我が家も、農家なのでわかります。近年、日本では機械化が進んでますから。これでは、たくさんの米を収穫できませんね。でも、安全でおいしい米は食べられるかも。いろんな国があり、いろんな生き方がありますね。自分流が一番ですね。
そう、質問でした。
この収穫した米は、どうやって食べるんでしょうか。
まだ、籾から脱穀して玄米にして、白米にして・・・・玄米で食べるんでしょうか。同じ農家として、気になります。


■ 三井の答え

 ネパールをはじめとしてアジア各国では、まだまだ人の手と水牛の力に頼った稲作が主流です。もちろんタイやフィリピンなど、経済発展を遂げつつある国では機械化も進みつつあるわけですが、そのためには大変なコストがかかるわけです。
 水牛はその辺の草を食べていればいいわけなので、農業機械の購入費も、維持費も、ガソリン代もかからないわけです。もちろん糞は肥料にもなります。
 また家畜ばかりでなく、人手にかかるコストもものすごく安いのです。そこが日本との大きな違いです。本当にタダみたいなものです。
 最近、リモコン操作で無人で田植えをするという機械が開発された、と日本のニュースで取り上げられていましたが、あれが何百万円するのかわからないけれど、その機械化のコストよりも人件費の方が高いというのが日本という国なんですね。

 そう、答えでした(^_^;)
 収穫したお米は、ご指摘のように脱穀して白米にして食べています。ネパールでは毎日違う農家に泊まっていたけれど、玄米を食べるということはありませんでした。
 それから、ネパールの山村ではお米を硬めに炊いて、それをタルカリ(カレー)と混ぜつつ、手で練りながら食べる(インドでもネパールでも食べ物は右手で食べます)というのが一般的でした。ご飯がレンガみたいなかたちで固まっているのが普通なのです。
 一度、日本のご飯みたいに米粒同士がばらけて炊き上がったものが出てきたことがあったのですが、それを見たネパール人のガイドは「これは失敗作だな」と言うのです。でも僕にとってはこちらの方が美味しい。そう伝えると、彼は「それじゃ、これからはこんな風に失敗したものは『ジャパニーズ・スタイルだ』って言えばいいんだね」と笑ったのでした。
 お米の食べ方も地域差があるものなんですね。




■ 「フィルムとデジタルの違い」

三井さんの撮った写真は、色がすごく鮮やかなんです。ハッキリしてるとゆうか。
人物でも、ものすごく細かい髪の毛の部分とか、肌の部分とか、実物が目の前にいるかのように、すごくキレイだと思うんです。
デジカメかフィルムだったら、どちらがキレイ(私の思う、上に書いたようなキレイ)に撮れますか?
三井さんは全部デジカメで撮ってらっしゃるんですよね?
フィルムとの違いを感じたことはありますか?


■ 三井の答え

 僕は2001年の最初の旅から、一貫してデジタル一眼レフカメラを使っています。その前には少しだけ(半年ぐらいかな)フィルムカメラを使っていましたが、本格的に写真を撮り始めてからはずっとデジタル一辺倒です。

 しかし、デジタルカメラの画質に心から満足していたわけではありませんでした。特に最初に使っていたEOS−D30というカメラは、画素数も300万画素と少なかったし、色の出方にもかなりばらつきがありました。これはデジタル一眼レフカメラというもの自体がまだまだ発展途上の段階にあったころの製品だったのです。
 そんなわけで、僕はデジタルカメラで写真を始めたものの、フィルムの質感というものにずっと憧れを抱き続けていたのです。デジタルで撮っているからこそ、ポジフィルムの鮮やかな発色やリアルな質感というものを常に意識していたのです。例えばスティーブ・マッカリー野町和嘉さんの写真に見られる質感は、デジタルカメラにはどうやっても出せないものなのです。

 ところがこの5年の間にデジタルカメラは大きく進化しました。僕が今使っているEOS-5Dというカメラは、1280万画素という解像度もさることながら、発色が非常に自然になった(デジタルっぽさが消えた)という点がこれまでと大きく違う点です。それは今回の旅で撮った写真を見ていただければわかると思います。
 僕はEOS−5Dの登場で、デジタル一眼レフカメラの進化はひとつの到達点のようなところに来たと感じています。銀塩(フィルム)カメラとデジタルカメラとの差は確実に縮まり、今では「どちらでも綺麗に撮れる」と言える状況になっています。「デジタルはフィルムの画質には勝てないから」という言い訳は、今後は通用しなくなるでしょうね。
 そうなってくると、デジタルカメラならではのアドバンテージ(ランニングコストが一切かからない、荷物が軽量になる、撮った写真をすぐに確認できる、感度を自在に変えられる、など)が、フィルムカメラを過去のものに追いやってしまうのは、自明のことのように思います。システムとしての扱いやすさは比べものになりませんから。
 もちろん、これからも銀塩カメラが使われる場所が消えることはないでしょう。しかしそれは一部のユーザーに限られるだろうし、コストも非常に高くつくことになると思います。純粋な趣味か、純粋なアートか、そのような領域でのみ使われることになるでしょうね。

 デジタルカメラの登場によって、誰もが簡単に綺麗な写真を撮れるようになったということは、本当に素晴らしいことだと思います。
 しかし綺麗に撮れるのが当たり前になったからこそ、これからは「何を撮るのか」「どのように撮るのか」という写真の根本の部分が、よりいっそう重要になってくるのではないでしょうか。




■ 「好きなことが見つからない」

はじめまして。いろいろなサイトを検索していくうちにこちらのサイトを拝見し、こんな質問でもいいのかと思いながら、メールさせていただきます。旅にはぜんぜん関係ないのですが・・・
現在29歳の(女性)なのですが、自分の本当にしたいことがわからなくてあせっています・・・
周りの友人はほとんど結婚し、家庭をもつ年頃ですが、それもうまくいかず、日々毎日をだらだらすごしてしまっています。
友人や親などからは、「自分の好きなことをすればいいんだ」、と口をそろえていわれ、いろいろな本などにもそうゆう風に書かれています。
が、その好きなこと自体わからないどうしようもない状況です。いろいろ自分の興味のあるスクールに参加して(写真もそのひとつです)自分の好きなことを見つけようとするのですが、どれかひとつに絞りきることができません・・・・
三井さんが会社を退社したあと、写真を撮ることを選択されたのは何かきっかけがあったのでしょうか?
なんだか人生相談みたいなんですけど、ご返信いただければ幸いです。
偶然みつけたサイトですが、写真をみていてなんだか元気がでました。今後もがんばってください。


■ 三井の答え

 まず、「29歳で独身で焦っている」ということですが、僕の周りには男女を問わず30歳を超えても独身で過ごしている人が多いので、それほど焦らなくてもいいのではないかと思いますよ。
 まぁそうやってぼんやりとしていると、本当に婚期を逃してしまうのかもしれないけれど。でも、焦って結婚相手を見つけても、ろくな結果にならないんじゃないかなぁ。

 さて、「好きなことが見つからない」「ひとつに絞りきれない」ということですが、今、あなたの興味が多方向に向いているのだとしたら、それをあえてひとつに絞ることはないのではないかというのが僕の意見です。焦る必要はありません。
 結婚相手と同じで、本当に打ち込めることって、「早く見つけなきゃ」「今決めなきゃ」というプレッシャーの元で探すものではないように思います。興味のアンテナを広げていれば、必ず何かが引っかかってくるはずです。それまでじっと待つことも大切です。

 僕の場合、会社を辞めた後すぐに「写真を撮ろう」と思ったわけではありません。旅に出る前には、「写真を専門的にやろう」なんて考えていなかったし、ましてや「写真家になろう」なんて気持ちは1%もなかった。せっかく長く旅をするんだから、その経験がその後の人生に生かせればいいとは思っていましたが、それが写真だとは思っていなかった。
 しかし、今僕は写真家を名乗って活動しています。結局のところ、人生というのは偶然や成り行きによって、ずいぶん左右されるものなんですね。だから大切なのは、常に興味のアンテナを広げて、それに引っかかったものに対して、素直に反応することなんだと思います。

 写真を撮るという行為には、自分が張っているアンテナの感度を上げてくれる効果があるように思います。いつもなら、ただ漫然と見過ごしてしまう日常の様々なシーンも、カメラを持って歩ることによて細かく観察するようになる。写真って、様々な事物の中から自分の心が動かされるものにフレーミングする「選択の技法」なんですね。
 写真を撮っていると、「あ、この光が好きだな」とか、「今の表情を残しておきたいな」という閃きを感じるようになります。自分が本当に好きなものが、無意識の領域から意識の上にのぼってくるのです。カメラというのは他者を記録する道具であると同時に、自分を知る道具でもあるんです。
 そういう意味では、それを専門的にやるかどうかは別にしても、写真を撮ることはあなたの「好きなことを見つける」役に立つのではないかと思います。




■ 「アジアの子供は歯並びがよい?」

今回質問としてメールさせていただいたのは、この前「たびそら」のページの写真をぼんやりと眺めていて、ふとあることに気づいて、実際はどうなんだろうかとひとつ気になったからです。
それは、「歯並び」です。
写真の中の笑っている子どもたちの歯並びがとてもいい。
僕は現在学校教員をしていますが、矯正器具をつけている生徒が多いです。
僕自身も小学校時代は口の中に矯正器具を入れていました。
けれど、写真の中の子どもたちは、本当にきれいな歯をしています。
それは食べ物のせいなのか、乳歯だからなのか、それともたまたま僕が見た写真がそうだったのか、
はっきりした結論を出すことなんて誰にもできないでしょうが、三井さんはどう考えられますか?


■ 三井の答え

 大変面白い質問ですね。
 僕も歯に関しては素人ですから、これから書くことは、あくまでも僕が旅で感じた雑感と、それに基づく推測だと思ってお読みください。

 おっしゃるように、僕が「たびそら」で公開している写真には、歯並びのよい子供が多く写っていると思います。(例えばこの子とかこの子
 その理由は、質問メールにも列挙していただいてるように、ひとつではないと思います。
 まず、「三井がカメラを向ける相手が、歯並びの悪い子よりもよい子の方が多かった」という可能性がありますね。これは否定できません。歯並びの善し悪しは笑顔の輝きを大きく左右しますから、やはり歯並びのよい子の方を優先して撮るということはあると思います。

 虫歯の子は、アジアにもけっこういます。虫歯というものは砂糖を多く取るようになった社会にはびこるもののようですが、アジアだってそうした「食の近代化」の波に飲み込まれつつあるのです。
 しかし「歯並び」に関しては、日本人よりもアジアの子供たちの方が良いという印象はあります。
 その理由のひとつは、粗食にあると思います。さっきの「食の近代化」と矛盾した話かもしれないけれど、アジアの農村でごく普通に食べられている食品というのは、質素でかたいものが多いのです。
 例えばネパールで一番のご馳走とされる山羊の肉にしても、だいたいは骨ごとぶった切ったものがそのままカレーの中に入っていて、何度も強く噛まなければ喉を通らないほどかたいものなのです。それだって、たまにしか食べられないご馳走なのです。
 自然のありのままの恵み、つまりは粗食を食べることによって子供たちの顎が鍛えられ、それにともなって顎の骨ががっしりと成長し、歯並びがよくなるのではないかというのが僕の推測です。
 日本でも、江戸時代の歴代の将軍なんかは、柔らかいものばかりを食べていたせいで庶民に比べて極端に顎が細くなっていたことが知られていますよね。

 それじゃ、現代社会に生きる我々が歯並びをよくするためには、メジャーリーガーみたいに四六時中ガムをくちゃくちゃ噛んでいればいいのでしょうか? 
 そうかもしれないけれど、あれはあれで見ていてあまり気持ちのいいものではありませんね。




■ 「失われた読者」からのメール


はじめまして
2年ほど前からあなたのサイトを愛読してたものです。
しかし、今後あなたのサイトを見るのを止めるのでその理由をお知らせしようとおもいます。
そんなこと、知らせてくてもいいと思うかもしれませんけど。
理由としてはあなたのような写真を撮りたいと思うあまり、だんだん自分本来の写真から単なる旅空のコピーになりさがっているようになったこと。
そして、旅空チックな写真が撮れないと旅がつまらないものに思えるようになったこと。
別にいい写真が撮れなくても、自分なりに旅を楽しめればいいはずなのにね。

そして、もっとも、大きな理由としては、現地の子どもや大人が、牛を引いて歩いていても、水浴びしてても、民族衣装着て赤ん坊を抱いていても、なさけ容赦なく撮る自分の嫌らしい姿に気付いたからです。
まあ、これらはあなたにはまったく責任のないことですけど。

あなたはこう言うでしょう、「ど素人が俺の物まねしてもいい写真なんか撮れるわけねえだろう、いい被写体を求めてりゃ向こうのほうからやってくるものなのさ、ほら、むこうからカモがネギじゃなくて、かわいい女の子が牛ひいて歩いてくるじゃないですか、あなたの写真を撮らせてくださいなと心の中で思うと、ほら通じた!いい笑顔が帰ってきた、パシャ、ほらいい感じの絵葉書の出来上がり、100枚は売れるかな、幸せだろ、学校行けなくても、貧乏でも、牛がいればいいんだろ、なに?マネー、ふざけんじゃない、あっちへいけ!ち、これだから観光地は嫌なんだ餓鬼がすれてくるから。誰だよ、マネーなんて教えたのは。
お、水を汲んでるぞ、それ、撮っていいかい?いい?いいよな?パシャ。それマネーだマネー
1ドルあげるよ、おまえの写真で絵葉書作っても、本作っても、文句いうなよ、金あげたんだからな。1ドルて、貧乏なおまえらには大金だもんな。でも、それ以上はあげらんない、いろいろ経費がかさんでな、このカメラだって高いんだぞ、おまえのおやじが1年働いても買えねえだろ。
お、今度は水浴びしてるぞ、それ撮ちゃえ、なんだよ、嫌な顔して逃げんなよ、俺は他の観光客とは違って本2冊も出してるプロなんだぞ。まあ、いいか、餓鬼なんかいくらでもいるしな。
さて、久しぶりに美少女のとこ行ってみるか、よーひさしぶり、おや、すっかり貧乏くさくなって、これじゃ誰も買わねえな、まあいいか子供なんかいくらでもいるんだから、もっと、奇麗な子を本の表紙にするか。
さては、次はどこにいくか、地震のあったパキスタンなんかいいかも、家が潰れても、家族が死んでも、けなげに復興にいそしんでるだろうな、もちろん、笑顔で、その姿を撮れば売れるかも、でも、それだけじゃつまんねえな、もっと一般うけするのを撮らなきゃ、あまり観光客のいかないとこの少数民族ならまだすれてないかも、変わった祭りのシーンも絵になるな。
え?俺の本買いたくない、だったら買うなよ、見たくない、だったら見なきゃいいだろ、俺は写真家、なんか文句ある?」

あなたは次は何を撮る,盗る、つもりなんですか?


■ 三井の返事

 あなたは僕にとって初めての「失われた読者」です。たぶん過去にも「もう、たびそらなんて見ない」と決意した人は何人もいたのでしょうが、さすがにメールで直接その決意を送ってくる人はいなかったのです。
 それはともかく、「たびそら」によって、あなたが旅と写真を楽しめなくなったのだとしたら、こんなに残念なことはありません。僕は多くの人にアジアの美しさや旅の楽しさを伝えたいと思って「たびそら」を作ったわけで、それが正反対の結果を生んだのは本当に残念なのです。


>別にいい写真が撮れなくても、自分なりに旅を楽しめればいいはずなのにね。

 その通りだと思います。まず自分が旅を楽しむことが何よりも大切です。そして写真撮影がその邪魔をしているのだとしたら、カメラを置いて旅に出ればいいと思います。
 あなたにとってそれが仕事ではないのなら、写真なんて無理に撮る必要はありません。それは僕にとっても同じことです。少なくとも僕にとっては、写真を撮ることよりも見知らぬ土地を旅することの方がずっと重要です。
 もし「写真を撮ることをやめるか、旅することをやめるか、どちらかを選べ」と言われたら、僕は迷うことなく写真をやめます。


>あなたのような写真を撮りたいと思うあまり、だんだん自分本来の写真から単なる旅空のコピーになりさがっているようになったこと。

 オリジナリティーのある写真を撮ることは、大変に難しいことだと思います。僕にもそれがあるのかどうか、正直言って自信がありません。同じようなカメラを持って、同じような被写体を撮ろうとするんだったら、出来上がった写真は必然的に似てくるわけです。そして僕の写真だって、結局は他の写真家の構図などを意識した上で撮られたものなのです。
 創作というものは、常に模倣から始まります。そして模倣と試行錯誤を繰り返した結果として、ほんの少しの自分らしさ、オリジナリティーというものが得られるのだと思います。
 僕もその途上です。まだ何も成し遂げてはいません。


>現地の子どもや大人が、牛を引いて歩いていても、水浴びしてても、民族衣装着て赤ん坊を抱いていても、なさけ容赦なく撮る自分の嫌らしい姿に気付いたからです。

 たぶん、この部分があなたと僕とが根本的に違う部分なのだと思います。
 著作やホームページにも書いていることだけれど、僕は常に被写体と対等なところに目線を置いて写真を撮ろうとしています。「撮ってあげる」でもなければ「撮らせてもらう」でもない。傲慢でも卑屈でもない。お互いの意識がぴったりとシンクロする瞬間というのがあるのです。たとえば、カンボジアの牛を引く少女を撮ったときのように。
 もちろん、そういう瞬間を捉えるのは容易ではありません。ときには「こんな風に撮るのはフェアじゃないな」と思うこともあるし、お金を要求されることも、撮影を拒絶されることもあります。特にアメリカ人のウィリアムとの二人旅では、そういう場面が多かった。それはある程度ウィリアムのプロジェクトに沿った写真を撮らなければいけなかったからです。

 でも、僕が一人でアジアの町を歩き回っているときには、僕は心から写真を撮ることを楽しんでいるし(たとえ困難であっても、その困難さを楽しんでいるのです)、僕が誰かから何かを「盗」っているわけではないと信じています。
 僕がやろうとしているのは、日常の中でごく当たり前に見過ごされている美しさに、光を当てるという仕事なのです。普通の人々が持っている表情の中に、かけがえのない輝きが宿る瞬間を切り取ることなのです。それが写真家として「何かを生み出す」ということなのだと思います。
 そのような目的がなくて、ただやみくもに「きれいな写真を撮ろう」とか「誰かを感心させる写真を撮ろう」としている人は、あなたのように「だんだんと自分の行為に嫌気がさす」か、あるいは「自分の感覚を麻痺させてしまう」かのどちらかの道筋を辿ることになるのではないでしょうか。

 あなたが最後に書いた「あなたはこう言うでしょう」という部分は、きっとあなた自身が旅の中で感じていることだと思うのだけれど、僕もこの中の一部は同じように感じることはありますね。(例えば、「誰が『マネー』って言葉を教えたんだよ」とか。本当に誰なんだろう?)
 けれど、他の多くの部分はあまり当てはまってはいません。少なくとも「これは売れるな」などと考えながら写真を撮ったことは一度もありません。
 僕は純粋に自分の心が動いたものにしかカメラを向けません。それは最初の旅でも今年の旅でも変わりません。むしろ近年その傾向が強まっているように思います。
 もうちょっとポピュラーな場所でポピュラーなものを撮るべきなんじゃないか、と考えることもたまにはありますが、それでも結局は頑なに自分のスタイルというものを貫いています。そういう意味ではプロフェッショナルではなくて、アマチュア的な精神をずっと持ち続けているのだと思います。
 そして今の僕にできるのは、自分が正しいと思うやり方で人を撮り、それを誠実に発表していくことだけなのです。

 僕が同じ場所を二度三度と訪れるのは、過去に撮った写真や本を直接人々に手渡すためです。それが作品を作り出す上で大切な役割を担ってくれた人々に対して、感謝の気持ちを伝える僕なりの方法なのです。
 今回の旅でも、カンボジアとインドネシアのアチェ州を再び訪ねました。そこで少女たちの成長を見つめたり、津波復興の現状を教えてもらったりしました。そしてそこで得た経験が、次の作品に生かされているのです。

 僕の作品が多くの人に読まれるということは、もちろん僕の収入にも繋がるわけだけど、それは次の旅へのステップともなっているのです。
 そのようにして旅を繰り返す中で、写真家として成長していければいいし、その過程を読者のみなさんと共有していきたいと思っています。

 写真の専門家から褒められたことはほとんどないし、何かの賞をもらったわけでもない。それでも僕が写真家として活動していられるのは、「たびそら」読者のみなさんのおかげです。僕が撮るアジアの人々の表情に「かけがえのない何か」が宿っていると感じている人が少なからずいるという事実が、僕の信念を支えているのです。 

 また気が向いたら、「たびそら」に戻ってきてください。
 「たびそら」はいつでもここにいます。


■「失われた読者」さんからの返事

僕のかなりひねくれたかつ失礼な内容のメールに対し誠実に答えてくれてありがとう。
あなたの人柄のよさが伝わってきましたよ。
メールを送った時は、もしこのメールに対し返事を書かないようなら多分かなりの部分が図星だからだろうなと思ってました。
まあ、どんな人物かというのはなかなか判断しにくいもので、誠実さを装ってるだけの人も多々いますから。

元来はあなたの写真に対する嫉妬心で書いたのです。
あたたには笑顔で、なんで俺に対しては嫌な顔するんだみたいなね。
あるいはこちらの方がメインですけど、なんでいい被写体あるいはシーンに遭遇できるんだみたいなね。
旅空のようなシーンは、いかにもアジアの土地なら遭遇しそうで、実はなかなか有り得ないてことは、同じようにアジアの土地を歩いたことのある人なら分かると思います。

ちなみに、お送りした写真は元来は日本人の友人とカンボジア人の友人に対して送ったもので、これが自分の旅空だといえるのはあなたが指摘しているように、夕日を背景にした子供達と学校を見つめる少女の写真です。

ちなみに、送った写真は小型デジタルカメラで撮影したもので、本当に撮りたいと思った写真はフイルム式一眼レフカメラで撮ります。
併用してるのはデジカメの方は小型なので身軽に歩きたい時に持ってても邪魔にならないから。それと、被写体に撮った写真を見せられるから。ただし、僕の持ってるデジカメの欠点はピントを合わせてから撮るまでの間に間があいてしまい、ここぞとうい瞬間を撮れないから。分かってると思いますが、子供の表情というのは刻一刻変化してますよね、ですから、本当はすぐにピントの合わせて瞬時に撮れるタイプのデジカメにすべきなんですけど、まあ、値段が高いですからな。
他にも多々理由がありますけど、割愛します。

それで、学校を見つめる少女の写真なんですけど、旅空で、同じくカンボジアですけど、教室を見つめる少女の写真がありますよね。
問題はそこなんです。自分が本当にその被写体に引かれたから撮ったのか、それとも、おっ、旅空チックだから撮っちゃえ、と思ったから撮ったのか自分でも分からなくなり、そして後者じゃないかなと思えるようになってきたことが自分にとって問題なんです。
自分が心から撮りたいと思ったものを撮りたい、あるいは、自分の感性を大切にしたい、そう思ったからこそ旅空を見るのを止めようと思うのです。
その気持ちは今でも変わりません。

なんか、書き足りない気がしますけど、この辺で失礼させていただきます。


■三井の返事

> あたたには笑顔で、なんで俺に対しては嫌な顔するんだみたいなね。

 もちろん僕だっていやな顔をされることはあります。気持ちが通じないことで苛立ったりすることもあります。
 でも、そういうこともひっくるめて旅じゃないですか? いやな日もあれば、いい日もある。雨の日もあれば、晴れる日もある。そのような気持ちの余裕がないと、長く旅をするのは難しいですね。


> 自分が心から撮りたいと思ったものを撮りたい、あるいは、自分の感性を大切にしたい、そう思ったからこそ旅空を見るのを止めようと思うのです。

 そう考えられているのなら、僕の方からこれ以上言うべきことはありません。あなたなりのやり方で、写真をそして旅することを心から楽しんでください。


■「失われた読者」さんからの追伸

 前回のメールの部分で書き足りないことが、あると書きましたのが、それが、なんなのか一晩とスコータイ遺跡を自転車で走りながら考えてみました。ちなみに、いまはタイを旅行中です。
 あのようなメールを送ったのは確かに嫉妬心もあったかもしれませんが、それ以上にあなたが被写体、多くは貧しいアジアの人達、と対等の立場だと思ってること自体が欺瞞であり、感覚が麻痺してるからじゃないかと思ったからです。彼らにとって外国人旅行者は金持以外のなにものでもなく、どんなに安宿泊まろうが、安食堂でめしたべようがです。

 ましてや、あなたの手にしてるカメラは、日本人の俺でさえ買えません。
 高価なカメラを手にして歩いてること自体が、現地の子供達にカメラを向けてること自体が、それが観光地でないならなおさら、奇異な光景なんじゃないですか。
 まあ、最近はカメラ機能つき携帯電話が普及してるから写真を撮られることが貧しい人であってもまれではなくなってるかもしれませんが。逆に撮られちゃうかも。
 しかも、あなたは言葉も通じないそれどころか、単に道ですれちがっただけの相手を、自分では心が通じたと思ってるかもしれませんが、写真に撮っていいのが撮れたと悦にいってますよね。
 そして、そうして撮った写真を絵葉書や本にしておきながら、自分では売れるかどうか考えてないと考えてますよね。それって、感覚が麻痺してるからじゃないですか。

 それと、あなたは貧しさを美化しすぎてる。子供が牛を引いて歩いたり,水を汲んで歩いたりするのはなにも彼らが好き好んでやってる訳じゃないですよね。そうした、行為の裏側に彼らの厳しい生活の現状があるからでしょ。それが、あなたの写真では抜けてると思います。
 まあ、これはあなたの写真のスタイルや思考の問題であり、他人がとやかくいうことではないかもしれませんが。

 話を戻しますが、自分も道であった、子供の写真を撮ります。時には撮った写真をあげることもあります。そして、なかにはすばらしくよく撮れたと思える写真もあります。
 でも、なぜうまく撮れたのか、あるいはそう思えるのは何故なのかは自分でも説明できません。自分が彼らと対等だと思い上がる気持ちもありません。
 あなたは何故被写体と対等になれたと思うのか、そして、その根拠はなんなのかを教えてください。


■三井の返事

> あなたが被写体、多くは貧しいアジアの人達、と対等の立場だと思ってること自体が欺瞞であり、感覚が麻痺してるからじゃないかと思ったからです。

 前にも書いたように、僕は「被写体と対等なところに目線を置いて写真を撮ろうとしている」のであって、それは僕自身が「被写体と対等の立場だと思っている」ということではありません。
 もちろん、僕らは豊かな国から来たリッチな旅人です。高価なカメラを持っていようが、みすぼらしい格好をしていようが、往復何万円もする航空券を買って自由に旅が出来る恵まれた環境にいることは確かですから。僕はその事実を否定しません。否定できるわけがありません。

 僕と僕が旅をする場所に住む人々は、育った環境も違うし、言葉も習慣も収入もまったく違います。置かれている立場はまったく違う。そういう両者が心を通わせることは確かに難しいでしょう。その困難は旅行記にもたびたび書いています。例えば、ネパールで出会った少女・サリタのように。
 しかし、僕は自分なりのやり方で、アジアの日常に目線を近づけようと努力しています。僕が旅行者のいない国や辺鄙な場所を旅するのは、そこに行けば自分がまったく無力になるからだし、そこでは日本語も英語も数百ドルの米ドルも、たいして役には立たないという事実に直面するからなのです。そのようにして自分が一人の無力な異邦人となることによって、僕とその土地の人々とを隔てる壁は確実に低くなるのです。
 そのような旅を続けることで、お互いの立場の違いを乗り越えて、心が通じ合う瞬間がきっと訪れるに違いない。僕はそう信じています。その信念にあまり根拠はありません。ただ信じているのだ、としか言えません。祈りのようなものかもしれません。


> 撮った写真を絵葉書や本にしておきながら、自分では売れるかどうか考えてないと考えてますよね。

 何度も言うようだけど、僕は「売れるかどうか」ということを考えて写真は撮っていません。
 確かに僕は自分の写真を作品という形にして、それを買ってもらうことで写真家として生活しています。しかし僕の中では、「旅をしている自分」と「作品づくりをしている自分」と「作品を経済活動に結びつける自分」が、明確に別れているのです。わかりやすく言うと、製造部と企画部と営業部が一人の人間の中に棲み分けをしているようなものです。そして「旅」をしている間は「経済活動」のことは一切考えていません。それは日本に帰ってからやればいいことだからです(そして今がまさにその時期です)。つまり営業部の人間は製造部に口出しをしないのです。
 旅に出ているときは、100%旅に集中する。目の前の光景にフォーカスし、目の前の笑顔に全神経を注ぐ。少なくとも僕の場合は、そのようにしないといい写真を撮ることができないし、いい出会いにも恵まれないのです。


> それと、あなたは貧しさを美化しすぎてる。子供が牛を引いて歩いたり,水を汲んで歩いたりするのはなにも彼らが好き好んでやってる訳じゃないですよね。そうした、行為の裏側に彼らの厳しい生活の現状があるからでしょ。それが、あなたの写真では抜けてると思います。

 写真家は自分が本当に見たいと思うものを見るものです。目を背けたくなるような貧しさがあるのがアジアだし、その中にとびきり豊かな表情が宿るのも同じアジアなのです。そして僕が見たいと思っているもの、最も強く惹きつけられるものは、厳しい現実の中にある一筋の光なのです。だから僕はアジアで笑顔を撮り続けています。
 現実は決して単純なものではありません。多層的であり混濁したものなのです。豊かさと貧しさ、美しさと醜さが隣り合って同居しているのです。
 そのような複雑な現実を僕なりの方法で切り取っていく。写真家として僕に出来ることはそれだけです。写文集「素顔のアジア」を読んでいただければ、僕の立場を理解してもらえると思います。


 それから、今後このような長文のメールを書くときは、書いてから一日が二日おいて、自分の書いた文章を読み直した上で送る方がいいと思います(僕はそうしています)。
 このメールはあなたが思い付いたことを瞬間的に書き連ねて、すぐに送っているのだと思います。だから感情が先走っているうえに、論点が不明確で、結局何が言いたいのかがわからない文章になってしまっているのです。
 まず、自分が何を言いたいのか、何を聞きたいのかを明らかにしてから、要点を整理して書くように心掛けるべきです。それが相手に敬意を払うということです。そして、良いコミュニケーションというのはお互いの敬意から生まれるものなのです。

 あなたがアジアを歩く中で、様々な矛盾やもどかしさを感じているのはわかります。その一部は僕も共感できます。
 しかしその苛立ちを力任せに他人にぶつけても、なんの解決にもなりません。それは旅人一人一人が自分の身に引き受けて、時間をかけて解決していくしかないのです。

 僕は他人のやり方にあれこれとケチをつけるよりも、自分のやり方でいい作品を生み出すべきだと考えているし、またそのように行動している人を尊敬しています。

 というわけで、もう僕の言うべきことはなくなったようです。
 この辺で終わりにしましょうか。



>> 旅の質問箱へ戻る



  Copyright (C) 2005 Masashi Mitsui. All Rights Reserved.
www.tabisora.com