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  たびそら > 旅行記 > インド編(2012)


 インド北部を蛇行しながら東へと流れる大河ガンガーには、体を清めるための沐浴場と遺体を焼くための火葬場が隣り合った聖地――「小さなバラナシ」とでも呼ぶべき所――がいくつも点在していた。それは生と死を司る場所であり、人々の祈りと火葬の煙とが混じり合う場所だった。



 ビハール州にあるシマリアもそんな古い聖地のひとつだった。シマリアの沐浴場へ続く道には、巡礼者向けの食堂や土産物屋などが軒を連ねていた。片言の英語を話すランジットさんは、そこで祈祷用の花を売っていた。この商売をはじめて20年になるという。一日の稼ぎは100ルピーから200ルピー程度と決して多くはないが、それでもなんとか4人の子供を育ててきた。上の娘がカレッジに通っているのが自慢だ。

「俺の家族が暮らしていけるのはガンガーのおかげだよ」とランジットさんは言った。「ガンガーはすべてインド人にとって母なる川だ。ガンガーには女神が住んでいる。だからガンガーの水はとってもプアーなんだ」
「プアー?」
「ああ、そうだ。プアーなんだ。だから飲んでも大丈夫。体にもいいんだ」
「・・・ピュアーな水なんですね」
 僕はそう言い直してみたが、彼はまったく意に介さなかった。
「そうだ。この水はプアーなんだ。ここに来た人はみんなボトルに水を汲んで、家に持って帰る。とてもプアーだからな。あんたもぜひそうしなさい」

シマリアの沐浴場で儀式を行う女たち

 ランジットさんは「飲んでも大丈夫」なんて言ったけれど、沐浴場周辺を流れる水はひどく汚れていた。巡礼者はただ川の水に体を浸すだけでなく、石鹸で体を洗ったり、歯磨きや洗濯もするし、儀式に使う花や線香やビニール袋なんかも全部川に流してしまうからだ。隣の火葬場から遺体の燃え残りが流れてくることもある。あちこちにゴミが散乱した臭い川。それが聖地におけるガンガーのリアルな姿だった。

 なんだ、やっぱりピュアーじゃなくてプアーなんじゃないか。

 もちろん巡礼者たちは「ガンガーの水が汚い」などとは1ミリも考えていない様子だった。何の躊躇もなく川の中にざぶんと全身を浸し、川の水で口をゆすいだあと、川の水をポリタンクに汲んで大事そうに持ち帰るのだ。思い込みの力は偉大だ。「聖なる水だ」と信じていれば、ゴミだらけの「プアーな水」だってありがたい「ピュアーな水」に変わってしまうのである。

巡礼に来た人々は川の水に全身を浸す



 バラヒアという町で知り合ったシンさんの家で飲ませてもらったのは、正真正銘まじりっけなしのピュアな水だった。
「これは地下137mから汲み上げた井戸水だから、農薬にも化学物質にも汚染されていない」とシンさんは胸を張った。「普通の井戸の倍以上の深さまで掘り進めたんだ。もちろん余計にお金はかかったけど、その価値はあるよ」
「わざわざ井戸を掘らなくても、ガンガーの水はピュアーだって聞きましたけど」
 僕が言うと、シンさんは大きく口を開けて笑った。
「ガンガーの水がピュアーだって? エンジニアの私に言わせれば、それはナンセンスだ」



 シンさんは既に定年退職しているが、1年前までは化学メーカーで技術者として働いていたという。水質に関してはプロなのである。その彼が汚いと言うのだから、やっぱりガンガーの水は汚いのだろう。
「私は絶対にガンガーの水をそのまま飲んだりはしない。そんなことをしたら、すぐに病気になってしまうよ」

 シンさんは比較的裕福な地主の家に生まれ、理系の大学を卒業した。しかし地元にはいい就職口がなかったので、遠くグジャラート州にある財閥系の化学メーカーに勤めることにした。
「ビハール州には優秀な人材がたくさんいる。しかし医者もエンジニアも結局はみんなビハールを出て、他の州か外国へ行ってしまう。ここには仕事がないからだよ。今も昔もビハールは貧しいままだ。私の娘も土木技術者としてデリーで働いているし、息子はプネーのIT企業で働いている」

 ビハール州には高い教育を受けた人を雇用できるような産業がほとんどないから、頭脳流失が起こる。頭脳流出が続く限り、産業は育たない。インドでももっとも貧しい州であるビハールはこのような悪循環に陥っていた。それを食い止めるためには、シンさんや彼の子供たちのように能力のある人が地元に残って、地元のために働かなければいけない。しかしシンさんにはそれができなかった。

 もちろんそんな彼を責めることは僕にはできない。彼には自分の人生を選ぶ権利があるのだから。
 しかしビハール州では「仕事を求めて他の土地に移る」という選択肢さえ持てない人が大多数を占めているのもまた事実だった。否応なく地元にとどまり、低賃金で働かざるを得ない。そうした人々が貧困のスパイラルから抜け出すのはきわめて難しいことなのである。

ビハール州には大規模なレンガ工場が多い。牛の力で動かすローラーで泥をこね、それを型に入れてから天日で乾かしたレンガを、石炭で焼き固める。

日干しレンガを頭に12個も載せて歩く男たち。日給は歩合制なので、みんなとても早足だった。



人々は埃だらけで働いていた。

牛糞とわらを混ぜて燃料を作る女。これもまたビハール州でよく見かける光景だ。



 ビハール州は道路もプアーだった。幹線道路から少しでも離れると、未舗装のデコボコ道になってしまう。そこをバイクで10分も走ると、たちまち全身が埃だらけになってしまうのだった。

ビハールの道を走ると全身埃まみれになる。

 交通量の多い国道であっても、荒れ放題のまま放置されているところも少なくなかった。穴ぼこだらけになった国道では、その穴を避けようと蛇行運転する大型トラックによって交通の流れが悪くなった結果、大渋滞が発生していた。

【動画】ビハール州の町で見られる大渋滞。バイクや自転車や人が狭い道に殺到し、身動きが取れなくなっている。

「ディス・イズ・ビハール」
 いつ終わるともしれない渋滞にうんざりしている僕に、バイクを運転していた若者が声を掛けた。まったくその通りだ。これがビハールなのだ。逆に言えば、ビハール以外の州では状況はここまでひどくはないのである。要するに州政府が無能なのだ。道路整備や都市計画といったインフラへの投資をケチっているために、州全体の経済がどれほど悪影響を受けているのかわかっていないのだろう。



ビハール州で見かけた橋の建設現場。何十人もの男たちがコンクリートと砂利の入ったタライをかついで竹の階段を登っていく。人海戦術。これでは時間がかかるはずである。現場監督の男によれば、橋の完成は1年後の予定だそうだ。



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