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■ 旅の質問箱「現金かTCかカードか」
旅人度チェックでは「放浪の旅人」レベルの者です。 三井さんは旅行中に必要なお金をどのように準備、管理されていますか? クレジットカード、キャッシュカード、T/C、現金などがありますが、クレジットカードはアジアの安宿や 田舎ではあまりアテにならないでしょうし、ATMも都市でないと置いてなさそうです。 と言って、全部T/Cや現金ではないと思うのですが・・・。 また、手持ちのT/Cや現金はドルが基本ですか?日本円も持ち歩きますか?
■ 三井の答え
僕は米ドルのTC(トラベラーズチェック)を基本にして、米ドルの現金、日本円の現金を補助的に持っています。盗まれるリスクを考えるとTCがベターなのですが、アジアの田舎に行くとなかなかTCを交換してくれなかったり、やたらと時間がかかったりするので、現金が一番便利です。 TCは絶対に(と強調しておきたい)アメリカン・エクスプレスで作ることをお勧めします。マスターカード、トーマスクックはダメです。去年、インドネシアのスマトラ島ではマスターカードのTCを両替してもらうのにさんざん苦労しました。どうやら偽造TCを使った詐欺事件があったらしく、「アメリカン・エクスプレスしか受け取れない」と言われたのです。アメックスではそのようなトラブルは一度もありません。
クレジットカードも持っていますが、これはほとんど使いません。ATMで手間をかけずに現地通貨が引き出せるのは魅力的ですが、手数料がかなり高いのです。後で明細を見てぎょっとすることになります。 しかし最近のATMの普及ぶりには目を見張りますね。この数年でアジアのどの国にも一気に普及しました。タイやインドは言うに及ばず、カンボジアの小さな町にも、東ティモールの首都にもありました。ATMでキャッシングのできない国というのは、今やほとんどないでしょう。とても便利な世の中になりました。
僕は両替に関しては、かなりおおざっぱです。だいたいその国で使う分の通貨は、大都市でまとめて両替してしまいます。僕の旅はバイクを使って田舎町を転々とするというスタイルなので、両替できる場所が限られているからです。リスクは多少高くなりますが、両替のために右往左往したり、銀行で何十分も待たされる(アジアでは往々にしてこういうことが起こります)のは嫌なのです。
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■ 旅の質問箱「女性の一人旅について」
はじめまして。 人も食べ物もぜんぶ大好きな国、タイ。 三井さんの写真を見て、ますます大好きになりました。 さて、わたしは学生時代から休みの度に女友達と2人で小さなバックパックをしょっていろんな国をブラブラしてきました。 最近は半分仕事で1人外国へ行く機会が増え、短期でも、観光客だらけの場所よりも地元の人の生活が見えるような場所へ行ったり、食べ物をたべたりして、その国を感じたいな、と思います。 そんなとき、ネックになるのが女性だということです。 トラブルに巻き込まれないよう安全なホテルを選び、貴重品の管理をきちんとするのはいいのですが、ぶらぶらする場所や時間が制限されてしまうような気がしています。 治安がよくても整然とした街中や観光客がいっぱいの観光地ばかりにいるのは退屈ですよね。 例えばタイでも、男だったらもっと気軽にナイトマーケットや屋台へいけるのになぁ、大都市じゃない町に滞在するのも楽しいだろうな〜と残念に思っています。 滞在中、現地の人と仲良く話ができるようになっても、実は下心がある場合もあったりして、これまた「男だったらなぁ〜」と思います。 三井さんにぜひ、ご意見を伺いたいのですが、女1人が、安全に現地の人の生活が見える場所に滞在したり、ぶらぶらしたりする方法はあるんでしょうか? もしなにか名案があればご教授くださいましたら幸いです。
■ 三井の答え
女性の一人旅が安全かどうか。実際のところは、女性の一人旅経験者に聞いてみるのが一番いいでしょう。僕は男なので、男の立場からしかアドバイスできないからです。 お書きになっている通り、女性の一人旅だとどうしても行動範囲が狭まってしまいます。これはある程度仕方のないことだと思います。いくら「自分は男に負けない勇気と行動力がある」と自負する女性でも、受け入れ先の事情というものには逆らえません。女性が一人で旅をするということ自体が理解できないというイスラム国。執拗に結婚を迫ってくる東南アジアの男たち。辺鄙な場所に行けば行くほど、「なぜ女が一人で旅を?」という好奇の視線に晒されることは間違いありません。質問攻めに辟易するということもあるでしょう。
しかし僕は今までに旅先で出会ってきた女性たちの多くは、「自分が女であること」をうまく利用しながら旅をしていました。もちろん、これはいい意味で、です。 女性であるということのハンディキャップというものは確かに存在します。しかし女性であることの利点もまた大きいのです。 日本人女性はたいてい実際の年齢よりも若く見られるし、さらに小柄だったらほとんど「子供」にしか見られない。そういう人が大きなバックパックを担いでえっちらおっちら歩いていたら、「助けてあげよう」と手を差し伸べたくなるのが人情です。それがきっかけとなって、かけがえのない出会いの機会を得た。そういうエピソードはよく聞きます。か弱く見えるということは、デメリットでもあり、同時にメリットでもあるのです。
また、女性の写真を撮る場合も、異性よりも同性の方が撮りやすいでしょう。シャイな人が多いアジアの女性たちも、同姓の旅人になら心を開きやすいかもしれません。
男性と同じようなスタイルの旅を目指すのではなく、女性であることを生かせる旅の方法を模索してはどうでしょうか。それが僕からのアドバイスです。
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■ 旅の質問箱「日本人女性のふわふわ感について」
三井さんこんにちは。いつもHPを楽しく拝見しています。 今まで海外に滞在したり旅行したりして日本に帰るたび思うのですが、日本の女性たちはとてもキレイにメイクしてオシャレもばっちりです。日本女性ってかわいい!といつも思うのです。(自分はさておき。。) と同時に、自立していない、ふわふわした感じを受けるのです。 それは、社会が求める女性像「女性はかわいくあるべき」という枠にみずから女性たちがおさまってるような...そんな気がするのです。もちろん人によりますが。
三井さんの写真の女性たちは、日本よりはるかに自由がなかったり女性の人権が低かったりする国の人たちである場合が多いです。それでもあんなに堂々と、地に足がついた感じでいます。 今私はシンガポールに住んでいますが、ここのような大都会の女性たちも、見た目は日本人と似ていますが(中華系)、なんと言うか堂々さ加減が日本女性と違います。
こんなふうに外国の女性を見ると、日本女性のふわふわ感というのはやっぱり日本だけなのか、どこからその違いがくるのか、つらつら考えてしまったりするのです。 たくさんの国のたくさんの女性たちを見てきた三井さんはどう思われるでしょうか?? ご意見をおきかせくださればさいわいです。
■ 三井の答え
僕も「日本女性ってかわいい!」というあなたの意見には100%同意します。というのも、僕が長い旅を終えて、成田空港なり関空なりに降り立った直後にいつも思うことは、「なんて女性が綺麗な国なんだろう!」ということですから。 客観的に見ても、アジアの中における日本女性の小綺麗さは群を抜いています。ここで「小綺麗」という言葉を使ったのは、造形的な美しさと明確に分けたかったからです。 女性が持って生まれた造形的な美しさは、日本人でも中国人でもインド人でもあまり変わらないと思います。もちろん民族的な違いはあります。目の大きさや肌の色や髪の毛の質といった部分は大きく違います。僕が言いたいのは、ある集団の中に占める「美人」と「普通の人」と「不美人」の割合というのは、どの国でもそれほど変わらないという事実です。 例えば、僕にとってネパールは「美少女の国」なのですが(それは過去の写真を見れば理解していただけると思います)、そのネパールにしても、美人の割合が突出して高いわけではありません。「美人」と「普通の人」と「不美人」の割合というのは、日本と同じようなものなのです。 つまり、日本人女性は美しいけれども、その美しさは持って生まれたものばかりでなく、むしろその後の努力によって磨かれた部分が大きいのではないか、というのが僕の意見です。 そして、そのように美しさに磨きをかけられるようになった背景には、日本という国の物質的な豊かさがあるのです。ベトナムでも中国でも、女性の美貌に対する欲求は年々強くなっていますが、質の良い化粧品やセンスの良い服やアクセサリーを買ったり、エステティックサロンに通ったりできる女性は、まだまだごく少数のお金持ちだけでしょう。
日本人女性はかわいいいし小綺麗だということを確認した上で、どうして「ふわふわ」としているのか、という話に移りましょう。 ご指摘の通り、僕が旅をするアジアの国々において、女性の社会的地位というのは決して高くありません。子供を5人も6人も産み育て、畑や家畜の面倒も見ながら、家事の一切も引き受ける。そういうきつい労働をしているという現実があります。 そのような社会では、「女性というもの」と「男性というもの」の違いは厳然としてあって、それが安定しているのです。「女にとっての幸せとは、家族のために尽くし、次の世代を育てること」という価値観が、揺るぎないものとして存在する社会なのです。 そんな社会に生きる女性は、不自由さを背負っています。女性が誰にも頼らずに一人で生きていくことは大変に難しい。社会がそれを許容しないのです。 しかし彼女たちは耕すべき土地と家族にしっかりと結びついている。そして、そのことによって「自分の居場所はここなのだ。自分はここで必要とされている存在なのだ」という確信を得ています。その確信こそが、彼女たちの「地に足の着いた」たたずまいの根源にあるのではないか。僕はそう考えています。
しかしネパール女性のような「確固とした居場所」は、今の日本女性にはありません。 男女雇用機会均等法の施行からずいぶん時間が経って、建て前としての男女平等はすっかり浸透しています。けれども実際には、結婚・出産後も同じペースで仕事を続ける女性は少数派です。企業側にもそれがわかっているから、女性のキャリア職の採用は相変わらず少ない。能力はあってもそれを発揮できないというイライラ感、諦めのようなものを感じている女性は多い。 その一方で、以前と変わらない「専業主婦志向」も社会の底流にはしっかりと流れていて、それが「セレブへの憧れ」や「ヒルズ族との合コン」とかいうかたちで持ち上げられたりもする。「やっぱオンナの幸せは、お金持ちのオトコをゲットすることよねー」なんて身も蓋もない本音が、十分なリアリティーを持って響いたりもする。
例えば、「専業主婦として夫と家族を支えるのが女の幸せだ」と胸を張って言えた時代は良かったのです。あるいはベトナムやカンボジアのように、ろくに働きもしない男たちの尻をバシバシと叩き、汗水垂らして働くのが女ってものよ、と実感できる社会ならいいのです。 しかし今の日本においては、誰かが決めてくれた「女の幸せ」ってものはどこにもない。生き方の鋳型のようなもの、「私はこういう女になりたい」というコースは無数にある。異なった価値観がデパートのショーケースの中にずらりと並べられていて、「さぁどれを選んでもいいのよ」と言われている。だけどどれかひとつを選ぶことができない。ひとつを選んだら、もうひとつを選ばなかったことを後悔しそうで怖い。そのようなどっちつかずの中途半端な状態。とりたてて大きな不満はないけれど、何となく座り心地の悪い現実。それが今の若い日本女性が置かれている状況だと思うのです。 決められた鋳型がないというのは、「男の幸せ」の場合でも同じなのかもしれないけれど、やはり男の場合には「仕事ができてなんぼ」という価値観がまだ支配的です。輸出依存型の日本経済だって健在だから、仕事の中に、あるいは経済活動の中に、自分の居場所・アイデンティティーを見出すことは女性ほど難しくないのです。
日本女性が綺麗になり、なおかつふわふわとしているのは、日本社会が豊かになり、かつ自由になったということの表れである。今までの議論をまとめるとこうなります。 日本人は自由を持て余している、という言い方も出来るでしょう。自由って、これはこれでなかなか大変なことなのです。自由には責任が伴うのです。自分で選んだ人生なんだから言い訳ができないし、誰かを恨むわけにもいかないのです。どこかの誰かが「幸せになれる道」を決めてくれて、そっちに向けて流れていく方が、あるいは決断を保留し続けることの方が、遙かに楽なのです。
とまぁ、ずいぶん話の間口を広げてしまったように思うので、この辺でやめておきましょう。 ここに書いたのは僕なりの現状認識であって、だからどうするべきかという未来への展望のようなものはありません。それは一人一人の女性が決めるべきことだと思います。
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■ 旅の質問箱「写真うつりの善し悪し」
いつも「たびそら」が更新されるのをワクワクしながら待っている一読者です。初めて質問します。「旅の質問箱」に相応しいかどうかわからない個人的な質問ですが、答えていただければ幸いです。 私は子供の頃から写真写りが悪い方だと思ってきました。写真に撮られるのがとても嫌だったのです。集合写真なんかでも、いつも後列の隅っこで小さくなっています。 三井さんが撮っているポートレートを拝見していると、どれもため息が出るほど美しいので、「ひょっとしたら私でもキレイに撮ってくれるのかしら?」などと思ってしまいます。 人によって写真写りの善し悪しというのはあるものなのでしょうか? それとも重要なのは写真の腕の方なのでしょうか?
■ 三井の答え
僕は写真うつりの善し悪しというものは、基本的にはないと思っています。
もちろん、移ろいゆく人の表情のほんの一瞬を切り取った写真には、連続した時間の中での実体とはかけ離れた印象を与えるものもあります。しかしそれさえも、現実の一側面であることには変わりないのです。
写真というのは冷徹で客観的な画像の定着です。サン=テグジュペリが『人間の土地』の中で、「飛行機は分析の道具である」と言っているけれど、写真機にも同じことが言えます。「カメラは分析の道具」なのです。
その客観的な画像の定着に対して、「私はこんな顔ではない」と目を伏せたりするのは、その人の客観的なイメージと、自分自身が思い描く主観的なイメージとのギャップが原因ではないかと思います。
誰だって不美人よりは美人の方がいいし、美男の方がいいと心の底では思っているはずです。でも実際にそうである人は少数です。「こうありたい自分」と「現実の自分」との差は誰もが持っていて、それが大きい人ほど「写真うつりが悪い」と思いたがるのではないでしょうか。
僕自身のことを振り返ってみても、やはり「写真うつりが悪い」と思っていた時期がありました。自分が写っている写真を見るとがっかりするものだから、中学や高校時代に撮られた集合写真や卒業アルバムなんかは、なるべく見ないようにしてきました。
たぶん自意識過剰だったのでしょう。現実にある客観的な自分と、自己イメージとが合致していないということを認めたくなかったので、写真の方を否定していたのだと思います。
でも、年を経るに従って、自分の写真を見たり、自分の顔を鏡を眺めたりしても、たいして何も思わなくなりました。まぁ鏡を覗き込んで「よし、今日もいい顔してる!」なんて声を掛けたことは一度もありませんし(そういうことをやっている人もいるらしいですね)、相変わらずあまり冴えない顔がそこにはあるわけですが、「こんな顔でもいいか」と思えるようになってきたのです。
大人になるということは、そのようにして現実の自分に折り合いを付けていくことなのかもしれません。
ところで、僕は「たびそら」の立ち上げ当初からプロフィールに顔写真を載せてきたので、「顔に自信があるんですか?」などと聞かれることもあるのですが、さっきも書いたように決してそんなことはありません。
それではなぜ顔写真を公開するのか。それはやはり僕自身が「撮る側」の人間だからでしょう。何万人という人を撮り続けている人間が、その作品のプロフィールに自分の顔を出さないのはフェアではないと思うのです。
それから僕は、匿名であり顔が見えないことが当たり前であるホームページやブログに、あえて顔を出すことには価値があるとも考えています。名前や顔を隠すことによって思ったことを何でも書ける自由が得られるのは確かですが、それと引き替えにその言葉の信頼性を失っているという事実は肝に銘じておくべきです(その典型が「2ちゃんねる」ですね)。顔って、それがどんな顔であれ、とても大切なものなのです。
ご質問の件に戻りましょう。
僕はこれまでに数多くの人の顔を撮ってきましたが、その立場から言えば、人の顔には「美しい顔」「美しくない顔」という基準の他にも、「味のある顔」や「味のない顔」という基準や、「存在感のある顔」「存在感のない顔」という基準もあります。好みというものも、人によって大きく違います。
「写真うつりが悪い」と思い込んでいる人でも、そのような別の基準から自分の顔を見直してみると、新しい発見があるかもしれません。
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■ 旅の質問箱「写真のテーマ」
三井さんはどんな風に写真のテーマを決めていますか? 自分の場合は風景写真なので空とか雲とか花とかあと色とか結構テキトーです。 三井さんの場合、目的地(旅行先)に着いて街をぶらついてから決めるんですか、それとも旅に出る前にある程度テーマを決めているんですか?
■ 三井の答え
僕はいつもはっきりとしたテーマを決めずに旅を始めます。何か特別に見たいものがあるわけではないし、行きたい場所を絞っているわけでもありません。「ミャンマーの少数民族の自給自足的な暮らしぶりを密着取材しよう」とか「バングラデシュの女性の現状をマイクロクレジットを通して見てみよう」というようなジャーナリスティックなテーマも持っていません。
しかし、しばらく旅を続けていると、テーマらしきものがおぼろげながら浮かび上がってくるのも確かです。大きくアンテナを広げていれば、自分の興味の向く対象が必ず引っかかってくるはずなのです。 「少女」というテーマにしても、少女を撮った写真が多いということに後から気が付いたということだし、僕は一貫してアジアの農村を旅していますが、それは最初から決めていたことではなくて、都市よりも農村につい足が向いてしまった結果なのです。
インドでは『バタフライ・ライフ』という言葉がインド人の女の子によって突然もたらされて、それ以来これが今回のバイク旅行のキーワードになりました。ある意味では「特定のテーマを持たない」という僕の気ままな旅のスタイルそれ自体が、ひとつのテーマとなったということです。 そして、この『バタフライ・ライフ』という言葉が、僕の次の作品作りに大きな力を与えてくれるんじゃないか。そんな手応えを感じています。
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