ブルネイのオカマが開けたスーツケースの中には、100ドル札の束がいくつも入っていた。
「ここに6万USドルあるわ。アタシはこの6万ドルを全部この勝負に賭けるわ」
 オカマはそう言いながら、札束をテーブルの上に無造作に放り投げた。そして、本物であることを確かめさせるために、札束のひとつをトランプみたいにパラパラとめくった。
 僕は目の前に積み上げられた6万ドルの札束を、呆然と眺めた。何度計算しても、それは700万円もの大金だった。予想のしようもない、途方もない金額だ。

「さぁどうするの? ジャパニーズ・ボーイ」
 オカマの甲高い声が狭い部屋に響いた。僕は自分の心臓が高鳴る音を聞き、わきの下を冷や汗が流れるのを感じた。口の中がカラカラに渇いた。6万ドルだって?

 僕の長い旅は、香港の薄暗い雑居ビルの一室から始まった。
 出発からわずか4日目にして、この先の旅行資金の全てを失いかねないという、正真正銘の大ピンチに立たされていた。

 

退屈な街・香港

0721 そもそも香港という街自体が、僕にはどうも馴染めなかった。日本と変わらないぐらい高い水準にある物価も、12月とは思えない生ぬるく湿った空気も、ブランドショップが立ち並ぶ取り澄ました一角も、夜の街のけばけばし電飾も、どれも好きにはなれなかった。ヴィクトリアピークから望む高層ビル群も、映画の書き割りセットを見ているようで現実感に乏しかった。

 そんなわけで、丸2日間香港の街を歩き回った後は、すぐにでもハノイ行きの飛行機に乗ってしまいたいところだったのだが、飛行機は既に予約してあったし、ベトナムのビザの出来上がりを待つ必要もあったから、あと3日間はこの街にいなくてはならなかった。

 自分は船乗りだと名乗るフィリピン人の男に出会ったのは、そんな恐ろしく退屈な香港4日目の朝だった。
 フィリピン人の男は、名前をサニーといった。彼は僕の泊まっていた宿の近くにある雑居ビルの入り口で、声を掛けてきたのだ。
「宿を探しているのか?」
 彼はものすごくわかりにくい英語で言った。
「そうじゃないよ。ただ歩いているだけだ」
 僕は素っ気なく答えた。どうせ怪しい客引きか何かなんだろう。
「いくらの宿に泊まっている?」
 僕の答えを無視して彼は続けた。仕方なく僕が宿の値段を言うと、サニーは「それは高すぎる!」と驚きの声を上げた。
「俺の知っている宿だったら、その半分で泊まれる。もちろんシングルルームだ」

 実際、僕がそのときに泊まっていた部屋は、安宿にしては清潔なのだが、結構高かったのだ。到着してから1日2日なら仕方ないにしても、あと3日間もこの金額を払い続けるのは、気が進まなかった。だから、そろそろ安い宿に移る頃合だとは思っていたのだ。
「見るだけなら構わないだろう?」
 サニーは僕の腕を取って歩き出した。まぁ見るだけならいいか、と僕は彼の後について階段を登った。それが全ての始まりだった。

 

 

その男はミスターJと名乗った

0709 小汚い雑居ビルの中は、真昼だというのに薄暗かった。周囲に同じような古びた高層アパートがいくつも立ち並んでいるので、恐ろしく日当たりが悪いのだ。廊下にひとつだけある蛍光灯の光も、チカチカと不規則に点滅していた。

 サニーは廊下の突き当たりにある部屋の今にも外れそうなドアノブを引っ張って、僕を中に通した。狭い部屋の中には、ベッドにもたれ掛かった中年の男が、のんびりと煙草を吹かせていた。
「これ僕の叔父さん」
 サニーは男を指差して言った。
「ウェルカム!ウェルカム!」
 よく日焼けしたハナ肇みたいな顔をしたおっさんが、親しげに僕の手を握り締めた。サニーはフィリピン語で話しかけ、おっさんはふんふんともっともらしく頷いた。
「君は安い部屋を探しているんだね?」
 おっさんは、サニーよりはいくらかわかりやすい英語で言った。
「ただ見てるだけですよ。まだ決めてない」
「オーケー、オーケー。見るだけね。わかったよ。ここは私、ミスターJの部屋だ。まあ楽にしてくれ」

 

 ミスターJと名乗った男は、僕の肩をぽんぽんと叩くと、ベッドの横にある椅子を勧めた。床の上に置かれたカップ麺の容器の中には、煙草の吸殻が何本も突っ込んであって、部屋中にすえた匂いを充満させている。
「私はサニーと同じく船乗りだ。もう20年も船に乗ってる。日本の港にもよく行ったよ。ヨコハマ、カワサキ、ハコダテ、コーベ。日本の女の子はみんなビューティフルね。香港の女は駄目だ。みんな気が強い。やっぱり日本の女の子が一番だ」

 ミスターJは上機嫌で日本の思い出話や、船の上の生活のこと、そして香港の物価の高さについて長々と喋った。どうせ暇なんだからと思って、僕も適当に相槌を打ちながら聞いていた。
「ところで君はカジノに興味はあるか?」と彼は話題を変えた。
「ノー」
「本当か? 君は日本人だろう? 日本人はみんなギャンブルが好きじゃないのか?」
「僕はあまり興味がないんです」
「信じられないな・・・」
 彼はそう言って、本当に信じられないという風に首をかしげた。

「まぁそれはいい。実はだね、私は船乗りのほかに、カジノのディーラーの仕事もやっているんだ。マカオ島は知っているね? たくさんのカジノが集まっている場所だ。香港からフェリーで1時間もあれば行ける。私はそのマカオのカジノ船でディーラーをやっているんだ」
「そうですか」
「とてもいい金になるんだ。1日500USドルぐらい稼げることもある。もちろん普通のディーラーのサラリーはそんなに高くない。私はちょっとしたテクニックを使っているんだ」

 そう言うと、ミスターJはウィンクしてみせた。ハナ肇顔にウィンクは全然似合っていなかったので、僕は思わず吹き出しそうになった。
「秘密のテクニックだ。シークレットだ。見つかれば、当然こうなる」
 彼は両手首を交差させた。つまりイカサマをやっていると言いたいらしい。
「絶対に勝てる方法だ。聞きたいだろう?」

 

 

いかさまトランプの指南役

0629 ミスターJはトランプを持って小さな木の机の前に座ると、イカサマの説明を始めた。
「例えば、君がカジノの客だとする。君は『21』の場所に行く。ルーレットでも大小でもないよ。ミスターJがディーラーをしている『21』の場所に行くんだ」
 ミスターJは『21』つまりブラックジャックのルールを簡単に説明した。ディーラーが複数のプレイヤーにカードを配る。最初に2枚ずつ配られ、3枚目以降のカードを引くか引かないかは、プレイヤー自身が判断する。絵札はすべて10として数えられる。配られたカードの合計が21に近い方が勝ち。22以上になるとドボン、負けである。カードが配られる度に、プレイヤーはチップを上積みしていって、勝った方が全部のチップを受け取ることができる。

「ここからが秘密のテクニックだ」とミスターJは言った。「私は君の相手のトランプの数字を、指を使ってこっそりと君に教える。いいかい、重要だからよく聞いてくれ。親指が1、その他の指は2を表す。つまり5本の指を開いていたら9ってことになる。全部の指を折っていたら10だ。これで君は相手の数がわかるというわけだ。ここまではいいね?」
 彼は僕の目を覗き込んだ。
「そして、相手が自分の札を確かめている間に、私は君に次のカードを少しだけめくって見せる。なに、うまく隠すからバレる心配はない。これで君は自分が次を引くべきか引かないべきか、勝つか負けるかをすべて知ることができる。つまり、君は絶対に負けることがない。わかるかい?」

 とても単純なトリックだから、理解するのに時間はかからなかった。確かにディーラーとひとりのプレイヤーがグルになっていれば、もうひとりを陥れることは容易なことかもしれない。
「でも、ほんとにこんなトリックに引っかかるんですか?」と僕は聞いてみた。
「もちろん、このトリックが使えるのは、せいぜい10分か20分ぐらいだ。あまりやりすぎると怪しまれるからね。君が勝ったお金は私と50:50で山分けにする。私はその金で、日本に行ってニッサンやトヨタの中古車を買って、香港やフィリピンに持っていって高く売るんだ。そうすると私はもっと金持ちになれる。いい話だろ?」
 ミスターJは得意そうに笑った。
「でも今は金持ちじゃないんですね?」と僕は言った。
「まぁそういうことになるかな・・・」とミスターJは言った。

 

0614 金持ちはこんな小汚い安宿に泊まったりはしないし、昼食にカップ麺なんてすすらない。伝統あるマカオのカジノで、こんな初歩的なトリックが通用するという話も、どうも胡散臭い。だいたい、目の前の冴えないハナ肇顔の中年男に、船上カジノなんていう華やいだ場所が似合っているとは思えない。人は見かけによらないのかもしれないけれど。

「実は今日もこのトリックを使って、ある人から少し金を取ってやろうと思っているんだ」
 ミスターJは僕の疑問をかわすように、早口で話し始めた。