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ものづくりの光景
職人の働く姿を見ると反射的にカメラを向けてしまうのは、僕の習性みたいなものだ。これは僕が工学部出身で機械メーカーのエンジニアだったことと無関係ではない。僕の中にもまだ「ものづくりの血」がいくらかは残っているのだと思う。
何十年ものあいだその仕事一本で生きてきた職人たちは、ただ働いているだけで十分にかっこいい。ものづくりの現場に入り込み、職人の熟練した仕事ぶり眺めているだけで、時間はあっという間に過ぎていくのだった。
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新聞紙を貼り合わせて作るハリボテの牛。寺院の境内で売られる縁起物だ。 |
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大理石の仏像
仏教に篤い国ミャンマーならではの職人技が堪能できる場所といえば、マンダレーにある大理石工房がその筆頭にあげられるだろう。ここで作られている彫像の大半が仏像である。黄金のパゴダを造営し、その中に大理石のご本尊を納めるというのが、仏教徒にとって最高の「徳の積み方」なのだ。
職人たちは電動カッターとドリルを使って仏像を彫り進めていた。昔ながらのノミと金づちを使っている人はすでに少数派になっていた。いずれにしても過酷な現場である。細かい石の粉が飛び散る中、頭からつま先まで真っ白になって働き続けなければいけないのだ。
職人は下絵も描かずにいきなり大理石にドリルをあてていた。経験と勘に頼った方法だけに、仕上がりの上手い下手は職人の腕次第ということになる。
完成した仏像の顔はやはりひとつひとつ微妙に異なっていた。そして大きな仏像になればなるほど、顔の造形がうまくなるという傾向が見られた。表情が上品でまろやかなのだ。大きな(それだけ高価な)像を任されるのは、経験を積んだベテランだけなのだろう。まだ10代の若者は小さな仏像から始めるのだが、その顔の造形はどこか稚拙さを感じさせるものだった。
穏やかで慈愛に満ちた仏像が並ぶ中、ひときわ異彩を放っていたのが、苦行中の仏陀を再現した像だった。断食を続けたためにひどく痩せこけ、肋骨が浮き上がるほど腹がへこみ、腕には血管が何本も浮き出ている。そこにはすべてを悟り仏陀となる前の過激な修行僧の姿があった。以前、これと同じような苦行像をパキスタンのラホールの博物館で見たことがあるのだが、おそらくそれをお手本にして彫られたものなのだろう。
この苦行像が職人が持てる技巧のすべてを注ぎ込んで作られたものであることは疑いようがなかった。「2年がかりで彫られたものなんだよ」と店の主が言う。値段を訊ねると3万5000ドルだという。うーん、さすがに高い。
普通ならここで「あんたも買わないか?」と来てもよさそうなものだが、店主からそういうセールストークは一切出てこなかった。商売っ気がないというか、必要以上にしつこく迫ったりしないのがミャンマー人なのである。インド人とは違う。まぁただ単に「こいつには3万5000ドルも出して仏像を買う気などない」と見切られていただけなのかもしれないが。
大理石工房の南には、ブロンズ製の仏像を作る工房があった。ブロンズだと大理石よりも大きな仏像を比較的安価で作れるようだ。
まず粘土で鋳型を作り、その隙間に溶かしたブロンズを注ぎ込んで冷やし固める。シンプルな鋳造である。固まった像は電動グラインダーを使って表面を研磨し、光沢を出していく。大きなパゴダのご本尊として奉られている仏像の多くは、こうしたブロンズ像の表面に金箔を貼って、さらにピカピカに仕上げたものなのだそうだ。
金ピカの日傘
マンダレーの南部にある工房で作られていたきらびやかな日傘「シュエティー」も、仏教に関わる道具だった。これは仏教徒の子供が出家する儀式(得度式)で、馬にまたがった子供にさしかけるための日傘なのだそうだ。
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得度式に参加する子供にさしかけられるのが、シュエティーと呼ばれる黄金の傘 |
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シュエティーは金箔が貼られた表側だけでなく、色とりどりの糸で飾った裏側も美しい傘だ。金ピカ好みのミャンマー人の趣味にも合っている。これはブッダが王子であった頃の贅沢な暮らしをなぞるための道具なのだそうだが、たった1日のためだけにこれほど贅沢な傘を作ってしまうというのも、ミャンマー人の仏教に対する思いの表れではないかと思う。
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シュエティーは何人もの職人の分業で作られていた。彼は傘の柄の部分を作る職人。 |
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