アフガニスタンを目指した理由
2004年5月に、アフガニスタンを三週間かけて横断した。パキスタンのペシャワールからカイバル峠を越えてジャララバードという町に入り、カブール、バーミヤン、マザーリシャリフ、ヘラートというアフガニスタン北部の町を全て陸路で移動した。ハードでタフで埃だらけの道中だった。
僕がアフガニスタンに行きたいと思い始めたのは、しばらく前のことである。あるアメリカ人の写真家が撮ったアフガン人のポートレート写真を初めて見たときに、強く惹きつけられるものを感じたのが、そもそものきっかけだった。
特に印象的だったのは人々の顔つきの違いだった。青い目と彫りの深い顔を持つインド・ヨーロッパ系の人もいれば、日本人とよく似た浅黒くて平べったい顔のモンゴル系の人もいた。アフガニスタンは多種多様な民族と言語と文化が入り交じった国なのだということが、その写真からはっきりと伝わってきたのだった。
2004年5月の時点で、一般人がアフガニスタンを旅行するのは決して奨励されない行為だった。いくら内戦が終結したといっても、ついこの間まで戦争をやっていた不安定な国であることは確かだったし、当然のことながら旅行に関する情報は皆無に等しかったからだ。
僕は事前に、ツーリストビザが比較的容易に手に入るということと、一部の地域を除けば治安は安定しているという情報を他の旅人から得ていたのだが、それでも実際にこの国を歩いてみるまで、漠然とした不安が消えることはなかった。僕がアフガニスタンに入る直前に、首都カブールでスイス人ツーリストが惨殺されたというニュースが入ってきたことも、不安感をさらに煽ることになった。
しかし、僕が旅した限りにおいては、アフガニスタンはそれほど危険な国ではなかった。警官や兵隊の数はやたら多かったけれど、危ない目に遭うことは一度もなかった。僕はいつものように町をあてもなくぶらぶらと歩き、写真を撮り、出会った人々と話をした。旅行者の姿はほとんど見かけなかったけれど、アフガン人達はその珍しい外国人旅行者に対して、旺盛な好奇心と親切さを持って接してくれた。
でも、何をおいても強調しておかなければいけないのは、アフガニスタンがとても美しい国であるということだ。今も残る内戦の傷跡や、タリバン政権下で抑圧されていた女性の象徴であるブルカや、温かく親切な人々について伝える前に、まずこの国の美しさについて書こうと思う。
空の青さが僕を打ちのめした
その日、僕は首都カブールからバーミヤンに向かう「乗り合いハイエース」に揺られていた。アフガニスタンでは、トヨタ製のワンボックスカーであるハイエースが、路線バスの代わりに使われているのである。大型バスが走れるような舗装道路は、まだ少ないということなのだろう。
カブール郊外には地方都市へ向かう乗り合いハイエースの集合場所がいくつかあり、乗客はそこに行って、客待ちをしている運転手と直接交渉する。問題は出発時間が異様に早いということである。特にバーミヤン行きのハイエースは朝の四時頃から出発し始め、五時前には全て出払ってしまう。アフガン人は早寝早起きを基本としている人々なのだが、それにしても四時というのはあまりにも早すぎると思う。早朝というよりは真夜中に近い時間なのだ。(と僕が文句を言っているのは、この前日の五時に集合場所に行ってみたら、「もうバスはないよ」と言われて、やむなく出発を一日遅らせることになったからだ)
というわけで、カブールを出発してからしばらくは、ずっと瞼が重く、うとうととしていた。三人乗りシートに無理に四人で座っているものだから、かなり窮屈な姿勢を強いられていたのだが、僕の眠気はそれを遙かに上回るものだった。
しかし、出発から二時間ほど経って山道に入ってからは、もうのんびりと眠ることはできなくなってしまった。道路が穴ぼこと石ころだらけのひどい悪路に変わると、車は旧式の洗濯機のようにガタガタと不安定に揺れ始め、窓の上にある手すりに掴まって体を支えなければ、天井に頭をぶつけかねないような状況になってしまったのだ。
僕の眠気を吹き飛ばしたのは、悪路だけではなかった。窓の外に現れた山脈と青空の美しさに、僕は一瞬にして目を奪われてしまったのだ。「目の覚めるような風景」というのは、きっとこういう眺めのことを言うのだろうと思った。
万年雪を頂いたヒンドゥークシュ山脈の稜線は、まるで広告用の写真から切り取られたようにシャープだった。その山の頂から流れてくる小川は、下流の麦畑を潤し、鮮やかな緑の絨毯を作り出している。草原には無数のタンポポや菜の花が咲き、その近くで羊の群が黙々と草を食んでいる。頭にターバンを分厚く巻いた老人が、ロバにまたがって草原を横切っていく。畑には赤や水色の派手なショールを頭に被った女達が、顔を隠すようにして働いている。
そこにあるもの全てが美しく印象的だったけれど、何よりも僕の心を捉えたのは空の青さだった。それはいつも世界を柔らかく包んでいる半透明の膜を全て剥ぎ取ってしまったような、極めて純度の高い空だった。全てのものを含み、なおかつ全てのものを拒むような深みを湛えた青空だった。このような空が現実にこの地球上にあるということが、僕には上手く信じられなかった。あまりにも現実離れした青空なのだ。
僕はどちらかと言えば、自然の景観やダイナミックなパノラマというものにあまり関心を持たない人間だと思う。事実、多くの国を旅する中で僕の心を動かしたのは、風景ではなくそこに住んでいる人々の表情や暮らしぶりだった。しかしこの空の青さは僕を打ちのめした。その圧倒的な宇宙の広がりの前では、自分は取るに足らないちっぽけな存在でしかないのだと思い知らされた。
このような青空はもう二度と見ることはできないかもしれない。僕はふとそう思う。この青空を生み出している奇跡的なバランスを、僕は肌で感じ取る。この青空は確かに今ここに存在しているけれど、明日には、いやひょっとしたら次の瞬間には失われてしまうものなのではないか。僕は直感的にそう思う。
そして突然、何も考えられなくなる。文字通り言葉を失ってしまう。思考が完全に停止する。僕は自分の中で何かが壊れる硬い音を聞く。喉の奥から熱いものがこぼれてくるような感覚がある。気が付くと涙が頬を伝っている。それは僕自身をとても驚かせる。何かの間違いじゃないかと頬を手で拭ってみる。人差し指に湿った涙の感触がある。間違いない。僕は泣いている。しかし何故泣いているのか、その理由がわからない。悲しいわけでもなく、嬉しいわけでもない。そういう感情とは全然別のところで、自分の目から涙が溢れている。ただただ、こみ上げてくる熱いものを押さえることができない。
ハードな旅を何ヶ月も続けていたせいで、確かに僕は疲れ切っていた。精神的にも肉体的にも限界が近づいていた。だからこそ心が無防備になって涙を流したのだ。そう考えることもできる。しかし、僕が泣いたのは「あまりにも青空が美しかったから」なのだと思う。それ以外の理由は、おそらく理由付けのための理由でしかないのだ。
人は美しいという理由だけで泣くことができる。あまりにも美しいものの前では、理性は感情の波にいとも簡単に押し流されてしまうものなのだ。それはある種の啓示のように、何の前触れもなく訪れる。僕はそのことを身を持って知ったのだった。
泣き方すら忘れていたのに
激しい感情の奔流は、それからしばらく続いた。幸いにして、他の乗客は僕が泣いていることに気が付かなかった。喉は嗚咽することを激しく求めていたけれど、それだけは何とか押しとどめた。
そしてその波が去った後に、「この前泣いたのはいつのことだろう?」と考えてみた。思い出せなかった。少なくとも高校を卒業してからは、涙を流して泣いたという記憶はない。中学まで遡ればあるとは思うけれど、それがいつだったのかは全く思い出せない。ということは、少なくとも十年以上は泣いていないことになる。だから泣き方すら忘れてしまっていたのだ。
幼い頃、僕は泣き虫だった。何か気に入らないことがあると、すぐに泣いていた。それは恥ずかしいことだと思うようになってから、僕は泣かない人間になった。そしていつしか泣けない人間になった。感情の奔流に身を任せることができなくなってしまった。理性という堤防が、いつも涙を一歩手前のところで押しとどめていたのだった。
僕は「北風と太陽」の物語を思い出した。吹き付ける冷たい北風を前にして、旅人は服を剥ぎ取られまいと頑なになる。しかし太陽の光と青空の前に、旅人は服を脱いで裸になる。それと同じことが僕の身にも起こったのだと思う。アフガニスタンの青空の圧倒的な美しさは、これまで僕を守っていた理性という堤防を壊し、硬い鎧をうち砕いて、僕の心を裸にしてしまったのだ。
涙を流すことによって、僕は自分自身を縛っていたものから、少しだけ自由になれた気がする。今まで知らなかった自分を知ることができたように思う。
未知なる外の風景によって、自分の内にある未知の部分が露わになることがある。そんな瞬間を求めて、僕は旅を続けているのかもしれない。