また外国人料金なのか?
渡し船につながる桟橋の上は、南京袋を担いだ人夫や、赤ん坊を背負った母親などでごった返していた。橋の途中には小さな木の机があって、乗客はその上に5チャット紙幣を置いていく。5チャットは約1円。日本人の感覚からすればタダみたいなものなのだが、それがこの船の運賃なのだ。
「ノー!ノー!ヤングマン!ウェイト!ウェイト!」
僕が他の乗客と同じように、5チャットを置いて先に進もうとすると、係の男に大声で呼び止められた。「これじゃ駄目なんだ」
男は5チャット札をひらひらさせながら言った。そして背後にある色褪せた張り紙を指差した。そこには《ミャンマー人5チャット 外国人1ドル》と英語で書かれていた。
「ヤングマン。あんたは外国人だろう?」
男は僕が背負っているバックパックを見て言った。そして、俺の目は誤魔化せないんだよ、というふうに軽く首を振った。確かに、派手な色のバックパックを背負っているミャンマー人なんて、ひとりも見たことがなかった。
「また外国人料金なのか?」僕が不満げに言うと、
「それがルールだからな」と男は言った。
ミャンマーを旅した2週間、僕は毎日のように地元料金の数十倍もの外国人料金を請求された。ヤンゴン動物園の入園料(5ドル)、シュエダゴン・パゴダの入場料(5ドル)、バガン遺跡地区の入域料(10ドル)、などなど。
観光地だったら、それも仕方がないと諦めがつく。少ない外国人観光客から、できるだけたくさんの外貨を搾り取るというのが、ミャンマー政府の方針なのだ。でもこの渡し船は、地元民しか利用しない「地域の足」である。そんなものにまで、およそ100倍(1ドルは440チャットである)もの外国人料金を課すのは、ちょっとやり過ぎではないかと思う。
切符売りの男は、よく日に焼けた手にボールペンを握り、同じように日に焼けて変色したわら半紙に、僕の名前とパスポート番号を記入していった。
「あんたは日本人か。日本人の名前は難しいよな。俺の名前はね、ウソーっていうんだよ。簡単だろう?」
そう言うと、ウソー氏は切符を僕に手渡した。
「これはウソーみたいに高い切符だね」
僕が言うと、ウソーは《何のことだ?》という不思議そうな顔をした。まぁ当然の反応である。
「いいんだよ。言ってみただけだから」
日本語でそう呟くと、僕はバックパックを担ぎ直して船に向かった。
「ヤングマン!グッドラック!」
背後でウソーの声がした。僕はわら半紙の切符をひらひら振って、その声に答えた。
カモメのショータイム
僕はミャンマー南部のモウラミャインから、夜行列車で首都ヤンゴンに戻るつもりだった。しかし、モウラミャインの町には鉄道の駅はなかった。町のそばを流れるタンルウィン川で、線路がぷっつりと途切れているからだ。だから鉄道に乗るためには、まず対岸の町・モッタマに船で渡る必要があった。
船は想像していたよりも、ずっと大きなものだった。車やバイクを一緒に載せるようなタイプではなく、乗客と荷物だけを運ぶ船だが、それでも500人ぐらいは楽に運べそうだった。煙突から黒い煙を吐きながら、船がゆっくりと桟橋を離れると、僕は手すりにもたれかかって、町を見下ろすように建つ黄金のパゴダを眺めた。ミャンマーに来て間もない頃は、黄金寺院の輝きに圧倒されていたけれど、行く先々で同じような寺院を何十個も見せられると、さすがに見飽きてしまった。
物売りの少年が菓子を売りに来たので、ひとつ買ってみることにした。乾燥したラーメンのようなものが袋に3つ入っていて、20チャット(5円)だという。見た目もあまり美味そうではなかったのだが、口に入れた瞬間「これは失敗したな」と思った。味を付ける前のインスタント麺をぽりぽり齧っているみたいだった。
「おいしくないね」
僕が言うと、なぜか少年も周りのおばちゃん達も揃って笑いだした。そして少年が「まぁ見てなよ」という風に僕に目配せをして、デッキの手すりから右手を突き出して上下に振り始めた。すると、その手の動きに答えるように、どこからかカモメの群れがやってきて、フェリーの周りをぐるぐると回り始めた。少年が頃合いを見計らって味なしラーメンを放り投げると、カモメがそれを見事にくちばしでキャッチした。
なるほど、僕が囓ったのはカモメの餌だったのか。どうりでマズかったわけだ。ようやく理解できると、僕も周りのおばちゃん達と一緒に笑った。
餌が貰えるとわかると、たちまち百羽を超えるカモメ達が、空を埋め尽くすようになった。現金な連中である。僕も少年の真似をして、餌を放り投げてみたが、最初はタイミングが掴めずに、なかなか上手く行かなかった。ポイントは餌を放る前に、腕を振る仕草にあるようだった。カモメ達はその仕草を見て、餌の飛んでくる場所を予測しているのだ。
カモメが空を埋めると、少年は張り切ってデッキを回り、餌を売り歩いた。僕以外にも、面白がって買う客はけっこういるようで、カモメと少年が共同で行うショータイムは、かなりの盛況だった。
少年がひと稼ぎした後のデッキには、白いYシャツの男が薬のセールスを始めた。渡し船のデッキというのは、することもなく手持ち無沙汰なので、セールスに向いている場所らしい。Yシャツの男は右手に小さなガラス瓶を持ち、左手の指を一本一本折りながら話をした。その身振りや口調から、薬の効能を述べているようだった。
「擦り傷、ひび、あかぎれ、にきび、吹き出物。これひとつでなんでも治っちゃうんですよ。本当ですよ、奥さん」とでも言っているんだろう。
口上が終わると、男は乗客一人一人に少量の薬を塗って回った。男は僕の手にも薬を塗りつけていった。鼻を近づけると、メンソレータムに似た匂いがつんと鼻腔を刺激した。万能の薬メンソレータム・ミャンマー版といったところだろう。
渡し船は乗客と何人かの物売りと物乞いを乗せて、悠々とタンルウィン川を遡っていく。カモメは餌が貰えなくなっても、しばらくフェリーの周りをぐるぐると回っていたが、やがて諦めてどこかへ飛び去ってしまった。空を紅く染めている夕日が、対岸の森の向こうに飲みこまれていくのが見えた。モウラミャインを出てから30分経って、ようやく船はモッタマに着いた。
バスよりも遅い列車
モッタマの船着場は、そのまま鉄道の駅と繋がっていた。窓口に行くと、当然のようにここでも外国人は別扱い別料金で、僕は駅長室に通された。
ヤンゴンまでの切符の値段は、オーディナリークラス(2等)で6ドル、アッパークラス(1等)だと17ドルである。ちなみにバスだと2等の半額ほどで行く。バスは外国人料金を取らないからだ。しかも、バスの方が鉄道より何時間も早く着くし、快適である。驚くべきことにミャンマーの場合、バスの方が「揺れない」のだ。
そういうわけで、よほどもの好きな人間でない限り、外国人でミャンマーの鉄道を利用する人はいないし、2等を利用する人は更に少ない。僕はかなりもの好きな人間だから、ミャンマーにいる間に一度ぐらい鉄道の旅をしてみたかった。そして、どうせなら2等に乗ってみたかった。そういう無駄なことがわりに好きなのだ。
駅長(最も年上で偉そうだったのでそう推測する)に「ヤンゴンまで2等で行きたいのですが」と言うと、彼と数人の駅員が相撲の「物言い」の時のように頭を寄せ合って、対応を協議し始めた。モウラミャイン・ヤンゴン間を鉄道に乗って移動する外国人が特に稀であることは、彼らが困惑している様子から想像できた。
駅長はいくつかの戸棚をひっかきまわして、ようやく外国人用の乗車券を探し出し、僕のパスポート番号を控え、6ドルを徴収し、空いている座席を確認した。そこまでするのにたっぷりと40分以上かかった。そのせいで、僕が乗車できたのは発車時間ぎりぎりだった。売店で水と食べ物も買う余裕すらなかった。
僕が客車の階段を登ると、それを待ちかねていたように、列車はゆっくりと動き始めた。
2等車両は文字通り人で溢れていた。全席指定のはずなのだが(駅長はそう言っていた)、どう考えても座席数の2倍から3倍の人間が車内にいた。2人掛けの席に3人が無理に詰めて座り、座席と座席の間にさらに3人が座り、通路も隙間なく人で埋まっている。出荷前のりんごだって、もうちょっとマシな扱いを受けていると思う。
しかも、ミャンマーの鉄道には車内照明という設備がない。何人かの客が、ろうそくや懐中電灯で細々とした自前の明りを灯してはいるものの、車内は真っ暗に近い状態だった。だから廊下を歩こうにも、人のからだを踏まないように進むだけで一苦労なのだ。
僕はなんとか誰も踏んづけることなく、切符に書かれた番号の席に辿り着いた。そしてそこに座っていた女の子に詰めてもらって、ようやく自分の座席を確保した。とは言え、両隣を二人のおばさんに挟まれて身動きが取れない上に、足元には二人の女の子が寝転がっているので、足の置き場さえないような状況だった。
通路に座っていた人々は、列車が駅を離れて混乱が収まると、さっそく寝る準備を始めた。人々は用意していたゴザを敷き、座席の下に頭を突っ込み、海老のように背中を丸めた。実はこの2等車両の中では、狭い座席に身を固くして座っている僕らより、通路に丸くなって眠ることができる彼らの方が、ずっと楽なのだ。
列車は所々でひどく揺れた。それは普通の鉄道とは全く違う揺れ方だった。ミャンマーの鉄道は上下に小刻みに揺れるのではなく、客車全体が左右にうねるように大きく傾くのだ。鉄道に乗っているというよりも、船に乗っている感覚に近かった。
揺れのひどさに比べれば、音はとても静かだったが、これは騒音対策に優れているからではなく、列車のスピードがものすごく遅いからだ。ミャンマーの鉄道は軌道の幅が狭いので、構造上スピードが出せないのだ。そういうわけで、僕らの列車は道路を走るバスに軽々と追い抜かれていく。これもまた、ミャンマーならではの光景だった。
喜納昌吉の「花」が聞こえてきた
列車は直接ヤンゴンに行くわけではなく、途中の駅にも何度か停車した。駅に着くたびに何人もの物売りが乗り込んできた。ポリタンクに水を入れて持ってくる水売り、煙草売り、菓子売り、よくわからない口上を長々と述べてそのまま帰っていった謎の男。彼らは大きく揺れる車内を軽快な足取りで歩く。海老型で寝ているおばちゃん達を踏んづけないよう小さな隙間を見つけて、軽やかに足を運んでくるのだった。
夜もすっかり更けた頃、ひとりの男がカレー味の包み揚げ・サモサを売りにきた。慌てて列車に飛び乗ったせいで、昼からカモメの餌以外に何も口にしていなかった僕は、ひとつ10チャットのサモサを3つ買うことにした。およそ8円でひとまず空腹が収まるのだから、とにかくミャンマーの物価は安い。
揚げたてのサモサは、表面の衣はカリカリとし、中のジャガイモとタマネギはホクホクで、申し分のないうまさだったが、食べた後にとても喉が渇いた。口の中がヒリヒリするほど辛いのが、ミャンマー料理の特徴なのだ。でも僕は飲み水を買い忘れていたし、水売りも列車を降りてしまっていた。
すると向かいの席の老人が、僕の気持ちを察したかのように、無言で自分の水筒を差し出した。
「ありがとう(チェーズーティンパーデー)」
僕が言うと、老人はにっこりと笑った。
10時を過ぎると、ろうそくの火がひとつまたひとつと消されていった。それに伴って、人々の話し声も徐々に小さくなり、足元で眠っている女の子の規則正しい寝息が、僕の脛をくすぐり始めた。窓の外に目をやると、なだらかな山の上に何かを暗示するような月が浮かんでいるのが見えた。おそらくこの辺の村には電気が来ていないのだろう。月明り以外はほとんど何も見えなかった。畑で枯草を焼く炎が、小さく揺れているだけだった。
しばらくすると、力を持て余している若い男たちが歌を歌い始めた。一人が好きな曲を歌い出すと、何人かがその後に続いて合唱する。それを何曲も何曲も繰り返す。この暗くて狭い車内では、歌うか眠るぐらいしかやることがないのだ。
列車は時々荒れた海に浮かぶ船のように、左右に大きく傾いた。揺れる客室、ひしめき合う人々、ろうそくの明り、男達の歌声。まるで20世紀始めにヨーロッパからアメリカへ向かった移民船みたいだな、と僕は思った。もちろん、僕らの目的地はニューヨークではない。自由の女神の代わりに、黄金のパゴダが輝く街ヤンゴンだ。
何時間もの間、僕はまどろみを捕まえようとしては失敗するということを、ずっと繰り返していた。からだは眠りを求めているのだけど、固い椅子に無理な姿勢で座っているせいで、どうしても眠ることができないのだ。
聞き憶えのあるメロディーが耳に入ってきたのは、ようやくうとうととしかかった頃だった。若者達が歌い始めたのは、少し音程が外れてはいるが、間違いなく喜納昌吉の「花」だった。僕はぼんやりとした頭で、「花」がアジア各国で大ヒットしたという話を思い出した。きっと彼らも、これが日本の歌だとは知らずに歌っているのだろう。
確かに「花」には、日本という枠を超えて人の心を揺さぶる普遍的な力があるように思う。見知らぬ人々、言葉も通じない人々が歌う親しいメロディーは、深く静かに胸に響いた。
──泣きなさい 笑いなさい──
いつの間にか、僕もビルマ語の合唱に合わせて歌い始めていた。