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 一日でもっとも暑くなるお昼過ぎの時間帯は、どの町でも出歩く人の姿はまばらになった。赤道直下のスマトラ島では真昼の日差しは強烈で、ただ歩いているだけでもとめどなく汗が噴き出してくるので、外に出ようという気にならないのだろう。大人も子供も家の中や軒下にいて、昼寝やお喋りをしたりしてのんびりと過ごしていた。

 そんな倦怠ムードの町を歩いていて、とりわけ目に付いたのがごろごろと寝転がっている太ったおばさんの姿だった。誰もが妊娠中なのかそうではないのかよくわからないようなウェストを持ち、マタニティードレスなのかそうではないのかよくわからないようなゆったりとしたワンピースを着ていた。言い方は悪いが「おばけのQ太郎」そっくりだった。化粧っ気はほとんど無く、とにかく陽気で、口を大きく開けて豪快に笑う。そういうおばさんたちが浜辺に打ち上げられ鯨みたいな格好で、すり切れたソファに体を横たえていたのである。


 そんな鯨おばさんの前を通り過ぎようとすると、よく「マウ・ク・マナ?(どこ行くの?)」と声を掛けられた。こんな時間に町をうろついている人も珍しいし、外国人が歩いてることも珍しいのだろう。
 そんなとき僕は、
「ジャランジャラン」
 と答えることにしていた。「ジャラン」とはインドネシア語で「道」を意味するのだが、それをふたつ重ねた「ジャランジャラン」は「散歩」の意味になる。これは簡単で覚えやすい上に、とても使い勝手のいい言葉だった。


 インドネシアには「ベチャ」と呼ばれる三輪タクシーがたくさん走っているのだが、そのベチャの運転手から「どこへ行くんだい?」「乗っていけよ」と声を掛けられたときにも、「ジャランジャラン」と答えておけば、それ以上はしつこく言い寄ってこなかった。

 これといった目的もなく、ただぶらぶらと散歩しているだけなんだ――そのような自分の状況を「ジャランジャラン」という短いひとことで代弁できるというのは、何とも爽快だった。他の国にも「ジャランジャラン」のような言葉があれば、旅をするのがずいぶん楽になるのになぁと思った。



 「ジャランジャラン」がもっとも楽しかったのがシボルガだった。シボルガは海に向かって開けた港町で、町の背後に急斜面の山が迫っているので平地が少なく、人口密度は高かった。

 狭い土地に多くの人が集まった場合、日本だと町は空に向かって高層化していくわけだが、シボルガでは町は海に向かって広がっていた。といっても、埋め立て地を造成しているわけではない。住民が海の上に勝手に高床の家を建てて、そこに住み着いているのである。

海の上に広がるシボルガの町並み。

穴だらけの渡り廊下を子供が駆け回る。
 家の造りは極めてシンプルだった。海の底に丸太を何本か突き立てて、その上にトタン屋根の小屋を組み上げているだけ。海や川の上に高床の家屋を建てる例は、インドネシアの他の地域でもよく見られるが、シボルガの場合はその規模が桁外れだった。海岸から50m以上も離れた海上にまで水上の町が広がっているのである。家の数は数百、いや千を超えているだろうか。それは遠浅で波の穏やかなシボルガ湾だからこそ見られる光景だった。

 家と家の間は板張りの渡り廊下で結ばれているので、足元が不安定なことを除けば、普通の町を歩くのと変わらない。しかし町が無秩序に拡大してきただけに、渡り廊下は複雑に曲がりくねり、いたるところで行き止まりになっていた。右に進んでは戻り、左に進んでは引き返すということを繰り返さなければ先へ進めないのだ。まるで水上に作られた巨大な迷路をさまよっているみたいだった。

 歩行者の行く手を阻むものは、行き止まりだけではなかった。どの家にも軒先から洗濯物が吊されていて、それを避けながらでないと進めないのだ。女物のショーツやブラジャーなども色とりどりの万国旗みたいにあっけらかんと並んでいた。この町には下着泥棒なんていないのだろう。その気になればいくらでも盗めるのだから。このような開けっぴろげな環境においては、フェティシズムなんて全然お呼びじゃないのだ。

生活感溢れる町並み。
 海上に建てられた家はどれも狭く、少しでも風通しを良くするために扉や窓は全て開け放たれているので、中を覗き見る気がなくても、人々の生活の様子が手に取るようにわかった。ハンモックの中で寝息を立てる赤ん坊、小魚とご飯だけの簡単な昼食を食べている家族、その昼食のおこぼれにあずかる猫、テレビゲームに夢中になっている若者、コーヒーを飲みながらチェスに興じるおじさん、アコースティックギターを抱えて甘いラブソングを歌う漁師、そしてもちろん浜辺に打ち上げられた鯨のように寝そべるおばさんたち。

 シボルガの人々は人懐っこくて陽気だった。おばさんがお茶をご馳走してくれたり、子供たちと一緒に渡り廊下の隙間から釣り糸を垂らしたりもした。僕が日本人だとわかると、「オシン!」とか「アジノモト!」と声を掛けてくる人もいた。ドラマ「おしん」も調味料「味の素」も、インドネシア人の誰もが知っているほどポピュラーなものであり、それが日本発だということも広く知られているようだった。

 シボルガはまた、ゴミの多い町でもあった。ビニール袋、ペットボトル、ガラスの破片、バナナの皮や野菜屑、その他わけのわからない色とりどりのゴミが、道という道にうずたかく積まれていたのだ。どこへ行ってもプラスチックの燃えたあとのような臭いが鼻をついた。町の中にゴミ溜めがあるというよりは、ゴミ溜めの中に町があると言った方がいいぐらいのひどい状態だった。

おびただしい量のゴミ。

 なぜこのように大量のゴミが処理されないまま放置されているのか、その理由はよくわからなかった。おそらくゴミ清掃を行う役所がこの地区を見放しているのだろう。海辺に勝手に家を建てて住み着くのは違法なことだし、住民の大半は貧しくて税金など納めていないので、行政サービスが滞っているのだ。

ゴミの中から使えそうなものを拾い集める子供たち。

 しかし仮にそうだとしても、住民自身の手で町をきれいにすることは可能なはずだ。このゴミは彼ら自身が出したものなのだから、なんとかできないはずはないのだ。
 もっと不思議なのは、そんな汚い町に住みながら、人々はあくまでも陽気であり、子供たちの表情は生き生きとしていることだった。ゴミだらけの環境が子供の成長にとって良いはずはない。しかしだからといって子供たちが陰気な顔をしているわけではない。むしろ他の町よりも元気が良かったのだ。

発泡スチロールボートで漕ぎ出す。
 例えばこの町でもっとも人気のある遊びは凧揚げなのだが、それはゴミを材料にして子供たちが作ったものだった。凧本体を作るために必要な棒きれや大きめのビニール袋はゴミの山の中にいくらでもあるし、それに漁師が使い古した釣り糸を結びつければ凧は大空を舞うことができる。見かけは少々不格好だが、この凧は実によく揚がった。地上のゴミ溜めの中から息を吹き返した魚が、雲ひとつない空をすいすいと泳ぐ姿はなんとも痛快だった。

 海の中に捨てられている発泡スチロールの塊も、アイデア豊かな子供たちの手にかかれば、たちまち三人乗りのボートに変身する。発泡スチロールボートにまたがった子供たちは、木の板をオール代わりにして勇ましく漕ぎ出していく。浜辺に突き刺さるようにして立つ廃船の横をすり抜け、家と家を結ぶ渡り廊下の橋脚をくぐり抜けて、町の外に広がる海へと進む姿は「ちびっ子パイレーツ」といった雰囲気。ゴミに囲まれながらも、そのゴミで遊ぶ術を次々とあみだしていくシボルガの子供たちは、実にしたたかでたくましかった。

元気いっぱいの子供たち。

 この町には貧しさや豊かさや美しさや醜さが混じり合っていた。それは同じコインの裏と表のようなものだった。どちらか一方を取りだして「シボルガは○○だ」と言うことはできないのだ。ゴミの山も、悪臭も、屈託のない笑顔も、親密な町の雰囲気も、すべてが渾然一体となって存在していた。

 シボルガをジャランジャランするというのは、この町の混沌をそのままのかたちで受け入れることに他ならなかった。


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