著者:三井昌志 / 2014年8月発売 / 出版元:雷鳥社
価格:1500円(+税) / 上製 A5判変型 128p
ご購入は「たびそら通販部」から。著者サインと新作ポストカード3枚をお付けします。
生きているから、笑うんだ
『写真を撮るって、誰かに小さく恋することだと思う。』は、世界各地で撮影された100人を超える人々の笑顔が詰まった写真集です。
宗教も文化も言語もそれぞれ違う。けれど、その笑顔から受ける印象は驚くほど似ています。それは「前進する力」であり、「ポジティブなエネルギー」なのです。
笑顔は、人から人へ伝染します。
僕が笑えば、あなたも笑うし、あなたが笑えば、それを見た誰かも笑う。
誰かが心の底から笑っている姿を見ると、僕らはそれだけで楽しい気持ちになります。
笑顔には、人が持つ「共感する本能」を強く揺さぶる力があるのです。
僕が旅してきたバングラデシュ、ミャンマー、カンボジア、ネパール、東ティモールなどの国々は、「貧困」や「政情不安」といったネガティブなイメージで語られることも多いのですが、実際にバイクに乗って旅してみると、まったく違った面が見えてきます。
とにかく明るいのです。生きることの喜びがまっすぐに伝わってくる。そんな笑顔を向けてくれるのです。日本人よりもはるかに多くの難題を抱えているはずなのに、それを感じさせないハートの強さがあるのです。
どんな環境にあっても人は笑顔になれる――そんなシンプルな事実に心動かされながら、僕は旅を続けてきました。
ページをめくるたび、笑顔になる力が蘇ってくる。
そんな写真集です。
ぎゅっと濃縮された「笑顔のエッセンス」を、ぜひ感じてください。
タイトルがやたら長い理由
この本には『写真を撮るって、誰かに小さく恋することだと思う。』という少々長いタイトルが付いています。
実はこれ、僕のアイデアではありません。僕が当初考えていた題名は、もっと短くてわかりやすいものでした。でも出版元の雷鳥社の社長で、この本の編集も引き受けてくださった柳谷さんが、本の中にあった『写真を撮るって、誰かに小さく恋することだと思う。』というフレーズを見て、「これをタイトルにしちゃいましょう!」と言ってくれたのです。
写真を撮るって、誰かに小さく恋すること
これは去年開いた写真教室で使ったフレーズでした。
写真を撮るとき、僕が一番大切にしていることは何だろう?
どういう気持ちで被写体に向き合えば、いい写真が撮れるんだろう?
そう自分に問いかけたとき、「小さく恋する」という言葉が自然に出てきたのです。
恋に落ちた理由が説明できないように、目の前の被写体に惹かれた理由も、うまく説明することはできません。なぜだかよくわからないけど、この人のこの表情に惹かれて、どうしても撮りたくなってしまう。そういうものだと思うのです。
「小さく恋する」相手は、何も異性に限りません。しわだらけのおばあさんに小さく恋することもあるし、野に咲く花や、青空に浮かぶ雲や、夕暮れ時の光にだって、小さく恋することもあるのです。
「これだ!」と思い込んだら、他のものは目に入らなくなる。そういうところも、写真と恋は似ています。
たくさんの子供たちが集まってきて、「私を撮って!」「僕を撮って!」と口々に叫んでいるようなときでも、僕は特別な輝きを持った一人の子供だけにカメラを向けます。明らかな「えこひいき」は、他の子供たちのブーイングを誘ったりもするけれど、カメラを向けたその子には「他でもないあなただけに注目しているんだ」というメッセージをはっきりと伝えることができるからです。
「私は選ばれた」という意識は、誇らしさや気恥ずかしさや好奇心が混じった特別な表情を生みます。それが浮かぶのは、ほんの一瞬だけ。その一瞬を逃さないためには、相手の気持ちと自分の気持ちがシンクロしていなければいけません。思いと思いがつながらなければいけないのです。
小さく恋すべき相手は、無数にいます。
僕らはこの世界のありとあらゆるものにカメラを向けることができるのです。
原点回帰としての7作目
2003年に発表した第一作『アジアの瞳』は、写真集としてはかなり売れました。増刷も何度もかかったし、あの表紙の少女(ネパールに住むサリタ)は、僕よりも顔が知れた存在になりました。
でも、僕自身は『アジアの瞳』の出来映えには満足していませんでした。何しろ、それまで写真というものをまともに撮ったことのない素人同然の人間が、初めての旅で撮った写真だったのです。上手いはずがない。当時のデジカメ(D30というカメラ)の性能もあまり良くなかったし、写真の腕も未熟だった。光や構図を意識して撮る余裕すらなかったのです。
そんな写真がたまたま世に出ることになったのは、とても幸運なことだったと思います。この一冊があったから、仕事の依頼が来るようになったのだから。しかし「写真家」と名乗ってはみたものの、実力が伴っていないことは自分でもわかっていたから、なんとなく居心地が悪かったのです。よっぽど「写真家(見習い中)」とでも書いてやろうかと思ったほど。
だからこそ、二作目以降はもっと深みと奥行きのある作品を作ろうと試行錯誤を続けてきました。『素顔のアジア』では笑顔ばかりではないシリアスな現実をノンフィクションとして描いたし、『この星のはたらきもの』では働くおっさんたちの汗が伝わるリアルな写真を集めたのです。自分の表現の幅を広げようと必死にもがき続けてきた。そんな10年だったと思います。
7作目となる『写真を撮るって、誰かに小さく恋することだと思う。』は、もともと写真だけのシンプルな構成にするつもりでした。言葉であれこれ説明するのではなく、写真からできるだけ多くのことを感じてもらいたい。それが写真集の王道だと思っていたからです。
僕は「伝えたい」という欲求が強い人間です。「写真だけでは伝えきれないものは言葉で補いたい」という気持ちが強いのです。だけど「写真集」というメディアでは、おしゃべりは慎んだ方がいい。あくまでもクールに、写真だけを読者の前に差し出すのがいいと考えていたのです。
しかし編集者の意見は違っていました。
「写真には十分に力がある。でも言葉があった方がもっといい」と言うのです。
それじゃあ、ってことで、言葉探しが始まりました。写真の力不足を補うための言葉ではなく、作品全体の力をより強める言葉を選ぶことにしたのです。バラバラだったビーズに一本の糸を通すように。
こうして出来上がった本は、結果的に原点回帰の色が濃い作品になりました。もちろん写真も言葉も10年前とは違うんだけど、本を貫く「縦糸」は『アジアの瞳』と重なるものがあると感じるのです。
結局のところ、僕が写真を通して伝えたいものは、ずっと変わらなかったのかもしれません。
以前よりも視野が広がり、より多くのものがクリアに見えるようになったけれど、目指している方角はいつも同じだった。そういうことになるのかもしれません。