9264 貴陽のバスターミナルでバスを降り、宿探しをしようと歩き始めると、客引きの男から声を掛けられた。「兄さん、安い宿を探しているのなら着いてきな」というのである。どんな国でも、客引きというのは怪しげだから敬遠しがちなのだが、上手く使えばなかなか便利な存在である。特に中国の地方都市のように、数多くの宿がありながら満室のところも多い、というような場合には、客引きの情報がないと宿探しの苦労も倍増してしまう。

 客引きの男に連れて行かれたのは、猥雑な商店街の一角にある古くて汚い旅館だった。「チープルーム、チープルーム」という僕のリクエストに忠実に答えてくれたわけである。
 シングルルームが50元(750円)というのは、高すぎず安すぎずという値段だったが、残念なのはこの宿にはシャワールームが備わっていないということだった。その代わり、近所に銭湯があるというので、宿のおかみさんに連れて行ってもらうことにした。

 宿から銭湯へ向かう道は、貴陽の町でもとりわけディープな界隈だった。表通りに面した小綺麗でよそ行きの顔をした町ではなく、庶民のための気の置けない下町である。路地裏には、屋台から出てくる食べ物の匂いや、その辺に転がっている生ゴミの臭いや、公衆便所のアンモニア臭とが混ざり合った、よくわからない臭気が充満していた。ひとつひとつの要素は臭いのだが、それが混ざり合い絡まり合うと、不思議とそれほど嫌悪感は感じなかった。中国に入国して最初に味わった「ニーハオトイレの衝撃」以来、中国の町の臭いにも慣れてしまったのだろう。

 
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人生相談か占いか

 路地には、他ではあまり見かけないような珍しい商売をしている人もいた。「洗黒黄牙」という看板を出しているおじさんは、どうやら客のニキビを潰して取ってあげることで、生計を立てているようだった。その隣には客の耳の穴に耳かきを差し込んでいる耳掃除屋の男がいたし、そのまた隣には悲壮な顔つきで客に語りかけているおばさん(おそらく占い師か人生相談師みたいなものなのだろう)がいた。こんな商売で本当に儲かるのだろうか、と思うようなものばかりだったが、どの商売人もかなりの年配に見えたから、一応食べては行けるのだろう。

 大勢の人が行き交い、様々な音と様々な匂いが溢れる路地を抜けたところに、「浴室」という看板を掲げた店があった。ずいぶん古びた建物で、看板のペンキも剥げかかっていたが、湯上がりでさっぱりした顔の男達が中から次々と出てくるところを見ると、ここが銭湯なのは間違いなさそうだった。

 僕は案内してくれたおかみさんに礼を言って、中に入った。銭湯のシステムは、日本のものとほぼ同じだった。まず番頭で入浴料3元(45円)を支払い、「男」と書かれた暖簾をくぐり、脱衣所で裸になって、脱いだ衣服を鍵付きのロッカーに収めて、浴室に入る。

 脱衣所の中は浴室の湯気でもわっと温かかったが、それを更に暑苦しく感じさせていたのが、三人組の若い男達だった。彼らは既にひと風呂浴びて、湯冷ましのためにパンツ一丁でくつろいでいるのだが、そのくつろぎ方がちょっと奇妙なのである。三人で交代交代に腰の辺りをマッサージし合ったり、体をこそばせ合ってふざけてみたりと、とても仲がいい。あまりの仲の良さに、この銭湯は「その道」の人々の間で愛好されているのでは、という疑問が一瞬頭をよぎったが、それだったら三人でなくカップルで来るはずだと思い直し、彼らのことは見てみないふりをすることにした。

 浴室には大きな湯船もちゃんとあった。木製の浴槽はところどころ黒ずんでいたし、お湯だってあまり綺麗ではなさそうだったけれど、一度に10人は浸かれそうなぐらい立派な湯船であることは確かだった。
 これまでの10ヶ月間、僕が泊まり歩いていた安宿にはもちろんバスタブというものはなく、お湯の出るシャワーが浴びれるだけで幸せな気分になったものだった。それだけに、なみなみとお湯の張った湯船に肩まで体を浸したときの感動は、言葉では言い尽くせないものだった。
 お湯は少し熱めだったが、その熱さが筋肉をほどよくほぐしていく。全身に溜まっている疲れが、じんわりとお湯の中に溶け出していくような解放感があった。
「あー、極楽、極楽」
 天井に向かってそう呟いたのは、言うまでもないことだった。

 

 

一番安い「硬座」で上海に向かう

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中国の田舎ではまだ蒸気機関車が現役で働いていた

 貴陽から列車に乗って、中国での最終目的地である上海まで一気に行くことにした。中国の観光ビザの有効期限である1ヶ月がもう間近に迫っていたので、もたもたしていられなかったのである。お金さえ払えばビザを1ヶ月延長することもできたのだが、そうすると、毎日長い距離を移動し続けてきた今までの苦労が無駄になってしまうような気がしたのである。

 貴陽から上海へは最低でも丸一日以上かかるので、寝台車で行きたかったのだが、三日間先まで予約で一杯だということで、仕方なく一番安い「硬座」で行くことにした。
 一番安い「硬座」であっても、一応は全席指定になっているので、席にあぶれるということはないはずなのだが、切符に書かれていた僕の座席には、既に別の乗客が座っていた。膝の上に載せた大きなボストンバッグを大事そうに抱えた、高校生ぐらいの女の子だった。

 僕は座席番号と切符を何度か見比べてから、彼女に声を掛けた。
「あの、ここは僕の座席だと思うんだけど・・・」
 どうせ通じないだろうと思いながら英語で言うと、意外にも彼女は流暢な英語で返事をしてくれた。
「ごめんなさい。ここはあなたの席なんですね」
 彼女は慌てて立ち上がった。
「私は切符を持たないで乗ってきたから、空いている席に座っていただけなんです」
 彼女は申し訳なさそうに、僕に席を譲ってくれた。中国の列車では、切符を持っていなくても、後で車掌にお金を払えば問題はないらしい。

「席を詰めてあげるから、君も半分だけ座ったらいいよ」
 重そうなバッグを抱えて立っている姿が気の毒に思えたので、僕がそう提案すると、彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。
「ありがとう。このままずっと立ち続けるのは大変だから、助かりました」
 彼女は許萍という名前で、高校生2年生なのだと自己紹介してくれた。
「僕も英語を話せる人が近くにいてくれる方がいいんだ。話す相手がいないと、とても退屈だからね。ところで君はどこまで行くの?」
「銅仁という町。ここから6時間ぐらいかかるんです」
「旅行?」
「いいえ。私の家族が住んでいるんです。半年ぶりに家族に会いに行くの」

 許萍は親元を離れて、貴陽にある進学校に通っているのだが、明日から始まる「国慶節」(中国の建国記念日)の連休を利用して、故郷に帰省するのだという。国慶節は日本のゴールデンウィークのような大型連休で、中国全土が帰省ラッシュに沸くのだそうだ。寝台車の予約が何日も埋まっていたのは、おそらくそのせいなのだろう。

 許萍の住む銅仁は小さな町なので、進学に適した教育を受けるためには、遠く離れた貴陽に出て行くしかないのだという。来年、彼女は大学入試を受けるのだが、目標はなんと北京大学なのだそうだ。日本で言えば東京大学にあたる超難関校である。
 彼女の頭の良さは英語を流暢に話すことからもわかるし、日本語の簡単な会話を教えるとすぐに覚えてしまうことからも、記憶力の良さはうかがえた。彼女も僕に中国語の会話を教えてくれたのだが、記憶力の違いか語学センスの欠如なのか、僕の方はさっぱり覚えられなかった。
「年が違うんだよ。16歳っていうのは、ものを覚えるには一番いい時期だからね」
 僕は半分負け惜しみのように言った。
「あなただって、まだ若いでしょう?」
「26歳だよ。君とはちょうど10歳違う」
「ええ? 26なの?」彼女はびっくりしたように言った。「もっと若いと思ってた。20歳ぐらいかなって。だって、あなた、とてもユニークでクールな髪型をしているから」

 僕は笑って、このパーマ頭を大理の美容院でかけてもらったときの苦労話をした。なかなかコミュニケーションが取れなかったこと。美容師の女の子に髪型を笑われたこと。子供達から「ハロー」と呼びかけられたこと。もちろん彼女も大笑いした。
「そりゃそうよ。そんなパーマをかけている男の人は、中国にはいないもの」
「それじゃ、君はどんな男の子がタイプなの?」
「タイプ? うーん、そんなの考えたこと無いわ。私あんまり男の子に興味がないの。ボーイフレンドもいないし。この前ね、クラスの男子に『君はプリティーでアクティブだね』って言われたんだけど、『だから何?』って感じだった。私、その子に全く興味がなかったの」
「僕もその男の子に賛成だね。君はプリティーでアクティブだと思うよ」

 許萍は頭の回転が速いうえに、好奇心が旺盛だった。そして好奇心旺盛な女の子の大半がそうであるように、とてもお喋りだった。お互いに不完全な英語でコミュニケーションを取らざるを得ないという状況も、彼女にとってはとても新鮮な経験なようで、それを大いに楽しんでいる様子だった。
「あなたは中国が話せないんでしょう? それなのによく旅が続けられるわね」
「大丈夫だよ。いざって時には漢字で筆談もできるから」

 僕はいつも筆談に使っているメモ帳を取り出して、彼女に見せた。彼女は興味深そうに1ページずつめくっていった。ほとんどが「どこから来たの?」「日本」「年は?」「26」といったお決まりの自己紹介だったが、彼女はとても面白がった。たぶん、目的もなくふらふらと旅をしている人間と出会うこと自体が、珍しい経験だったのだろう。新種の珍獣の檻の前に掲げられた説明書きをしげしげと眺めている、そんな気分なのかもしれない。

 楽しそうにメモ帳をめくっていた許萍の手が止まったのは、長い筆談を記したページだった。それは僕が雲南省を旅していた頃に、ある男と交わした筆談だった。実は、僕は彼が書いた文章の意味を半分も理解していなかった。彼が日中戦争について自分の意見を書いていたのはわかったのだが、それ以上の詳しい内容は、僕には読み取れなかったのだ。
「恐ろしいこと。間違ったことだわ」
 許萍の顔から血の気が引いているのがわかった。薄い唇が小刻みに震えていた。
「何が書いてあるんだい? 僕には意味がよくわからなかったんだ」
「この人は日本軍を讃えているのよ。日中戦争は正しい戦争だったって」
「どうしてそんなことを言うんだ?」
 僕は驚いて訊ねた。そんなことが書いてあるなんて、思いもよらなかったからだ。

「この人はね、少数民族の白族なの。彼は日本軍によって中国に住む少数民族が圧政から解放されたと考えている。日本軍が中国で戦争をしたのは、白族にとっては正しいことだと言っているの。でも、そんなのは作り話だわ。私も少数民族の苗族だけど、こんな風に考えたことは一度もない。あの戦争は中国人全員を苦しめた。間違ったことよ」

 許萍は明らかに怒っていた。憤りに身を震わせていた。そしてその怒りの矛先をどこに向ければいいのかわからなくて、戸惑っているように見えた。おそらく、彼女の怒りのうちの何割かは、日本人である僕にも向けられているのだろう。それも無理のないことだと思えた。

「日本が中国を侵略したのは事実だし、日本軍が中国で行った残虐な行為は、許されるべきものではない。僕はそう考えている。決してあの戦争を正当化しようとは思っていないんだ。それはわかって欲しい」
 僕はなるべく正直に自分の考えを伝えようと試みた。そうすること以外、僕にできることはなかった。

 許萍はしばらく黙って目を閉じていた。自分の考えを整理するための時間が必要なのだろうと僕は思った。
「そうね。あなたがあの意見を書いたんじゃないってことは、わかっているわ。だけど、彼のような考えを持っている中国人はとても少ないということだけはわかって欲しいの。あの戦争は間違ったことよ。それは中国人も日本人も絶対に忘れてはいけないことだと思う」

 

8819 中国を1ヶ月旅する間、僕が日本人だからという理由で、嫌悪感を示されたり、議論になったりすることは一度もなかった。戦争のことが話題になることも、ほとんどなかった。
 しかし、それは僕が中国西部の辺境地帯を長く旅していたからでもあるのだろう。日中戦争当時、日本軍に占領されていた地方に住む人々は、今でも日本軍の行為を忘れてはいない。そのことは、僕ら日本人が肝に銘じておかなくてはいけないだろう。

 列車は漆黒の闇の中を走り続けていた。貴陽の駅を出発してから4時間が経ち、午前0時を回ると、僕ら以外の乗客のほとんどがうつむいて眠りはじめた。窓からは涼しい風が吹き込んできた。許萍はバッグの中から上着を一枚取り出して羽織った。彼女はもう怒ってはいなかったが、最初の頃のようにハイテンションで話し掛けてくるということはなくなった。

「あなたは日本にいる家族や友達と、長い間離れているんでしょう? 淋しくはないの?」
 しばらく黙っていた許萍が再び口を開いたのは、彼女の故郷である銅仁駅が近づいてきた頃だった。
「もう慣れてしまったからね」と僕は言った。
「私は駄目。家から遠く離れた学校に通うようになって2年経つけど、今でも時々ものすごく淋しくなるの」
「そういうときはどうするの?」
「公衆電話から電話をかけるの。でも、お父さんは私が電話してくると、必ず怒るの。『電話代が高いだろう。すぐに切りなさい』って。私が家に帰ってきても、嬉しそうな顔をしたことがないの」
「悲しい?」
「ううん、そんなことはないわ。お父さんが私を愛していることはわかっているから。本当は私のことが心配でたまらないんだと思う」
「そのお父さんに半年ぶりに会えるんだね」
「そう。とっても楽しみよ。でも一週間経ったら、また学校に戻らなくちゃいけないの。それを考えると、すごく落ち込んじゃうんだけど」

 列車が銅仁駅に到着したのは、午前2時過ぎだった。
「私が降りてしまったら、あなたは暇になるでしょうね」
 彼女は自分の荷物をまとめながら言った。
「そうだね。でも、退屈な旅には慣れているから大丈夫だよ」
「あなたと話ができて、とても楽しかった。さようなら」
「僕も楽しかったよ。北京大学、受かるといいね」
 僕らは最後にしっかりと握手をして別れた。彼女はその小さな体に不釣り合いなほど大きなボストンバッグ(家族へのお土産がいっぱい入っているらしい)を抱えて、列車を降りていった。