イスタンブール発ソフィア行き国際夜行列車

7109「パスポート! パスポート!」と怒鳴る声で目を覚ました。コンパートメントのドアが荒々しく開けられ、3人の制服姿の男達が中に入ってきた。
 ようやくブルガリア国境を越えたのか。眠い目を擦りながら僕は思った。トルコのイスタンブールを出発してブルガリアのソフィアに向かう国際列車がトルコの国境を越えたのは、午前1時過ぎのことだった。そこで乗客は一度列車を降ろされ、パスポートに出国スタンプを押してもらうのだが、そこから再び発車するまでにやたらと時間がかかっていたので、寝台に横になっていたのだった。

「パスポート!」
 入国管理官の男はいまいましそうに怒鳴った。はいはい、わかりましたよ。僕はいつものようにズボンの中の隠しポケットからパスポートを出して手渡した。
「How much money?」
 パスポートをチェックしながら男は言った。
「なんですって?」
 僕はどういう意味なのかわからずに聞き返すと、男は再び怒鳴った。
「お前は金をいくら持っているんだ! 持っている現金を全て私に見せなさい」
「どうしてですか?」
 僕は憮然として言った。今まで数多くの国境を越えてきたけれど、そんなことを言われたのは初めてだった。

7111「金を持っているのか? 持っていないのか?」
 男は僕の質問を頭から無視した。とにかく金を見せろの一点張りである。僕は東欧諸国の入国管理官にはやくざな連中が多く、旅行者に難癖をつけては賄賂を要求してくるのだという話を思い出した。社会主義の崩壊以降、東欧の公務員は平気で不正を働くようになったというのだ。

「トラベラーズチェックでもいいですか?」
 僕は係官に尋ねた。隠しポケットには100ドル余りのドル紙幣が入っていたが、それはできるだけ見せない方がいいだろうと思ったのだ。彼らの意図がわからない以上、言いなりになって現金を見せるのは得策ではないと思ったのだ。
「ノー! USドルかドイツマルクの現金しか駄目だ」
「どうして?」
 どうせ無視されるだろうと思って聞き返したが、やはり僕の質問は無視された。試しにTCを見せてみたが、係官の態度はますます硬化するばかりだった。それなら入国スタンプは押してやらないぞ、という構えなのだ。コンパートメントには僕の他に乗客はいなかった。助けを求めたくても誰もいない。

「早くしろ!」
 係官はたまりかねて僕に詰め寄った。こうなったら仕方ない。僕は持っているだけのドル紙幣を隠しポケットから出して、彼に見せた。
「これでいいかい?」
 僕は言ってみたが、今度もまた僕の質問は無視された。係官は無言のままパスポートに入国スタンプをつくと、そのままコンパートメントを出ていった。
 狐につままれた、とはこのことだった。とりあえず賄賂目的ではなかったらしいが、彼らが一体何の目的で金を見せろと迫ったのかは依然として謎のままだった。釈然としない気持ちは、次の朝ソフィア駅に降り立つまで続いた。

「あれは金を持たずに入国する不法労働者を取り締まるためのチェックだったらしいですよ」
 後になってそう教えてくれたのは、別の車両に乗っていた日本人女性だった。最近ブルガリアでも外国からの不法就労者が増えているので、それを水際で食い止めようとしているらしい。
「それはわかりましたけど、それならそう説明してくれたって良さそうなものじゃないですか」
「さぁねぇ。単に説明するのが面倒くさかっただけなんじゃないですか。英語も余り喋れないみたいだし」と彼女は言った。
 入国管理官というのはどの国でも無愛想で不親切だと相場が決まっているものだけど、それにしても彼らはひどすぎた。あまりにも無表情で、あまりにも横柄な態度だった。

 
 

首を横に振るとイエスの国

7002 ソフィア中央駅はブルガリアの陸の玄関口なのだが、ひどく雰囲気の暗い駅だった。待合室の照明は半分以上消えていて、エスカレーターは全て運転を停止したまま錆び付いていた。ブルガリアの電力事情は切迫していて、駅でも節電に努めているらしい。待合室のベンチに腰掛けている人々も、駅の雰囲気に合わせるかのように、むっつりと下を向いて押し黙っていた。

 ソフィアのメインストリートには、両替商が何軒も軒を連ねていた。観光客もあまりいないこの国で、両替の需要がどれだけあるのかは疑問だったけれど、ともかく旅行者にとっては有り難いことだった。
 両替商のカウンターに座っていたのは、あの入国管理官に負けないぐらい不機嫌そうな顔をした若い女性だった。カウンターの隣には用心棒らしきごついおっさんが背の低い椅子に腰掛け、広げた新聞越しにこちらの様子をちらちらとうかがっていた。かなり感じの悪い店だった。しかし、感じの悪さはどの両替商でも似たり寄ったりだった。この町には両替商を狙った犯罪者が多いのかもしれない。

6994 僕は50ドル分のTCを両替してもらい、それからトルコで両替しそびれて手元に残っていたトルコリラを取りだして、これをブルガリアの通貨レバに両替できるかと訊ねた。カウンターの女は無言のまま首を横に振った。どうやらここではトルコリラの両替はできないようだ。そう思って店を出ようとすると、女が「ダー!」と叫んだ。振り返ると彼女は再び首を横に振っている。
「だからチェンジマネーはできないんでしょう?」と僕は英語で確認した。
「イエス! チェンジマネー イエス!」
 と彼女は言った。そして首を横に振る。なんだか訳がわからなかった。でもとにかくトルコリラの両替はちゃんとしてくれたのだった。

 両替商を出てからも、同じようにギクシャクしたやり取りが続いた。キオスクのおばさんに地図を見せて道を確認したときも、おばさんが首を横に振るので、この道は間違いなんだなと思っていると、実はそれが正しかったりした。

 ブルガリアでは「イエス」のときに首を横に振り、「ノー」のときには首を縦に振るということに気付いたのは、ソフィアに到着してから半日ばかり過ぎた頃だった。習慣が正反対だということを知らなかったのだから、コミュニケーションが上手く行くはずがなかったのだ。

 こういう習慣を持つ国は世界でも珍しいらしく、最近はブルガリア国内でも「首振りは国際標準に改めましょう」という呼びかけがなされているらしいのだが、長年親しんだ習慣をすぐに改めることはなかかな難しいようだ。

 
 

ブルガリア人は無表情だった

 しかし、ブルガリア人とのコミュニケーションが上手く行かなかったのは、単に首振り習慣の違いだけの問題ではなかった。ブルガリア人はとにかく無表情で、とらえどころがない人が多かった。言葉が通じない国を旅している人間にとって、唯一のコミュニケーション手段がボディーランゲージであり、スマイルであるわけだけど、こちらが笑いかけても何の反応も示さない人がブルガリアには多かった。

6990 特に無愛想なのは働く女性達だった。男性中心社会であるイスラム圏を旅した直後だったから、町で働く女性の姿は新鮮に映ったのだけど、彼女達の愛想のなさはそのような新鮮さを完全に覆い隠してしまった。街角のキオスクでむっつりと座ってスポーツ新聞を売るのも女性なら、町のホットドッグスタンドでこれ以上はないというぐらい不機嫌な表情で(身内に不幸があったのかと思うぐらいだ)ソーセージをひっくり返しているのも女性だった。

 駅の窓口で働くおばさん達もひどかった。切符売り場で、次の目的地であるコプリフシティツァ行きの切符を買おうとした時のことである。
「コプリフシティツァに行きたいんだけど」と僕が英語で言うと、窓口のおばさんは無言のまま親指を右に突き出した。ここではなく右の窓口に行けということなのだろう。そこで右隣の窓口で同じことを訊ねると、今度も無言のまま親指を下に向けるのである。結局三度目の窓口でようやく切符を手に入れることができたのだが、結局窓口のおばさん達はただの一度も口を開かなかった。何かを話すことさえエネルギーの無駄だと思っているような態度だった。

 女性の社会進出が進んでいるのは良いことだと思う。しかしどういうわけか、この国で不機嫌なのはいつも女性なのだ(もちろん全員が不機嫌ではないが、それでもかなりの割合である)。男性の店員は言葉がわからないなりに身振りなどを使ってこっちの言い分を聞こうとしてくれるのだけど、女性店員の場合は「なに言ってるの?」という一瞥をくれて、ぷいとそっぽを向いてしまうのである。

 もしかしたら僕の方にブルガリア女性を不機嫌にさせる要因があるのかもしれないし、もっと別の根本的な理由があるのかもしれない。しかしひとつだけはっきりと言えるのは、「女性が怒っている国は全然魅力的じゃない」ということだ。

 ブルガリア人が無表情に見えるのは、「寡黙でシャイ」というブルガリア人気質のせいだという。それに加えて長年この国を思想的に縛っていた社会主義体制が、国民から「サービス精神」というものを奪ってしまったということもあるように思う。ブルガリア語を理解できない外国人旅行者という存在にまだ慣れていない、ということもあるのだろう。

 でもどんな事情があるにせよ、無表情な国を旅するのは愉快なことではない。東欧の旅は、このようにあまり芳しくないスタートを切ったのだった。