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踊りはいっこうに始まらなかった。
午後3時からサンバン村の人々が伝統の踊り「シングシング」を披露してくれることになっていたのだが、予定時間を過ぎても誰一人約束の場所にやってこないのである。
パプア人は時間にルーズである。「時間を守る」ということの意味や概念が、日本人とは根本的に違っているのだ。彼らは一日を「午前」「午後」にざっくり分けるという。「午前中に○○をやる」とか、「午後に○○と会う」といった約束をするのだそうだ。何ともアバウトである。
仮に「1時にどこそこに集合」と決めたとしても、全員が揃うのは3時ぐらい。みんな約束に遅れてくるのが当たり前なので、一人だけが律儀に時間を守っても損をするだけ。だから「約束の2時間遅れ」が暗黙の了解として定着してしまうのだ。
日本でも沖縄や鹿児島の人は時間にルーズだし、「タイ時間」なんて言葉に代表されるように東南アジアの時間感覚もゆるゆるである。どうやら時間に対するおおらかさ(いい加減さ)というのは、緯度の低さと大いに関係があるようだ。
午後3時の開始予定から2時間以上経ち、辺りがだんだん暗くなり始めた頃になって、踊りは唐突に始まった。椰子の葉っぱで全身を覆った男たちが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら登場したのだった。
「さぁこれから始めます」という合図は一切なかった。いきなりの「ぴょんぴょん」。すっかり待ちくたびれていた我々は完全に不意を突かれた格好で、慌てて撮影の準備をする羽目になった。
葉っぱの男たちが登場すると、それまでのんびりとタバコを吹かせていた村の男たちがいっせいに竹の棒を打ち鳴らし、歌をうたい始めた。その歌声に合わせて、葉っぱの男たちが奇声を上げながら飛び跳ねる。
踊り自体は複雑なものではない。難しいステップがあるわけでもないし、トリッキーな動きもない。ひたすら飛び跳ねるだけである。しかし異様さは際立っていた。一つ目の仮面と黄色いカツラを被り、甲高い奇声を上げながら跳び続ける人たち。わけがわからないが、とにかくすごい。
村の長老は「客人を歓迎する踊りだ」と言ったが、とてもそんな感じには見えなかった。戦いに備えて戦意を高揚させるための踊り、あるいは目の前の人間を威嚇するための踊りではないか。
何の予備知識も持たないまま、いきなり道ばたでこの集団に出くわしたら、きっと驚いて腰を抜かすに違いない。化け物や妖怪のたぐいに出会った、と真剣に思い込むかもしれない。夜道では絶対に出会いたくない集団である。
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である水木しげるは、第二次大戦中にこのニューブリテン島で連合国軍と戦い、敵機の爆撃によって片腕を失う重傷を負っている。その水木が描く個性的な妖怪たちの造形は、もちろん日本に伝わる古典的な妖怪を下敷きにしたものだが、パプアニューギニアで目にしたであろう土着の舞踊や奇抜な衣装も加味されているではないかと思う。
ちなみにこのシングシングは女人禁制だそうだ。女性はたとえ子供であっても老人であっても、絶対に見ることができない。その理由を長老に訊ねると、「わからんが、そうなっているのだ」という返事だった。まぁそんなものだろう。わからないものはわからないのだ。
かつては理由があったのだろう。しかし何世代にも渡って口伝えで受け継がれた由来は、どこかの時点で消滅してしまう。彼らは文字を持たないからだ。そして不可解な習慣だけが残るのである。
僕らのような外部から来た人間は「意味」を知りたがる。行為の理由づけをしたがる。そして一応納得できるような言葉が見つかると、ああそうなのかと安心する。たとえば「この踊りは男性が戦闘に臨む際に行っていたものであり、女性に見られると聖なる力が減じると信じられている」とかなんとか。
しかし儀式や祭りに合理的な理由なんて必要なのだろうか?
「理由はようわからんけど、そうなっているのだ」
という説明の方が、少なくとも僕にとっては腑に落ちるのである。
意味不明の習慣や儀式をそのまま守り続ける頑固さが、この世界をより多様で豊かなものにしている。
何もかもが説明可能な「透明な世界」よりも、わけのわからない混濁を含んだ「不透明な世界」の方がずっと魅力的だと僕は思う。
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