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ラジャスタン州に入ってから、食べ物に苦労するようになった。南インドではごく当たり前にあった「安くてうまい」食堂がなかなか見つからず、反対に「高くてまずい」の店が幅をきかせるようになったのだ。どうやらインドでは、北に行けば行くほど食堂の質が落ちる傾向にあるようだ。
ビーンマルという田舎町の食堂には「ダールバティ」というメニューしかなかった。オヤジが魂を込めた一品を出すこだわりの店・・・なのかと思いきや、これがまぁひどかった。小麦の全粒粉をピンポン球大に丸めて焼き固めたバディを、ジューサーを使って細かく砕き、それにダール(豆スープ)をかけて食べるというのが「ダールバティ」の正体だった。
一度焼きしめたものを、なぜ再び細かく砕くのか意味がわからなかったし、水気がなくパサパサのバディには味がほとんどなかった。まるでおがくずを口の中に詰めているような感覚で、一口食べたら「もうけっこう」と言いたくなってしまった。郷土料理を貶めるつもりはないのだが、この店で食べた「ダールバティ」の味は、残念ながら家畜のエサに近いと言った方がいいと思う。
パサパサのバティは飲み込むのにもひと苦労だったので、食はいっこうに進まなかった。それを見た主人はバディのうえからギー(精製バター)をかけてくれた。これによっていくらか食べやすくはなったが、味が大きく変わることはなかった。もともとまずいものは、何をどうしたってまずいのだ。
しかも(これは後でわかったことだが)このバティを焼くための燃料として使われていたのが、牛糞だったのである。当然のことながら、バティの表面には牛糞の灰が付着するはずで、それが食べる人の口の中に入り込むのは避けられない。インド人にとって牛糞は汚いものではないし、まして乾いた牛糞なんて糞ですらないと思っているから平気なのだろうが、やはり日本人にとって牛糞は牛糞以外の何ものでもなく、それを積極的に口に入れたいとは思わなかった。
腹は減っていたのだが、皿の半分を食べるのが精一杯だったので、あとは残すことにして、主人に会計を頼んだ。90ルピーだった。
「ナインティ? ナインティーンじゃなくて?」
何かの間違いじゃないかと思って聞き返してみると、主人は間違いなく90ルピーだと言う。
信じられなかった。90ルピー(135円)というのは、小ぎれいなレストランで出される「パニール・ティッカ・マサラ(カッテージチーズのカレー風煮込み)」と同等の値段である。どう考えても高すぎる。場末の食堂のおがくずみたいな料理に付ける値段ではない。
やられた。こいつは外国人からぼったくろうとしているんだ。冗談じゃない。こんなまずいものに90ルピーなんて払えるものか!
僕と店主が代金を巡ってもめているあいだに、「まぁまぁお二人とも」と割って入ってくれたのは、英語が少し話せるビジネスマンだった。彼は店主から事情を聞き、90ルピーの内訳をすべて紙に書き出してくれた。
<バティ3個=30ルピー ギー3杯=30ルピー バターミルク=20ルピー せんべい=10ルピー 合計90ルピー>
なるほど。この食堂は一皿がセット料金になっているターリーやミールスなどの定食とは違う料金システムを採っているわけか。サイドメニューやドリンクを追加すると、それが料金に加算される仕組みなのである。ぼったくり料金ではないかというのは、僕の誤解だったようだ。
しかしそれでも90ルピーには納得できなかった。なるほどその値段は正しいのかもしれない。しかしギーとバターミルクとせんべいは、いずれも僕が頼んだわけでなく、店主が勝手に置いていったものなのだ。ギーなんか「店のサービスでござい」という顔をして、立て続けに3杯もかけやがったのだ。ちょっとやり方が汚いんじゃないの。
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これぐらいうまそうなターリーなら90ルピー出す価値はあるけれど… |
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「あなたの気持ちはわかりますよ」
通訳をしてくれたビジネスマンはいきり立つ僕をなだめるように言った。彼も地元の人間ではなかった。南インドのカルナータカ州から商用でやってきたのだという。
「私の故郷の町では、40ルピーも出せばうまい定食がお腹いっぱい食べられる。南インドでは当たり前のことです。でも、ラジャスタン州はそうではありません。腹を立ててはいけない。我々はそれを受け入れるしかないんです」
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市場で見かける野菜は新鮮そのものだったが、北インドの食堂の質は悪かった。 |
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この「ダールバティ事件」以来、僕の食欲は目に見えて減退していった。何を食べてもおいしいと感じられなくなり、しまいにはマサラの匂いを嗅いだだけで反射的に胃がぎゅっと収縮するようになって、食堂に入ることすらためらうようになってしまったのだ。
もともと食に対するこだわりが少なく、どんな土地のどんな料理でもおいしく食べられる僕にとって、これはあまり経験したことのない事態だった。旅の疲れが溜まっていたこともあるのだろう。北インドの脂っこい料理のせいで、胃がもたれていたのかもしれなかった。でも食欲不振に陥った最大の原因は、あのバティの悲劇的な味と、90ルピーを巡る店主との苦い思い出にあった。
結局、そのあと数日間は雑貨屋でパンとチーズとトマトを買ってきて、即席のサンドイッチを作って食べてみたり、露天商からミカンやブドウやバナナなどを買ったりして栄養補給をすることになった。
ラジャスタン州の食堂はいまいちだったが、クッキーなど小麦を使ったお菓子の味はなかなかよかったので、それを100グラム単位で買い込んで、ホテルの部屋でボリボリと食べたりもした。特に窯から出てきたばかりの焼きたてのパイは、サクサクとした食感とバターの香りがうまくマッチして、とても美味しかった。何でもマサラ味にしてしまうインドでは珍しく、素材の持ち味を生かしていた。
そうするうちに、なんとか食欲も回復していったのだが、あの「ダールバティ」だけは二度と食べる気にならなかった。
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食べるものに苦労した北インドとは違って、南インドでは食べる時間さえ間違わなければ、うまい食事にありつくことができた。南インドの安食堂はどこもそこそこのレベルを維持しているので、食事時を逃して冷めた料理が出てくることでもない限り、がっかりさせられることはなかったのである。
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南インドの定食「ミールス」はバナナの葉の上にご飯とおかずを盛りつけてくれる |
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南インドで特に気に入っていたのがドーサだった。これは発酵させた米粉の生地をクレープ状に焼いたもので、焼きたてのカリカリをアチチと言いながらハフハフとほおばるのが最高にうまい。ドーサの生地には少し酸味があり、それがまたココナッツ入りのソースによく合うのだ。
カルナータカ州フブリの町の食堂で食べたドーサは、ちょっと不思議なかたちをしていた。とんがり帽子みたいな円錐形のドーサが、丸い皿の上に載せられていたのだ。これはドーサの命である「パリパリ感」を持続させるための工夫だった。普通のドーサは折りたたまれた状態でお皿に載っているので、時間が経つにつれて生地の下の方が水蒸気でしんなりとしてしまう。しかし円錐形に丸めて立てると、皿に接する部分が少なくて済むので、最後までパリパリ感が続くというわけだ。素晴らしいアイデアである。
そうかと思えば、せっかくのパリパリ感を台無しにしてしまうひどい食堂もあった。運ばれてきたときはごく普通のパリパリドーサだったのに、いきなり現れた給仕のおっさんがドーサの上にサンバル(野菜スープ)をぶっかけてしまったのである。日本で言えば、揚げたての天ぷらに味噌汁をぶっかけるようなもの。
おい、俺のドーサに何するんだよ!
慌てて手をかざして制しようとしたのが、時すでに遅かった。
テーブルの上にはスープを吸ってふにゃふにゃになった見るも無惨なドーサが、へたっと横たわっていたのだった。合掌。
似たような出来事は他でも起こることがあった。ドーサと同じようにサクサク感が命であるワダ(豆粉のドーナツ)を食べているときにも、無言でサンバルをかけようとする給仕がいるのである。まったく油断も隙もあったもんじゃない。
どうやらインド人にとってクリスピー感はさほど重要ではないらしい。サクサクにしろふにゃふにゃにしろ、胃袋に収まってしまえば同じじゃねーかと考えているのかもしれない。
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タミルナドゥ州では拳ぐらいの大きさがあるドーナツを食べた。これは歯ごたえ十分で、食べ応えがあった。うまいのだが、食べ終わる頃にはアゴが疲れてしまった。 |
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