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■ 「トイレ事情」
はじめまして、私は京都に住む18歳の浪人生です。素顔のアジアを購入して以来、旅空のblogも本当に楽しみに読まさせて頂いています。私もアジアが大好きです。 そして私は最近の3月下旬にタイのチェンマイの山岳民族の家に泊めさせて頂いたのですが、一番驚いたのはトイレの使い方でした。トイレットペーパーを使わないとは聞いていたのですが、手でお尻を洗うというのはかなりの衝撃でした。てっきり葉っぱでも使うのかと思っていました。私は手で洗うことは出来たのですが、どうしてもその手が気になって石鹸が手放すことができませんでした。 そこで質問なんですが各国、各地域のトイレ事情はどのようになってるのでしょうか?教えてください。
■ 三井の答え
トイレ事情は確かに地域によって違いますね。アジアではトイレットペーパーを使わずに水で洗うのが一般的です。インド人は右手で食事をし、左手でお尻を洗う、というやつですね。紙を使うのは経済的に発展した国の都市生活者が主だと思います。 ネパールの山村ではトイレそのものがありませんでした。モンゴルやアフガニスタンの遊牧民も、もちろんトイレなんて持っていません。こういう場合は、「その辺で」することになるわけです。森の中に行くとか、藪の中に入ってするとか、そういうことですね。
しかし、旅人が現地の人のやり方を無理に真似る必要はありません。トイレットペーパーを手に入れることは比較的簡単なので、宿ではそれを使えばいいのです。僕もインドだろうがどこであろうが、いつもトイレットペーパーを使って用を足していました。 「郷には入れば郷に従え」式に現地のやり方を何でも受け入れるハードコアな旅人もいて、それはそれでひとつのスタイルだとは思うのですが、僕はそこまでやる気はないのです。
ところで、もっとも印象に残っている「トイレ」は、ごく最近、インドのプリーという町の郊外にある漁村を訪れたときに見たものです。 その村の「トイレ」というのは、実に「砂浜」そのものなのです。朝、僕らが浜辺を歩いていると、お尻を丸出しにして波打ち際にしゃがみ込んでいる子供やおっさんをたくさん目にすることになります。彼らは隠そうという意識をまったく持っていません。性器も排泄物も、当たり前のようにみんな剥き出しなのです。 残された排泄物は、もちろん最終的には波がさらっていくのですが、朝のトイレラッシュ時などは、まだ波に処理されずに置き去りにされた排泄物が視界一面に散らばっているのです。その朝、僕らは様々な種類の排泄物を目の当たりにすることになりました。黄色っぽいの、濃い茶色っぽいの、大きいの、小さいの、水っぽいの、とぐろを巻いたの。さながら陶芸の見本市にでも来たみたいでした。 実は僕はこれと同じ光景をインドネシアの漁村でも目にしていたのですが、インドの方が圧倒的に人口が多いこともあって、こちらの方がインパクトは上でした。
僕と同行者のウィリアムは、この浜辺を「エコ・サステイナブル・ビーチ」と呼んでいました。ベーシックなかたちの環境循環型トイレと言えなくもないからです。人々が残していった排泄物は、寄せては返す波によってやがて海の中に消えていき、それが海の中で分解され、プランクトンの栄養となり、それを魚が食べ、その魚を漁民たちが捕って食べ、消化されて再び排泄物となるわけです。無駄なもののない、合理的なトイレだとも言えるのです。 しかし、実際にこの「エコ・サステイナブル・ビーチ」を歩くのは、なかなか骨でした。うっかりよそ見をしていると、誰かが残した排泄物の中に足を突っ込んでしまうことになりかねないからです。 実際、同行者のウィリアムは波を避けようとした瞬間に、大きめの排泄物を靴で思いっきり踏んづけてしまい、「ファァァック!」「シィィィット!」と大声で叫んでいました。それはまさにファックでシットな状況であり、それ以外の言葉はないという心の叫びでした。シィィィット!
ところでこの「エコ・サステイナブル・ビーチ」のすぐ隣には、リッチなインド人のバカンス客のための小綺麗なビーチがあって、そこではシミひとつないサリーを着たご夫人と、サングラスをかけてお腹の出たお父さんと、よそ行きのドレスを着た子供たちが、仲良く並んで記念写真を撮っている場面に出くわすことになります。もちろん、バカンス用のビーチには人糞は転がっていません。パラソルと土産物屋が並び、客寄せのためのラクダがゆったりと砂浜を歩いている。隣の漁村とは、全くの別世界なのです。
インドを旅していると、唖然とするほどの貧富の差や、聖なるものと俗なるもの、美しいものと醜いものが、当たり前のように隣り合っている光景に何度も何度も直面するわけですが、「エコ・サステイナブル・ビーチ」はそのひとつの典型でした。
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■ 「航空券の買い方」
先日、「素顔のアジア」を読ませて頂きました。とてもおもしろい内容で感動しました。 私もアジアが大好きなんです。去年にベトナムへ行ってからハマってしまって、カンボジア、タイと行きました。 ただ、すべて大学からの研修みたいな感じで、、決められたスケジュールの通りに案内されて、観光して、田舎でボランティアして、とても楽しいのだけれど、何かが物足りないんです。 自分の足で行動してみたい、という願望があるんです。 今、今年の夏休みを利用して2週間ほどでも1人で行ってみようかと考えています。
昔から写真を撮るのが好きで、風景写真をよく撮ってたんですが、アジアに行くようになってから、アジアの子供達の笑顔に惚れて、人の写真もよく撮るようになりました。 もっといろんな写真を撮ってみたい、そして、いろんな国をこの目で見てみたい、と思うようになりました。
三井さんのように何気なく、思うがままに旅をしてみたい、と。
でも、やっぱり初めての一人旅。なかなか最初の一歩が踏み出せません。ずっと悩んでて、最近は悩むより先に行動しちゃえ!と半分投げやりになってます。。。 今、私は大学4年で、就活もあって、将来の夢はまた別にあるのでそちらの方も頑張らないといけないのですが、就職してしまったら自由はきかないし、学生最後の年だからこそ、今の間に思い切って旅をしてみようと思ったり。。。親からは反対されそうですが・・・。
すみません、長くなりました。そこで質問なんですが、三井さんは飛行機の手配など、どのようにされているのでしょうか?いつも人任せでやってもらってばかりなので全然分からなくて、、、海外で帰りのチケットを取る事もありましたでしょうか?よければ教えていただきたいのですが。。。
■ 三井の答え
初めての一人旅の最初の一歩を踏み出すのは、なかなか勇気がいることですよね。 僕の本があなたの背中を押すきっかけとなったら、それはとても嬉しいことです。一人旅、ぜひ実現させてください。きっといろいろなものが得られると思います。
日本からのチケットは、いつもインターネットで一番安いものを探して買っています。今はそういうサイトがたくさんあるから、すごく簡単だと思いますよ。例えばこんなサイトやこんなサイトなど。
僕の場合、タイのバンコクを旅の起点にしてあちこち飛び回ることが多いのですが、そんなときにはバンコクの旅行者街であるカオサン通り周辺にある旅行代理店が大変便利です。いろいろな格安チケットを扱っていますし、情報も集まってきますからね。
バンコクに限らず、デリーでも、カトマンズでも、バリ島でも、とにかく旅行者が集まる場所には、安い航空券を扱う旅行代理店が軒を連ねているものなので、まず困るということはありません。そうやって自分なりのツアーを組んでいくのって、なかなか楽しいものですよ。
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■ 「カメラを持たずに後悔したこと」
私も写真は大好きで、青空と人の笑顔を撮るのが大好きです。 でも、やっぱりいつでもカメラを持っているわけではなくて、「あ〜今カメラ持っていればよかったぁ。。」と感じたこと数知れず。
そこで三井さんに質問です。 もし、とても素敵な瞬間に立ち会えたときに、たまたま手元にカメラがなくて、ちょっと取りに行けば持って来られるような状況だった時、三井さんならどうしますか?
せっかく出会えたその瞬間を大切に感じて、最後までその場でその光景を目に収めるか、それともカメラを撮りに行っている間に終わってしまうかもしれない事を覚悟して、それでも写真を撮りたいと思うか、それとも、そんな事が絶対に起きないぐらい肌身離さずカメラを手元に持ち続けているのでしょうか?(笑) 私はいつもこの究極の選択に悩まされます。
私の場合は素敵な瞬間や、人のふいな笑顔に出会えることは、決して狙ったり待っていて起きる事ではないだけに、その瞬間に立ち会えた事に感謝して、いつも写真を諦めてしまうのですが、やっぱりその後ちょっと後悔なんですよね。。
■ 三井の答え
もちろん答えは「肌身離さずカメラを持つ」です。持つだけではなく、常にシャッターを押せる状態で持っておく。これも非常に重要なことです。だから僕はカメラバッグというものを持っていません。「いい被写体にめぐり会う」「カメラバッグを開ける」「スイッチを入れる」「カメラを構える」このような一連の動作にかかる数秒間で、大切なシャッターチャンスを逃すことだって多いからです。
イチローも「準備こそが何よりも大切だ」というようなことを言っていました。バッティングはピッチャーがボールを投げてから始まるのではない。ピッチャーが投球動作に入る前から、あるいは打席に入る前から、万全の状態にしておかないと、いいバッティングはできないということなのでしょう。 写真――特に一瞬の表情を捉えるスナップ写真――にも、同じことが言えると思います。心を動かされる被写体にいつ出会えるかわからないのだから、そのために万全の準備をしておかなければいけない。カメラを身につけずに外を歩くなんて、野球選手がバットを持たずに打席に入るようなものです。
・・・とは言え、僕も旅のあいだ常にカメラを持ち歩いているわけではありません。一眼レフなんて重いし、邪魔だし、だから夜になってちょっとご飯を食べに行くとか、買い物をしようと街に出たときなどには、カメラを持たないこともあります。 そういうときに、いい被写体に出会ってしまったらどうするか? まぁ諦めますね。諦めて、特に後悔はしない。
そして、また別の場所で別の出会いがあるだろうと信じて、歩き続けるわけです。
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■ 「旅に出て失ったもの」
沢木耕太郎さんの「一号線を北上せよ」の単行本を読んで、何かこうしっくりこないような感じがしていたので、ネットで検索していたところ、ヒットしました。読んだのは、2005年6月の記事です。 私は本を読み終えた後、何が自分でも言いたいのか良くわからないけど、「深夜特急」とは何かが違うと感じました。 (中略) 沢木耕太郎さんも三井さんも、仕事をやめて大きな旅に出ておられるんですが、そうすると、旅に出ないほうの人生と比べて、将来というか、その先の人生が大きく変わってしまいますよね? 仕事をやめてしまうわけだし。旅に出る時に、その辺のことはどう考えていましたか? 私は今年大学に入学して、このまま普通に大学生活を送って就職、という無難な道と、思い切って休学して長いたびに出てみたい、という思いがあります。今までは何に対しても、とりあえずやってみる!という感じだったのですが、このことにはうまく答えが出ません。でも実際にそうしている人も沢山いることを知って、今行かないと後悔するような気もします。 三井さんは、仕事をやめて旅に出て、失ったものは大きかったとおもいますか? 私は、どうしたら自分が後悔しないかなぁと考えてしまいます。「そんなこと自分でかんがえろよ」って感じなんですけど、どうやってふんぎりをつけたのかを聞きたいです。
■ 三井の答え
僕が会社を辞めて旅に出ることで失ったものはあまりないですね。安定した収入とか、リスクの少ない人生設計とか、そういうものは確かに失ったかもしれないけれど、それは僕の人生においてそれほど重要な意味を持つものではありません。 反対に僕が旅で得たものは本当に貴重なものばかりです。写真を撮る楽しさを知ったこと、アジアの日常の豊かさに触れたこと、違った環境でサバイブする力・・・それはサラリーマンを続けていても絶対に手に入らなかったものです。
しかし、あなたが言うように「大学生活を送って就職することが無難な道」だとは僕は思いません。それが「無難な道」であるかどうかは、その人次第です。たとえどんな道であっても、本人が「無難で平凡でつまらない」と思ってしまえばそうなるし、「挑戦しがいのある道だ」と思えばそうなるのです。 逆に、「長く旅に出たら自分が変わる」というのも、一種の幻想なのです。自分を変えるのは自分自身でしかないのです。カンボジアがインドがチベットがあなたを変えてくれるわけではない。もちろん旅の経験は大きな変化のきっかけにはなるけれど、そのきっかけをどんな風に生かすのかは、あなた自身の問題なのです。 僕にとって重要なのは、「旅に出た」こと自体ではなく、「長旅を自分なりに全うし、その後の人生に繋げることができた」という自信なのです。 人生において何かを手に入れるためには、やはり何かを差し出さなければいけないでしょう。 リスクの全くない人生なんてあり得ないし、仮にそんなものが存在するとして、その人生はハッピーなものでしょうか? いつ死ぬかわからないから、僕らは今を懸命に生きるわけだし、いつ失敗するかわからないから、たゆまぬ努力を続けるわけです。
何かを失うことを恐れていては、何もできません。
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■ 「ラップトップPCのネットへの接続」
いつもホームページとメルマガを楽しく拝見しています。
旅の最中にもパソコンを持ち歩いているようですが、ネットカフェなどにあるインターネットのケーブルと接続する際に、何か必要な物とかはありますか?
どこのネットカフェでもそのまま繋ぐことができるのでしょうか?
ちなみにインド北部とネパールに行く予定です。
お返事お待ちしております。
■ 三井の答え
ネットカフェにあるコンピューターは全てLANによってインターネットに接続していますので、そのLANケーブルを拝借して、自分のラップトップのLANポートに差し込んでやればOKです。他の道具は一切必要ありません。僕の知る限り、どの国でも事情は同じです。
少しだけややこしいのは、IPアドレスの設定です。IPアドレスが自動取得の設定になっているネットカフェであれば、何の設定もいらないのですが、もしそうでない場合には、「コントロールパネル」→「ネットワーク接続」→「ローカルエリア接続」→「TCP/IP」からIPアドレスを打ち込んでやらなければいけません。
この作業はやや面倒ではありますが、ネットカフェの店員に頼めば、きっと親切に教えてくれるでしょう。もし「ちょっと俺にはわからないな」と言われたら、諦めて別の店に行きましょう。IPアドレスの設定は、一度覚えてしまえば簡単です。
これでもう、日本語の使えるネットカフェを探し回ったり、使いづらいウェブメールでイライラすることから解放されるはずです。ほんと、便利になりましたね。
ここでアジア各国のネット事情を比較してみましょう。
接続スピードと料金の安さで、共に抜きんでているのはフィリピンでした。僕が旅した国の中ではベストのネット環境だと言っていいでしょう。マニラは若干高いけれど、田舎のパラワン島やサマール島では1時間15ペソ(30円)という圧倒的な安さで、しかもスピードも東南アジアレベルを軽く飛び越えて、ブロードバンドに迫る勢いなのです。さらには、フィリピンのネットカフェの多くに、ラップトップ接続用のテーブルが設けてあるので、いちいちLANケーブルを付け替えたりする手間も要らない。まったく文句の付けようがない。「ブラボー!」なのです。
反対に、ネット環境ワーストワンに輝く(?)のは、東ティモールです。この国には首都のディリにしかネットカフェはないのですが、競争原理が働いていないせいか、とにかく高い。1時間3ドル(360円)というのは、他に例を見ないぐらいの高値です。そんなわけで、他のアジア諸国のように地元の若者が気楽に通える場所とはなっていない様子でした。
インドネシアのネットカフェは、ちゃぶ台みたいな低い机の上にパソコンが置いてあって、客は床の上に座るというスタイルがわりに一般的でした。それから、若いカップルが肩を抱きながら同じディスプレイを見つめているというまことに暑苦しい光景(エアコンがあまり効いていないので、実際にとても暑い)も、この国ではよく目にしました。しかし恋人と一緒に見るウェブサイトというのは、どういう種類のものなんですかね。僕にはちょっと想像がつきません。「たびそら」はきっと違いますね。
およそ旅人の行きそうなところは、どこにでもネットカフェがある。その事実が旅人に大きな影響を与えているのは間違いないでしょう。10年前には一度母国を離れてしまうと、手紙や馬鹿高い国際電話ぐらいしか連絡の手段がなかったわけで、それは否応なしに自分と母国との距離を遠ざけていた。
それが今や、世界のどこにいても母国語のニュースをチェックできるし、家族や友達とのお喋りだって、苦もなくできるようになったわけです。世界が確実に狭くなり、長旅がよりカジュアルなものになってきています。
しかし、僕は旅のあいだはあまり頻繁にネットに接続していません。ネットカフェが存在しない田舎を旅することが多いのも確かですが、それと同時にネットから――つまり日本の情報から――切り離された状態に身を置くことが必要だとも感じているのです。
情報を遮断し、自分のホームから精神的に遠ざかる――これを僕は「情報の断食」と名付けているのですが――ことによって、目の前の未知の世界に自分の意識がフォーカスしやすくなるのです。自分の目で見たもの、からだで感じたものを、そのまま受け取ることができるようになる。それが僕の旅にとっては、とても重要なことなのです。
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