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何十頭もの牛の群れが、一直線に伸びたハイウェーをゆっくりと横断していく。猛スピードで走ってきた大型トラックも、この群れの前にはスピードを緩めるしかない。ドライバーはいまいましそうに何度もクラクションを鳴らすが、牛たちはまったく動じない。「我が物顔」ってのはこんな顔だ、とでも言わんばかりの表情で悠々と歩いていく。
このような光景は、インドの田舎ではごくありふれたものである。インドの道路は自動車やバイクだけのものではないのだ。草原では牛が、山岳地帯では山羊が、砂漠ではラクダが、それぞれのんびりと道を行き交っている。それが当たり前なのだ。
動物のペースに合わせて人が生活している。それがインドの伝統的な暮らしだった。物を運ぶ役割を担っていたのも、牛車やラクダ車や人が漕ぐサイクルリキシャだった。まさにスローライフである。
マハトマ・ガンディーもこう言っている。
「よいものはカタツムリのように進むのです」
そんなインドでも、近年な経済成長とともに、人やものの流れが急激にスピードアップしている。高速道路網の整備が進み、トラックやバスの台数も急増し、自家用車を持つ人も増えてきたのである。
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一昔前まで、インドを走る四輪車は大半は「アンバサダー」という車で占められていた。アンバサダーはコルカタに本社があるヒンドゥスタン・モーターズというメーカーが製造している自動車で、1954年から現在に至るまで、なんと半世紀以上もデザインを変えずに作り続けられているという超ロングセラーである。
4,5年ごとにモデルチェンジを繰り返す日本車のあり方からすれば驚くべき不変性だが、これはインドが長らく国内産業を保護するために外国製品の輸入を制限してきたことが原因だろう。競争相手がいないのだから、ひたすら同じものを作り続けていても消費者から文句を言われることがなかったのだ。インドには「生きた化石」が生き残れる環境が用意されていたのである。
「アンバサダーはメイド・イン・インディアだからね。俺たちの車なんだ」
そう言って胸を反らしたのは、コヴィルパッティという町で出会ったタクシードライバーだった。彼が乗っているのは2001年製の白いアンバサダーだ。見た目はとても古めかしいのだが、まだ10歳の「若者」なのである。
しかしこのアンバサダー、燃費はリッター15キロとさほど良くないし、新車の値段が50万ルピー(75万円)ほどと、エアコンもパワステもATもない車にしては決して安くないのである。これならマルチ・スズキの小型車の方がずっと優れているのではないか。なぜ、彼はこのアンバサダーにこだわるのだろう?
「俺はこの形が好きなんだ」と運転手は言う。「丸くて、重量感があって、上品だ。新しい車にはないデザインだよ。それにアンバサダーはとても強い車なんだ。壊れてもすぐに直せる」
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アンバサダーのお膝元であるコルカタでは、黄色く塗られたアンバサダー・タクシーが今でも街を席巻している。 |
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あんまり性能は良くなくても、とにかく丈夫で長持ちするのがアンバサダーの良い所。塗装が剥がれてきたら塗り直せばいいのだ。 |
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たとえ壊れてもすぐに直せるというのは、自転車やバイクにも通じる発想である。インドの道はとても悪いし、夏には40度を超える日が続くし、雨季にはすさまじい雨が降る。この過酷な環境の中、車が故障するのは避けられないのだろう。でも、歴史あるアンバサダーならどこにでも交換部品があって、すぐに修理してくれる。それがプロの運転手に支持されている理由なのだ。
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「生きた化石」アンバサダーに代わって、インドの新しい大衆車となるべく名乗りを上げたのが、タタ自動車が発売した小型車「ナノ」である。タタ・ナノの特徴はなんといっても安さだ。2008年に発表されたとき、10万ルピー(当時の為替レートで28万円)で買える四輪車として世界に衝撃を与えたのは記憶に新しい。
インドの庶民にも手が届く自動車を作ろう、というコンセプトの元に開発されたナノだったが、発表直後から様々な困難に見舞われて、順調なスタートは切れなかった。世界的な鉄鋼材の高騰によって製造コストが大幅に高くなったり、工場用地の買収を巡って地元農民との衝突が起き、新工場の建設が大幅に遅れたりした。
しかし発売から4年近く経った2012年初頭、タタ・ナノは当初のつまずきから立ち直って、順調な売れ行きを示していた。町であの超小型ボディーを見かけることも多くなり、ナノを扱うディーラーも増えつつあった。
アンドラプラデシュ州カンマンにある販売店では、ナノに試乗することができた(といっても運転席に座っただけだったが)。ハンドルを握ってみた感想は「安っぽいけど、そんなに悪くはないな」というものだった。内装は確かにプラスチッキーでペラペラなんだけど、想像していたよりはずっとまともな作りだったのである。これなら間違いなく売れるだろうと思った。
僕が試乗したのは第2世代モデルの「ナノCX」で、価格は22万ルピー(33万円)だった。さすがに10万ルピーの実現は無理だったようだが、それでも驚異的な安さである。「初代ナノに比べると内装が一新され、エアコンも付いているからお買い得ですよ」とはセールスマンのラジュ氏の弁。
カタログのスペックでは、燃費はリッター25キロで、2気筒624ccのエンジンは出力38馬力、最高時速は105キロとのこと。ボディーカラーも10色用意しているという。
「月に5,6台のペースで売れています」
ラジュ氏は仏頂面で言った。たとえセールスマンでも見知らぬ客に対してはなかなか笑顔を見せないところが、なんともインドらしい。機嫌が悪いわけではない。聞かれたことには丁寧に答えてくれる。しかしとにかく無表情なのだ。インドでは「接客サービスは笑顔から」という日本の常識は通用しないのである。
「故障はしませんか?」
と僕が訊ねると、ラジュ氏はわずかに顔をしかめて言った。
「ノープロブレムですよ。お客さんも満足しています。インドの道路は悪いですが、ナノのサスペンションは柔らかいので、乗り心地もいいですよ」
今のところインドの四輪車市場でシェアトップを独走しているのは、スズキの現地法人である「マルチ・スズキ」だが、その立場も確固たるものではない。なにしろ新車が33万円で買えてしまうのである。強力なライバル出現で、今後も競争がもっと激しくなることだろう。
車なんて走りゃいい、と考えている僕のような人間には、インドの現状が少し羨ましくもあった。
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