ヨルダンから乗り合いタクシーでシリアに入る
ヨルダンの首都アンマンからシリアの首都ダマスカスまでは、乗り合いタクシーでわずか3時間の道のりだった。国境での手続きも10分で終了したし、国境を越えてもハイウェーから見える景色はほとんど変わらないから、違う国に入ったという実感はほとんど湧いてこなかった。
ひとくちに国境と言っても、その実体は様々だ。「タイ・カンボジア間」や「イラン・トルコ間」の国境は、そこを越えた瞬間に世界の様相ががらりと変わってしまうような「遮る壁が高い」と感じる国境もあれば、もともとひとつの国だった「バングラデシュ・インド間」のような「遮る壁が低い」と感じる国境もあった。言語も宗教も同じで物価もそれほど変わらないヨルダンとシリアの間の国境は、間違いなく「遮る壁が低い」グループである。通貨や指導者の顔は違うのだけど、旅行者の目から見ればその差はほとんど感じられないのだ。
しかし町歩きに関しては、ヨルダンよりもシリアの方が圧倒的に面白かった。特に紀元前から続く由緒正しき都市であるダマスカスとアレッポの旧市街は、石畳の路地が迷路のように続いていて「迷いごたえ」があった。町のいたるところに暑さよけの藤棚があり、その日陰に人々が集ってお茶を飲んだり世間話をしている。昔ながらのスーク(市場)には活気があり、山のように積まれたスパイスや、名物のオリーブ石けん(アレッポ石鹸)を売る店が軒を連ねている。そういう生活の匂いが間近に感じられるのがシリアの町だった。
ダマスカスの城壁の近くにノミの市が出ていた。片腕の無い着せ替え人形や、ダイヤルの無い電話機や、トラックボールの無いパソコン用マウス。そういう「どうやって使うのかねぇ?」と首を捻りたくなるようなガラクタを、ゴザの上に広げて売っているのである。もちろん買う気などさらさら無いのだけど、冷やかしに見回るだけでも楽しい場所だった。
古いニコンの一眼レフが置いてあったので、試しにシャッターを押してみると、これも予想通り壊れていて、まるで使い物にならなかった。
「これじゃ使えないよ」と言うと、店主は「ネバーマインド」と言う。気楽なものである。気にすんなったって、使えないことを知らずに買っていく人がいたらどうするんだろう。それとも、この市場に使えそうなものを探しに来る人間なんていないのだろうか。
「ニコンはメイド・イン・ジャパンじゃないか。あんた日本人なんだったら、直してくれよ」と店主は言う。
「無理だよ」と僕は首を振る。「俺は客なんだから」
「あんた、本当に日本人か? だったら証拠を見せてくれよ」
店主は疑わしそうに言うと、僕のTシャツの襟首をぐいと引っ張って、首の後ろについているタグを見る。
「ほら、ここにメイド・イン・チャイナって書いてあるじゃないか! あんたはジャパニーズじゃないんだ。チャイニーズだ」
冗談とも本気ともつかない口調で、そんなことを言う。
「日本人だからって、持ち物全部がメイド・イン・ジャパンなわけないじゃないか!」
そんな僕らのやり取りを、周りの人間が楽しそうに見物する。商売なんて二の次にして、とりあえず楽しめばいいじゃないかという姿勢は、どの国のノミの市にも共通しているようだった。
ダマスカスの町工場を巡る
ダマスカスでもアレッポでも、一番楽しいのが町工場巡りである。旧市街の複雑に入り組んだ路地の一角に、水パイプや食器や刃物といった生活に根ざした道具を作る界隈がある。いずれも「こうじょう」ではなくて「こうば」と呼ぶのが相応しい、小規模なファクトリーである。
ここの職人達はシャッターを開けたガレージのような場所で作業しているので、仕事の様子を外から眺めることができる。どの工場でも、親方風の老人は椅子に座ってうとうとと眠り、働き盛りの男達は額に汗して仕事に打ち込み、10代の見習工は先輩達の仕事ぶりをじっと見守っている。
その道一筋何十年という職人達のまなざしは真剣そのもので、近寄りがたい雰囲気もあるのだけど、僕がカメラを向けると陽気で気さくな一面も見せてくれた。鼻の頭をススで真っ黒にしたヒゲもじゃのオヤジが、「さぁ俺も撮ってくれよ!」と屈託のない笑顔を向けてくれるのだった。
僕はそんな職人達の姿を次々と写真に納めていった。彼らが作り出すタライや包丁や水瓶は、機能的で飾り気も少なく、存在することが当たり前に思われているようなものだけれど、人々の毎日の生活を支えている道具ばかりだった。
水瓶に模様を彫り込んでいく彫金師の繊細な手の動き。真っ赤に焼けた鉄を鍛えている鍛冶屋の額を伝う汗。風呂桶にでも使えそうなほど巨大なタライをハンマーで叩き出すときのリズミカルな音。そこには自分の腕一本でひとつの製品を作り上げているという職人としての誇りがあり、ただの金属に道具としての命を与えているという創造の喜びがあった。そこには美少女の輝きとはまた違った種類の美しさがあった。
「私はね、20年前に日本を旅行したことがあるんだ」
と自慢げに話し掛けてきたのは、ダマスカスにある甘味屋の店主だった。
「本当ですか?」
僕はアイスクリームを食べていた手を止めて聞き返した。シリアの所得水準を考えれば、日本行きの飛行機に乗るのはたやすくはないはずだし、20年前ならなおさらだろう。甘味屋というのは意外に儲かる商売なのだろうか。
「もちろん本当のことだよ。それが普通の旅行とは違ってね、マツシタのテレビジョン工場を見に行ったり、ヒタチの冷蔵庫工場を見学したりしたんだ。そういうツアーがあったんだよ」
これもまた驚きだった。日本の観光名所と言えば、すぐに思い浮かぶのが京都や奈良や広島だが、シリア人達はなんと日立市に冷蔵庫工場を見に行ったというのだ。
「ヒタチの工場では、青い制服を着た中年の女性が何十人も働いていた。冷蔵庫の部品がベルトに載って運ばれてくると、彼女達は見事な技術でそれを組み立てていくんだ。ファンタスティックだったね。まるで機械のように正確な動きだったよ。あの光景は今でも忘れられない。カルチャーショックだったよ」
店主は20年前のことを、まるで昨日見てきたように話した。よほど強烈な印象だったのだろう。
「我々は質の高いメイド・イン・ジャパンの電気製品や自動車はよく知っている。でもそれがどうやって生み出されているのかは、全く知らなかったんだ。私はその秘密を少しだけ覗くことができた。日本が成功した理由がわかったよ」
「寺院なんかの名所には行かなかったんですか?」
「少しは行ったと思うけど、全然覚えていないな。20年経っても忘れられないのは、やはりヒタチだよ。私はねヒタチの冷蔵庫を見るたびに、あのときのことを思い出すんだ。たくさんの女の人がこれを作っていたんだってね」
面白い話だと思った。シリア人の彼にとって、清水寺や東大寺の大仏なんかより、日立の工場見学の方がずっとインパクトがあったというのだ。その気持ちは僕にもよくわかった。外国を旅をしていて一番面白いのは、風光明媚な観光名所を訪れたときでも、美味しい料理を食べたときでもなく、その国の「素顔」を垣間見ることができたときだと思う。そして、その素顔が自分たちの日常と違っていればいるほど、受ける衝撃は強くなる。
僕にとって、それはラオスの山岳民のつつましい生活であり、バングラデシュのひどいスラムであり、そしてここシリアのものづくりの町だった。そこにはその土地独特の生活の匂いがあり、人々の豊かな表情があった。
逆にシリア人の店主にとってみれば、清潔で機能的な家電工場こそが本当に知りたかった「日本の素顔」だったのだろう。自分たちの日常とは別のリアリティーを求めて旅をしているという点では、僕らは同じなのかもしれない。
「僕も1年前までは、日本の工場で働いていたんです」
「ヒタチかい? マツシタかい?」と店主はすかさず聞いた。
「そんなに大きな会社じゃないけど、それでも何百人もが働いている大きな工場でした」
「今は休暇中なのかい?」
「いいえ。辞めてしまったんです」
「どうしてだい? 私なんてこの30年ずっとこの商売だよ。つまらないと思ったこともあったけどね、でも辞めようとは思わなかったな」
さぁ、どうして辞めてしまったんだろうな。店主から出された宿題をとりとめもなく考えながら、僕は溶けかかったアイスクリームの残りを口に運んだ。町歩きに疲れた体に、アイスクリームの冷たさと甘味が染み込んでいった。
僕が会社勤めをしていた頃、毎日通っていたのはいわゆる工業団地の一角にある工場だった。シリアの町工場より規模は遙かに大きかったけれど、そこもまた「ものづくりの町」だった。板金工場からはプレス機の断続的な機械音が響き、鋳造工場の煙突からは黒い煙が上がり、溶接工場の窓には青い火花が散っていた。
そもそも僕が大学の機械工学科に入り、そのまま機械メーカーに就職したのは、ものづくりをしたかったからだった。かたちのないものから、かたちあるものを生み出す仕事がしたい。子供の頃からそう思っていた。
しかし、現代日本の機械メーカーの中には「ものづくり」なんて気軽に呼べるような雰囲気はほとんどなかった。そこにあるのは高度に分業化され、効率化された生産システムだった。ひとつの製品は様々な構成要素に分かれ、それぞれのスペシャリストが専門技術を持ち寄って作り上げるものになっていた。職人芸よりもチームワークが、ものづくりの喜びよりも販売目標が重視されていた。市場のニーズを分析し、世界各国でシェアを獲得し、利益を上げるためにしのぎを削るのが、社員に課せられた使命だった。
僕は毎日CADを使って図面を書き、出来上がった試作機の試験を行った。取り立てて熱心に仕事をしていたわけではないし、優秀でもなかったけれど、同僚には恵まれていたから働くのは苦痛ではなかった。変わり映えのしない毎日だったけれど、毎日やるべきことを着実にこなしていくことに小さな喜びを感じることもできた。そして入社して1年経った頃には、サラリーマンとして働くことが当たり前に感じられるようになった。
それでも、喉の引っかかった魚の小骨のような小さな違和感は、僕の中に消えずに残っていた。組織に馴染んでいく自分がいる一方で、それを拒絶する自分の存在もまた大きくなっていった。
僕が求めているのは「自分の手で形のないものから形あるものを生み出していく」というシンプルで硬い実感だった。それはこの会社にいる限り手に入らないのかもしれない。そう考えるようになった。最初はうっすらとした予感だったが、次第に確信に変わっていった。
そして僕は会社を辞めた。次に何をして働くのかも決めないまま、とりあえず辞表を出した。ものづくりの町にやってきてから2年で、僕はこの町を後にした。
そして僕は今、旅をしている。旅で目にしたものを写真に記録し、日記に書き残している。それは一見すると「ものづくり」とは何の関係もないような作業だ。けれど、「旅」という形のないものから「旅の記録」という形あるものを作り出していくという意味では、これもまた「ものづくり」のひとつなのだと思う。
僕は職人がトンカチでタライを叩き出すように、一枚一枚写真を撮ってきた。職人が砥石で刃物を削り出すように、旅で出逢った出来事を記録し続けてきた。そうすることで「旅の記録」という器を作ってきたのだ。
それは「作品」と呼べるようなたいそうな代物にはならないかもしれない。もしかしたら何の役にも立たないガラクタを作り出す結果になるだけかもしれない。
だけどそれでもいいじゃないかと思う。出来上がったものがどういう形になろうが、まず自分の手で作ってみることが重要なのだと思う。そうしないと何も始まらないのだ。
夕暮れ迫るダマスカスの下町には、相変わらずガスバーナーの焦げ臭い匂いが漂い、トンカチのリズミカルな音が響いていた。鍛冶屋では二人の職人が呼吸を合わせて鉄を鍛えていた。彼らの額や頬はススで黒く汚れていたけれど、その表情には「自分達の手で形あるものを生み出している」という充実感があった。
僕は迷うことなくカメラを向けた。こうして僕の旅の記録に、またひとつ大切なページが加わった。