まさか腕相撲で骨折するなんて
ある人は「太い木の枝が折れたような音」だと言い、ある人は「満塁ホームランのような音」だと証言した。共通していたのは、「今まで一度も耳にしたことのない音だ」ということだった。西新宿にある居酒屋の一室にその乾いた音が響き渡ると、賑やかな宴会の場は一瞬にして静まり返った。
その音を一番間近で聞いていたのは僕だったが、それが何を意味しているのか、すぐにはわからなかった。右手を動かそうとするが、力が入らない。あれれ、と思う。そこでようやく自分の右腕に異常事態が起こっているのだとわかった。それでもまだ、乾いた音の正体が、骨が折れるときの音だとは考えられなかった。そもそも『腕相撲で腕の骨が折れる』なんて事態を、一体誰が想像できるだろう。
お酒が入っていたのは確かである。日本酒で3合ぐらい。でもそれほど酔いが回っていた訳ではなかった。僕ら(つまり僕と腕相撲の相手だ)の力はほぼ拮抗していて、やや僕の方が押されていた。劣勢を挽回しようと力を込めた瞬間の出来事だった。ムキになっていた部分はもちろんあるけれど、無理な体勢というわけでもなかった。痛みさえほとんど感じなかった。だから本当に信じられなかったのだ。まさか腕の骨が折れるなんて・・・。
しかし数分の後には、骨折したという事実が僕の体中を駆け巡っていた。まず頭が重く痺れてきて、何も考えられなる。次に悪寒が全身を襲う。それでも痛みそのものは、あまり感じない。だけど「大丈夫、大丈夫」なんて周囲に笑顔を振りまいている余裕も、もう1ミリもない。あとで聞いたところでは、僕の顔から血の気が引いて真っ青に変わっていく様子がよくわかったという。そして倒れ込むように床に横たわると、そのまま動けなくなった。
そこからの記憶は断片的である。救急隊員に両脇を支えられてエレベーターに乗る。担架で救急車の中に運び込まれる。サイレンの音。腕相撲の相手が申し訳なさそうに僕に声をかけている。いいんです、と僕は答えている。交差点を二三個またいだだけで、サイレンの音が止む。「三連休初日の夜だから、受け入れてくれる病院は限られている」という救急隊員の説明のわりにはずいぶん近かったな、と思う。
初救急車、初入院、初点滴、初座薬、初手術
それからは何もかもが初体験だった。初救急車からはじまって、初入院、初点滴、初座薬、初手術。おめでたいなんてものを通り越して、なにもかも初物づくしである。
三連休の間は手術もやらないそうで(医者も行楽に出かけているんだろう、きっと)、手術を待つ三日間、僕は右腕に重りをぶら下げられたまま状態で過ごす羽目になった。腕を固定されているので、ベッドから動くことはおろか、体をひねることすらできない。言うまでもなく、これはとても辛い状況だった。
でもそれ以上に辛かったのが、眠れないことだった。僕の知る限り、ほとんどの人は「仰向け」か「横向き」で眠っている。そしてそれを当たり前のことだと思っている。でもどういう訳か、僕は物心付いた頃から「うつ伏せ寝」だったのだ。理由を聞かれても困る。それが長い間僕にとって当たり前のことで、どうやら普通の人は違う寝方をしていると知ったときには、時すでに遅く、その姿勢でしか眠れなくなっていたのだった。
20年以上も続けている習慣を一晩で変えろと言われても、できるわけがない。ましてや骨折の痛みが周期的に襲ってくる状態である。看護婦さんが入れてくれた痛み止めの座薬も効果なく、入院した夜は一睡もできないまま白々と明けていったのだった。
もし「うつ伏せ寝」の人がこの文章を読んでいるとしたら、要点はここだけです。よく聞いてください。「なるべく早いうちに、うつ伏せ寝を変える訓練をした方がいい」。そうしなかった僕は、眠れない苦しさをたっぷりと味わったのだった。
手術の前にレントゲンを見せてもらって唖然とした。予想以上の重傷だった。上腕の太い骨が、真ん中からまっぷたつに折れていた。細い骨の破片も一本見える。合計三本の白い陰が、レントゲンにはっきりと写し出されている。僕はそれを見て、毛利元就の三本の矢の逸話を思い出した。どんなに太い骨も、折れてしまえば三本になってしまうんだよ・・・。
「いやー、高く付いた腕相撲でしたね」
40代前半ぐらいの執刀医が言う。趣味はテニスかゴルフだろうか、よく日に焼けている。彼の口振りからすると、腕相撲で腕を折るケースは、頻繁にあるわけではないけれど、希有な例とまでは言えないようだった。皆さん、宴会場で調子に乗って腕相撲をしている男二人を見たら、さりげなく注意してあげましょう。「腕折ったらシャレにならないよ」と。周囲の人間はシャレでいいけれど、折った本人はそういうわけにはいかない。
「上腕をまっすぐ切開して、三本の骨を一本にまとめる手術を行います。折れた骨をプレートで固定してから、切開した部分を縫い合わせます。時間にして3時間ぐらい。全身麻酔だからご本人は何も覚えていませんよ。神経を避けて手術しますから、後遺症が残る心配はありませんが、手に痺れが残る場合もあります。これも2,3ヶ月したら治ります。ギブスが取れるまで1ヶ月半から2ヶ月はかかるでしょうね」
執刀医は僕の哀れなレントゲン写真をぺらぺらと揺らしながら言った。
「ま、手術自体は難しいものじゃありません。安心してください」
どちらにせよ僕には選択肢はない。まな板の上の鯉。手術台の上の全身麻酔患者である。
入院生活とはいかなるものか
入院生活とはいかなるものか。実際に経験された方ならおわかりだと思うけれど、ひとことで言って「退屈」である。体を休めるのが目的なのだから、退屈なのは当たり前なのだけど。
楽しみといえば食事なのだけど、病院食というのは美味しさを追求した代物ではないし、僕の場合左手一本で食べなくちゃいけないから、あまり食べた気がしなかった。それじゃあ気分転換に誰かと話をしようと思っても、入院患者は圧倒的に高齢者が多いから、延々と自分の怪我自慢や病気自慢を聞かされることになるのだった(どういうわけか、お年寄りというのは自分の怪我を自慢げに話すのである)。
僕が2週間の入院生活を送ったのは、ベッドが6つ並んだ大部屋(旅行記風に言えばドミトリー)だった。
「二人部屋だとプラス5000円、一人部屋だとプラス1万2000円。どれにします?」と救急車で運び込まれた直後に看護婦に聞かれて、ほとんど反射的に「大部屋で」と答えたのだった。
大部屋と言っても、もちろん野戦病院的あるいはアジアの安宿的ドミトリーとは違って快適である。ベッドは6つあるけれど、カーテンで仕切られているからプライバシーはある程度守られるし、テレビも冷蔵庫もある。「たびそら」風に言えば「まず文句のない宿」となるだろう。
新宿という場所柄なのか、患者には突発的なアクシデントで急に担ぎ込まれてくる(つまりは僕のような)人が多かった。自転車で転んで両手を複雑骨折した老人や、薬を飲み忘れて発作を起こしたというてんかん患者の人、尿道結石の痛みで入院してきた人、急性十二指腸潰瘍に襲われたペリカン便の運転手、床屋で倒れたというおじいちゃん(この人はかなり痴呆も進んでいて、付き添いの奥さんに『時計がないから時間がわからない』と30回くらい繰り返していた)などなど。外科とは直接関係ない人まで幅広く収容していた。
同部屋の中で一番興味を引かれたのは、腕を折って入院していた40代半ばぐらいの男だった。彼は病院を流れる異質な時間の流れに抗うように、いつも携帯電話で仕事場と連絡を取り合ったり、カタカタと携帯メールを打ったりして忙しく過ごしていた。聞こえてくる話から推測すると、彼は工務店の社長で、お金は持っているのだけど、個室に空きがなかったので大部屋にいるらしかった。(ちなみに病院の規則では携帯電話の使用は禁止されているのだけど、実際にはほぼ黙認されていた)
面白かったのは、彼の奥さんと二人の娘が見舞いに訪れたときのことだ。下の娘(たぶん、小学校1年ぐらいだろう)が開口一番に言った。
「ピンクのタオル! パパ、誰かがお見舞いに来たの?」
「ああ、会社の人だよ」
「・・・ほんとう?」
娘は疑わしそうに、しかしはっきりと言った。その年の子にしては、あまりにもマセた口調だった。すべてお見通しなのよ、という声音だった。それに対して父親は何も答えなかった。その後数秒間、居心地の悪い沈黙が家族の間を覆った。
すごい家族である。ピンクのタオルから父親に女の気配を感じる娘の直感力もすごいが、「ほんとう?」と無邪気に核心を突かせてしまう父親の存在の軽さもすごい。きっと父親に浮気相手がいるのは、公然の秘密なのだろう。そう思っていたら、それを裏付ける出来事がぽろぽろと出てきた。
家族が帰った1時間ほどあとで、そそくさと見舞いに訪れたのが、例の「ほんとう?」の女性だったのだ。僕はベッドから動けないので顔を見ていないのだけど、友達曰く「水商売系」とおぼしき30代前半のきれいな人だったらしい。さらに驚くべきことに、彼女が帰った直後にもう一人別の女が見舞いに訪れたのだった。彼女は20代前半で背がすらりと高く、モデルのようなスタイルだったという。
そりゃあ忙しいわけだ。携帯で頻繁に連絡を取っていないと、ダブルブッキングなんて悲劇に見舞われてしまう。しかし、男の顔はこれといってハンサムではなかったし、友達曰く「あの人、どうも髪の毛が不自然なんだよね。自毛じゃないんじゃないかな?」ということだった。
カツラだろうが、植毛だろうが、妻子持ちだろうが、娘に痛いところ突かれて冷や汗を流していようが、男がモテているという事実は変わらない。やっぱり男は甲斐性なのかねぇ、と考えてしまった。
読書の日々
もちろん、そういうスリリングな入院生活を送っている患者は少数派で、だいたいの患者が備え付けの14インチのテレビを見て、ぼーっと一日をやり過ごしていた。少なくともテレビさえつけていれば、退屈な時間を耐えることができる。そういう意味では、テレビというのはとても便利な機械である。
僕も家にいるときはわりにテレビを見る方である。だけど病院では一度もテレビをつけなかった。問題は、病院のテレビが有料カード方式で、1時間100円だか必要になるということだった。改めて考えてみると、100円払う価値のある番組というのは、とても少ないように思えてきたのだ。
病院とテレビというのは実に相性がいい。病院のベッドというのは無制限にだらだらできちゃう場所だし、それがおおっぴらに奨励されている場所だから、ひとたびテレビのスイッチをひねったら最後、ずっとテレビを見続けちゃうような予感が漂っているのだ。
だからこそ、僕はあえてそれを避けた。そうしないと、病院という存在を覆う倦怠感に自分がすっぽりと飲み込まれてしまうんじゃないか・・・そんな気がしたのだ。
というわけで、入院している2週間の間、僕はほとんどの時間を読書に費やした。右手が使えなくても、ベッドから起きあがれなくても、本なら読める。幸いにして見舞いに来てくれた友達が持ってきてくれた本は、読み切れないほどの量があったし、読みたいものをリクエストして買ってきてもらったこともあった。
たまたま美少女写真の話をしていて、「松浦亜弥の写真集が見たいな」と冗談で言ったら、本当に買ってきてくれた人もいた。参ったなぁ、ほんとはそういう趣味じゃないのに・・・とここで言い訳しても、もう遅いかもしれないけど。
まぁ「あやや」はともかく、いろんな本を読んだ。谷崎潤一郎から吉本ばななまで。ジャン=フィリップ・トゥーサンからキムタクまで。人が持ってくるものだから、本来僕が手に取りそうにないものも多かったが(同室の患者さんがゴルゴ13をくれたのだけど、これは笑った)、やはり旅関係の本が一番多かった。
極北の大地アラスカで野生動物と自然を撮り続けた写真家・星野道夫のエッセイ集「長い旅の途上」の中に、こんな言葉を見つけた。
「人間にとって、きっとふたつの大切な自然があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道ばたの草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしと関わらない遙か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこにあると思えるだけで心が豊かになる自然である。それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う」
僕のベッドは窓際にあったのだけど、窓はなぜか5cmしか開かなかった。5cmだけ見える新宿の空は、いつもくすんだ色をしていた。アパートやオフィスビルや専門学校やらがごちゃごちゃと無秩序に建て込んでいて、およそ印象的とは言い難い眺めだった。そこにある自然といえば、アパートのベランダのプランターに並んだ観葉植物ぐらいだった。
でもそんな5cmの窓からでも、想像力を駆使すれば、いろんなものを見ることができる。どこにだって行くことができる。アラスカでカリブーを追い、ナミビアの砂漠を横切り、ガラパゴスの海に潜ることもできる。肉体の自由が利かない状況だと、想像力はいつも以上に膨らんでいくものなのかもしれないな、と僕は思った。
新宿の空気が新鮮に感じられた
術後の経過について、さらっと書いておこう。手術当日のことは麻酔と痛み止めで意識が朦朧としたので、あまり覚えていない。喉が渇くのだけど当日は水も飲んではいけないから、うがいをすることだけしか許されなくて、それがとても辛かった。手術は成功で、医者が懸念した右手の痺れも全くなかった。
手術の翌々日あたりから元気を取り戻し、頭もすっきりとした。当初右腕はボンレスハムのようにむくれ、薬の影響なのか黄色に変色していたが、それも日を追うごとに元に戻っていった。自分の足で歩いてトイレに行けることが、何よりも嬉しかった。
興味深かったのは爪の長さである。左手は普通のペースで爪が伸びているのだけど、骨折した右手は2週間の間ほとんど爪が伸びなかったのだ。怪我を治す方にエネルギーを取られていたのだろう。
そして5月16日、傷口の抜糸も終わり、晴れて退院することになった。その日ばかりは西新宿の小汚い町が、生き生きと輝いていた。忙しない人通りや、スクランブル交差点や、けばけばしい看板が、すごく昔に見た懐かしい風景のように見えた。さっそく一人の友達に電話をかけた。
「新宿の空気が新鮮に感じられるなんて、初めてだよ」
というわけで、退院した次の日に京都に帰り、今は自宅のパソコンに向かっています。右手のギブスがとれるのは、しばらく先になりそうですが、キーボードは普通に打てますし、日常生活もほぼ支障なく送っています。
今回の骨折騒動では、本当にたくさんの方々にご迷惑やご心配をおかけしました。特に写真展会場の「茶香間」の皆さんには、最後の二日間とトークイベントを台無しにしてしまって、大変申し訳なく思っています。僕自身も楽しみにしていただけに、とても悔しかったです。写真展とトークイベントを楽しみにしていた方、本当にごめんなさい。
しかし、茶香間オーナーの佐々木さんも「ぜひリベンジしましょう」とおっしゃってくださいました。ですから、トークイベントはまたいつか必ずやるつもりです。
さてさて、初骨折、初入院、初手術、ということもあって、当初はさすがにナーバスになっていたのですが、それを支えてくれたのが、「たびそら」を通じて知り合った仲間でした。退屈な入院生活も、多くの人がお見舞いに来てくださったお陰で、ずいぶんカラフルなものになりました。
人は一人で生きている訳じゃない。そんな当たり前のことを、今回改めて気付くことができたように思います。