5634 カイロで泊まっていたホテルで、キャメルマーケット(ラクダ市場)を見学するツアーがあることを知ったので、行ってみることにした。ラクダだけを専門に売り買いする市場があるなんて、いかにもエジプトらしいじゃないかと思ったのだ。

 キャメルマーケットはカイロのダウンタウンから車で45分ほど走ったところにある。ホテルが用意したバンをエジプト人の若い男が運転し、フランス人の家族4人と、ミホさんという日本人女性と僕の6人が乗客として乗り込んだ。ミホさんはカイロでアラビア語を学んで8ヵ月になるそうで、運転手とも冗談を言い合えるほど流暢だった。

「来月には日本に帰るの。だからその前にエジプト各地を回ろうと思って」と彼女は言った。
 英語や中国語ならともかく、アラビア語を学びたいという日本人がそんなにたくさんいるとは思えなかったが、エジプトだけでなくヨルダンやシリアにもアラビア語を学んでいる日本人がいるのだそうだ。そしてその大半が女性なのだという。

「でもイスラム社会の中で、女性が一人で生活するのって、大変じゃないですか?」と僕は聞いた。
「そうでもなかったのよ」と彼女は言った。「外国に一人で暮らすのなら、オーストラリアでも中国でもエジプトでも、どこでも同じじゃないかな。どこだって最初は苦労するし、どこだってじきに慣れる。もちろんイスラム社会の常識と、日本社会の常識はずいぶん違っているけれど、それを楽しむことができれば大丈夫よ」

 僕のように気ままに移動するだけの旅人と違って、数ヶ月あるいは数年という単位で異国に住むというのは、それだけでも尊敬に値する。違う文化や違う習慣。そういうものを楽しめる余裕こそが、外国で暮らしていくのに必要な強さなのだと思う。

 ミホさんと話をしながら、僕はバングラデシュのダッカで知り合いになって昼食を共にした女の子のことを思い出した。彼女はダッカ大学で農業を学んでいる留学生だった。僕と日本語で話をしているときはずいぶんおっとりした口調だったので、「この子があのアクの強いバングラ人と対等に渡り合えるのだろうか?」と心配になるぐらいだったのだが、食堂を出るときに店員が釣り銭をわざと少な目に返してきた瞬間に、彼女の人格は「バングラ人モード」にパチンと切り替わり、こっちがびっくりするような大声でベンガル語をまくし立て、強気の店員をやりこめてしまったのだった。

5615 単身で外国に渡って語学を学んでいたり、何ヶ月にも渡る一人旅を続けている日本人女性は、世界各地にいた。女の子の一人旅なんて、今となっては珍しくも何ともないのだ。彼女達は一目見てバックパッカーとわかるようなむさ苦しい男性旅行者とは違って、身なりにも気を使う普通の女性なのだけど、知らない土地を一人で歩く勇気と、旺盛な好奇心と、トラブルにもへこたれないタフネスをしっかりと内に秘めていて、状況に応じてそれを使うことができる人だった。

 日本の女の子はとても強くなった。自分らしい生き方を、自分の足で探そうとしている。でも、日本の中では彼女達の力が十分に発揮できていないのも、確かなことのようだった。スペインやイスラエルで働きながら旅を続けているという女の子は、「日本にいたら、こういう自由が手に入らないもの」と言った。日本の社会には、女性をある決まった枠の中に閉じ込めようとする力が、まだ有効に働いている。だから勇気と好奇心を持った女の子達は、さっさと日本に見切りを付けて、海外に出ていくことになっているのではないだろうか。

 
 

右を見ても左を見てもラクダ

5631 「キャメルマーケット」と言うからには当たり前のことなのかもしれないけれど、右を見ても左を見てもラクダ色をしたひとこぶラクダがうろうろしているという「ラクダだらけ」の状態に、まず圧倒された。200、いや300頭はいるだろうか。

 ラクダは巨大な生き物だ。体高はゆうに2mを超えるし、首もぬっと長い。イメージとしては馬というよりも象の方に近い。それくらいでかいラクダが一ヶ所に何百頭も集められているのだから、それだけで見応え十分だった。

 ターバンを巻いた仲買人の男達が、柵の中から売りもののラクダを引きずり出してくる。ラクダ達はみな片足を紐で縛られて自由を奪われている。三本足で不格好に歩くラクダに対して、仲買人は容赦なく竹の棒を振るう。棒がラクダの腹のあたりを打つ「ピシッ」という乾いた音がすると、ワンテンポ遅れて「グォーーー」というラクダの咆哮が聞こえてくる。あののんびりとした風貌からは想像出来ないほど、ラクダの吠え声は大きいのだが、吠えていてもやっぱりしまりのない顔をしているので、全然腹を立てているようには見えない。クラスに必ず一人いた「怒った顔を見たことがない奴」みたいな存在だ。腹いせなのか知らないけれど、吠えながら大小便を辺りにまき散らす反抗的なラクダもいる。もちろんそんなことをする奴には、仲買人から更なる一撃が加えられることになる。

5633

5685 英語のガイドブックに「動物愛好家の方には、この市場の見学はお勧めできません」という記述があったが、確かにその通りだと思う。虐待されているとまでは言わないけれど、少なくとも愛玩動物ではない。ここで取り引きされるラクダ達は、あくまでも使役動物なのだ。

 仲買人の男に値段を聞くと、メスが1500~2000エジプトポンド(45000円~60000円)、オスは2000~3000ほど。体が大きいと値段ももっと高くなるという。エジプト人にとってラクダは決して安い買い物ではないけれど、車やトラックと比較すれば断然安いし、ガソリン代だっていらない(その辺の草を食べさせておけばいい)から、使役動物としてのラクダの需要は当分なくなることはないだろう。

5644 ラクダ達の背にはペンキで数字が書かれていて、その数字を元に売り手と買い手が交渉する。
「78番。こいつは体も大きいし、性格だってごらんの通り温厚だ。こいつは買いだね。3000でどうだい?」
「いやいや、見たところちょっと痩せすぎてやしないか? 2700がいいところだな。それ以上は無理だ」
 身振りや口調から想像するに、こんなやり取りが行われているのだろう。ラクダの価値というものが何を基準に決められているのかはよくわからないが、買い手の男がラクダを吟味する眼差しは真剣そのものだ。

 時には値段を巡って交渉が決裂し、お互いに罵り合ったり、掴み合い寸前というところまで行くこともある。ラクダ達と同じように、人間もホットなのだ。しかし、そうやってもめていた二人が、数分後にはがっちりと握手を交わし、お互いの頬に口付けをしていたりするからわからない。どうやらオーバーに怒ってみせるのも、なだめるふりをするのも、アラブ商人独特の駆け引きのテクニックらしい。

 これまでの旅の中で、僕は数多くの市場を訪れたけれど、賑やかさという点でこのキャメルマーケットに勝るものはなかった。とにかくうるさくて、埃っぽくて、強烈な獣の臭いが漂っていた。ラクダが暴れるたびに、仲買人は棒を振るい、ラクダは空に向かって吠える。そんな衝突と混乱がしょっちゅうどこかで起こっていた。

 エジプトには「アジア的混乱」と呼べるようなカオス状態が、間違いなく存在していた。その最たるものがキャメルマーケットだった。

5656