2週間ほど前から、ミャンマー西部ラカイン州に住むムスリム住民・ロヒンギャの村を訪れていた。リアルタイムで更新しなかったのは、用心のためだった。8月に起きた大規模な衝突以降、外国人が許可なくロヒンギャの村に入って撮影することに、警察も軍も神経を尖らせている。ロヒンギャの悲惨な現実を外国メディアに知られたくないという思惑から、大量の難民が発生したラカイン州マウンドー地区への外国人の立ち入りは現在も厳しく制限されている。
そんな状況の中でロヒンギャを撮影していることが露見し、警察や軍に拘束されるようなことになれば、僕はかなり難しい立場に立たされる。最悪の場合、国外退去を命じられるかもしれない。パスポートの名前からSNSの内容をチェックされる可能性も十分に考えられる。だからこそ、できるかぎり慎重に行動する必要があったのだ。
幸いにして、警察に見つかることは一度もなかった。警官はあちこちで監視の目を光らせていたし、軍人を乗せた幌付きのトラックが頻繁に行き交ってはいたが、軍の主力は難民問題で揺れるマウンドー地区に向かっていて、僕が拠点にしていたミャウー地区は素通りするだけだった。
僕が日本人であることも多少は有利に働いたのだろう。ヘルメットを被ってバイクに乗っている限り、僕の外見はラカイン人(州内で多数派を占める仏教徒住民)に似ているから、幹線道路に立っている警官に怪しまれずに済んだのだ。欧米人であれば、そう簡単にはいかなかったはずだ。問題は村で撮影しているときだが、警察や兵士(ラカイン人かビルマ人)がロヒンギャの村の中にまで立ち入ることは滅多にないらしく、トラブルには至らなかった。
僕がロヒンギャの村を訪れるきっかけとなったのが、新畑克也さんが撮った写真を見たことだった。「ミャンマーが好きでたまらない」という新畑さんは、休暇のたびにミャンマーを訪れる中でロヒンギャの人々に出会い、その存在に惹かれ、深く関わっていく。やがて群馬県に住む在日ロヒンギャの人々とも知り合い、友達として付き合うようになる。彼から直接その話を聞く機会がなければ、僕がロヒンギャの村を訪れることはなかっただろう。新畑さんには本当に感謝している。
ロヒンギャの村を訪れるのは、今回で二度目だった。初回はちょうど1年前。バイクでラカイン州に入るルートがあることを知り、12時間かけてひどい山道を走りきり、ようやくたどり着いた仏教遺跡の町・ミャウーを基点にして、ロヒンギャたちが暮らす小さな集落をひとつひとつ訪ね歩いたのだ。
そのときの印象は強烈だった。ロヒンギャたちが置かれた現実の厳しさにも衝撃を受けたが、そこで生き抜く人々の姿が目に焼き付いて離れなかった。
もう一度、ロヒンギャの人々を撮りたい。そう思っていた矢先に起きたのが、8月25日の武力衝突だった。ミャンマー軍とロヒンギャの武装組織との戦闘とその報復によって、多くのロヒンギャが虐殺され、村は焼き払われ、60万とも言われる人々が難民となってバングラデシュへと逃れることになった。この1年でロヒンギャ問題は悪化する一方だった。
僕が訪れたミャウー地区のロヒンギャたちは、一体どうなっているのだろう。彼らは無事なのか。それとも暴力にさらされて、村を捨ててしまったのか。情報が乏しい中、僕はとりあえずバイクでロヒンギャの村へ向かうことにした。
村は無事だった。村人は1年前とほとんど変わらない日常を送っていた。子供たちの笑顔も、大人たちの過剰な親切心も変わっていなかった。村人によれば、8月25日にマウンドー地区で起きた衝突の影響はミャウー地区の村には及ばなかったという。ひとまずほっとした。
難民になったロヒンギャたち
「ロヒンギャ」とはラカイン州に住むベンガル系イスラム教徒を指す言葉だが、同じロヒンギャでも住む場所によって置かれている状況は大きく異なっている。もっとも多くのロヒンギャが住んでいるのがバングラデシュとの国境にほど近いマウンドー地区で、ここに住むロヒンギャの境遇がもっとも悲惨だと言われている。
マウンドー地区のロヒンギャたちは以前からミャンマー軍やラカイン人からの迫害にさらされていたため、一部のロヒンギャが反政府武装組織を作り、警察と軍の施設を襲った。しかしその結果、ミャンマー軍は報復措置としてロヒンギャの村を焼き払い、多くの住民を殺した。そして60万もの人が故郷の村を捨てて難民となったのである。難民の大半は今、バングラデシュ最南端にある難民キャンプで暮らしている。
僕は去年の12月にバングラデシュ側にある難民キャンプを訪れたのだが、難民たちの生活環境は劣悪だった。あまりにも多くの人が狭い地域に押し込められていて、衛生状態も悪い。彼らには難民キャンプの外に出る自由もなかった。「狭い地域に閉じ込められて何もすることがない」という状況は、ロヒンギャがミャンマー側にいるときと変わらなかった。
バングラデシュ最南部にあるロヒンギャ難民キャンプの様子(2016年12月)。丘の上に無数のあばら屋が建ち並ぶ。
ラカイン州の州都シットウェの郊外にも大規模な難民キャンプがあり、2012年に起きた大規模な衝突によって村を追い払われたロヒンギャたちが、狭い地域で身を寄せ合って暮らしている。
こうした難民化したロヒンギャたちに比べれば、僕が訪れたミャウー地区のロヒンギャたちはまだ恵まれていると言える。少なくとも彼らには住む家があり、耕すべき土地があるのだから。村の中にいる限り、暴力に怯える必要はないし、静かな日常生活を送ることができる。
しかし彼らのことを深く知るにつれて、ミャウー地区のロヒンギャたちにも多くの苦悩があることがわかってきた。市民権を持たない被差別民として生きざるを得ないロヒンギャの現実が、はっきりと見えてきたのだ。
ロヒンギャの大地を撮る
ロヒンギャ問題は複雑だ。宗教的、歴史的、政治的な要素が絡まり合っている。憎しみの連鎖が負のスパイラルを呼んでいる。解決には長い時間を要する。それだけははっきりしている。
ここで僕がすべきなのは、とにかくシャッターを切ること。目の前の現実を、写真に収めることだった。彼らの生き様をできるだけ近くから見つめ、それを記録することによって、今ここで何が起こっているのかという「真実」が少しずつ自分の中に浸透していく。写真家として、僕はそのように考える癖がついている。まずは撮ることだ。見つめることだ。それが何を意味するかは、後からじっくり考えればいい。
今回の取材で意識したのは、「大地を撮る」ということだった。ロヒンギャの人々が耕し、根を張り、生きる糧を得ている「土」を写真に撮る。そのことで立ち現れてくる現実がきっとあるはずだと感じていた。そして実際、「土」は多くのことを語ってくれた。
ロヒンギャの農業は牛の力か人の力に頼った昔ながらのやり方だ。ラカイン人の畑には当たり前にあるトラクターやコンバインの姿は、ロヒンギャの畑にはない。ロヒンギャには農業機械を買うお金はないし、その代わりとなる人の手ならいくらでも余っているのだ。それはロヒンギャの農民が貧しく、子供の数が多いことを意味している。
ヒゲを長く伸ばしたロヒンギャの老人。手に持っているのは杖ではなく、畑に穴を開けるための杭。子供にも老人にも与えられた仕事がある。それがロヒンギャの村の暮らしだ。
二頭の牛にスキを引かせて畑を平らにならしていく。スキの上にちょこんと座っている子供は、お手伝いのつもりなのだろうか。ロヒンギャの村人はこうして幼い頃から畑仕事に親しんでいる。
クワで畑を耕す男の赤い服があまりにも鮮やかだった。後ろに見えるのは高圧線と鉄塔だが、ロヒンギャの村には電気は来ていない。ミャンマー政府はロヒンギャを「国籍のない不法移民者」として扱っていて、村に電気を送っていないのだ。
南京袋に入った米を担いで運ぶ若者。なかなかのイケメンだった。彼は農家ではなく、日雇い労働者として様々な力仕事を請け負って、わずかばかりの日当をもらっている。翌日には砂利を運ぶ仕事をしていた。
収穫したお米を竹のお盆に載せ、風の力でゴミを吹き飛ばしているロヒンギャの老人。これも昔から農村で繰り返されてきた光景のひとつだ。
村人の朝は早い。夜明けとともに畑に出て、夜露で湿った地面を耕す。牛に引かせるスキを担いだ男が、まっすぐこちらを見つめる。何ものにも動じない、強い目だ。
「ここは何百年も前から先祖が耕してきた土地さ。私たちロヒンギャは、今までもこれからもこの土を耕して暮らしていく」