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  たびそら > 旅行記 > インド編(2012)


 「ヒンドゥー教徒はシヴァ神の乗り物である牛を神聖視している」という話はよく聞くのだが、去勢牛のひどい扱いからもわかるように、インドの人々が牛を神として崇めたり、家族のように大切に扱っているかといえば、まったくそんなことはないのである。

 もちろんヒンドゥー教徒は牛を殺して食べたりはしないが、使役動物としてこき使うことには何の抵抗もないし、脂肪の乗ったおいしい肉を得ようという目的がないだけに、たいていの雄牛は痩せたままの状態で飼われている。肉牛のように成長したらすぐに殺されてお肉になるということはないが、その分ずっと重い荷物を引かされて死ぬまで働かされることになるのだ。

水田を耕す牛

石でできた重いローラーを牛に引かせて、ラギと呼ばれる雑穀を脱穀している。

 インドの農村は牛の力に頼っている。ミルクは貴重なタンパク源になるし、畑を耕すときには牛に鋤を引かせるし、収穫物は牛車に乗せて運ぶ。荒っぽく扱われてはいるが、牛はインドの農村の暮らしに欠かせない動物なのである。



牛車の車輪のハブを作る職人
 グルバルガという町には、木製の牛車を作っている工房があった。
 この工房は30人ほどの職人を抱え、分業制で牛車を作っていた。電動のこぎりで材木を切り揃える職人や、ノミを使って車軸に穴を開ける職人など、それぞれの行程には専門の職人がいて、埃と汗にまみれながら忙しそうに働いていた。

 工房には鍛冶屋もいた。牛車の車輪そのものは木製だが、タイヤに相当する外輪には摩耗しないように鉄が使われているのだ。石炭を使って真っ赤に熱した鋼を、ハンマーで叩いて円形に曲げていく。鍛冶屋は無骨な汚れ仕事だが、彼らがほとばしらせる汗はいつ見てもかっこよかった。

 ちなみに木製牛車は一台2万ルピー(3万円)だそうだ。それが高いのか安いのかは、僕には判断がつかないのだけど。

牛車工房には様々な職人が働いている。これは車輪を作る職人。



ふいごを上下させるのは鍛冶屋の見習いの子供

タイヤに相当する外輪には摩耗しないように鉄が使われている。





100キロ入りの南京袋を運ぶ男
 カルナータカ州は豆の生産が盛んなので、グルバルガには豆専門の卸売市場があった。付近の村で収穫された豆がここに集められ、仲買人によって買い付けられて、他の町へと運ばれていくのだ。

 牛と同じように豆もインド人の暮らしには必要不可欠な存在だ。肉を食べないベジタリアンが多いインドでは、豆は良質で安価なタンパク質として必ず食卓に上るものなのだ。

 100キロ入りの南京袋につめられた豆が、次々とトラックから下ろされていく。仲買人によれば一日1万袋以上の豆が取引されているという。一番多いのはヒンディー語でチャナと呼ばれているひよこ豆だ。これはスパイスと一緒に煮て、ダールと呼ばれる豆スープにして食べることが多い。ちなみにチャナの卸値は1キロ37ルピー(56円)だった。

市場では大量の豆が取引されている

チャナと呼ばれるひよこ豆





畑で豆の収穫をする人々

炭火で豆を煎る職人が汗だくで働いていた。炒り豆は香ばしく、懐かしい節分の味がした。
 市場の男たちは、豆をスナック代わりにボリボリと囓りながら仕事をしていた。「あんたも食べてみな」と分けてもらった豆はとても硬かった。奥歯にしっかりと力を入れないと噛めないぐらいハードで、続けて何個も食べているとアゴが疲れてしまうほどだった。

 やわらかいものばっかり食べている現代人はアゴが弱くなって細面になる、という話を聞いたことがあるけど、実際この市場で働く男たちは、みんなアゴの骨と顔の筋肉が発達したがっしりとした顔立ちだった。食べ物って人の顔つきまで変えてしまうんですね。



 グルバルガの市場にはちょっと不気味な店もあった。薄暗い小屋の隅っこに、黒い毛がうずたかく積まれているのである。
「これ、何の毛なの?」と訊ねてみると、店の男は、
「人の髪の毛だよ」と言うのだった。

 なんとここは地元の女たちから髪の毛を買い取るためのお店だったのである。集められた髪の毛は中国やフィリピンなどに輸出されて、カツラに加工されるのだそうだ。髪質によっても違うが、だいたい1キロ2000ルピー(3000円)ほどで買い取ってもらえるそうだ。しかし髪の毛というのは量のわりに軽いから、たとえ一年間伸ばし続けても、キロ単位の髪が「収穫」できるわけではなさそうだ。

 インドの田舎に住む女性の髪の毛が中国に輸出され、そこで手先の器用な女工さんの手によってカツラに加工され、それが日本に運ばれて、どこかの部長さんの薄毛をカモフラージュしている、というようなことも実際にあるのだろう。地球を半周して赤の他人の頭の上にのっかる髪の毛――まさにグローバル化する世界の縮図・・・なのかもしれない。

 店の隅の積まれた大量の髪の毛には、独特の気配があった。店の男に「触ってみろよ」と勧められたが、なんとなくためらってしまった。羊毛や綿花と違って、もともと人の体の一部だった髪の毛には、ただのモノ以上の存在感があったからだ。「命の残り火」のようなものが、まだ微かに感じられる気がしたのだ。

大量の髪の毛には独特の気配があった

 アウシュビッツ収容所にあった大量の髪の毛も、一度目にしたら二度と忘れられない光景だった。それは強制収容所に送り込まれたユダヤ人たちの遺物だった。ナチスはその髪の毛を材料にして、マットレスや布地などを作っていたという。ユダヤ人たちはほぼ全員がガス室に送られた。しかし髪の毛だけは生き残って、無言の抗議を続けているのだった。


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