人と動物の距離がとても近いのがアジア。動物たちと共に暮らす人々の姿を集めました。
 

星々が支配する夜が明けて、朝の日差しが地面を温めると、無数の雲が空に現れる。コッペパンみたいな形をした小さな雲が、等間隔に並ぶ。その雲の下で、女達が馬の乳を搾る。馬は遊牧民にとって生活の糧であり、乗り物であり、大切な家族なのだ。(モンゴル2001)
 

刈り取りの終わった田んぼでのんびりと草を食む水牛と、その背中に乗っている子供たち。広々とした水牛の背中は一休みするのに最適の場所だ。
遊んでいるようにも見えるが、これでもちゃんと「水牛の番」をしているのである。当の水牛は「食事の邪魔をしないでくれよ」と言いたそうだったが。(インド2009)
 

バーゲソールという名前の10歳の少年は、いつ見ても水牛の背中に乗っていた。僕は彼と何度もすれ違ったのだが、地面に降りている姿を一度も見たことがなかった。(ネパール2005)
 

ルーマニア北部の田舎町で、月に一度立つという家畜市に出かけた。子馬を売りに来ている親子がいた。娘は子馬のことを自分のきょうだいのように感じているらしく、愛おしそうに頬をすり寄せたり、たてがみを撫でてやったり、鼻面にキスをしたりしていた。
でも、この子馬はあくまでも売り物で、買い手が見つかれば少女の元を去っていく運命にある。彼女もそのことは十分に承知しているのだろう。子馬を見つめる少女の眼差しは、どこか悲しげだった。少女は子馬の頭をぎゅっと引き寄せて、耳元に何かを囁いた。ルーマニア語がわからない僕にも、それが別れの言葉だということは伝わってきた。(ルーマニア2001)
 

インドの大きな寺院には「お賽銭象」がいる。1ルピーコインを象の鼻に渡すと、象が頭をちょんと叩いてくれるのだ。幸運を呼ぶおまじないなのだという。鼻のコインは後ろに控えている男の手に渡される。お賽銭が象の食費になるのである。(インド2007)
 

インドでは思わぬ光景に出くわすことがある。収穫が終わった田んぼでおとなしく草を食べていたはずの山羊が、水瓶に頭を突っ込んだまま抜けなくなってしまったらしい。不意に目の前が真っ暗になって、山羊は大いに慌てている。なんとも間抜けな姿に、飼い主からも笑い声が上がった。(インド2007)
 

フンザは標高2500mの高地なので、坂道や階段を急いで歩くと、すぐに息が切れてしまう。だから、フンザに住む人々の生活リズムは、自然とゆったりしたものになる。急ぐ必要はないし、誰も急がない。(パキスタン2001)
 

頭を寄せ合って眠る仲の良い猫。(ミャンマー2008)
 

祭りの人だかりの中にいたオウム。オウム返しに繰り返される言葉に、子供たちも興奮気味だった。(インド2007)
 

ネパールには野良犬なのか番犬なのか、よくわからない犬たちが寝そべっている姿をよく見かける。(ネパール2005)
 

チッタゴン丘陵地帯バンドルボン県に住む山岳少数民族ムルー族(ムロン族)の村を訪れた。
独自の宗教クラマー教を信仰するムルー族の人々は、多くの豚を飼っている。
まだ立ち上がることのできない赤ん坊が、豚や鶏たちと一緒に土にまみれて遊んでいた。(バングラデシュ2011)
 

ムロン族の村の子供がなぜか子犬を背負って歩いていた。次から次へと子供が生まれてくるからなのだろうが、村の子育てはかなりアバウトだった。自由放任というか、基本的にほったらかしなのである。(バングラデシュ2011)
 

ミャンマー中部に住む少数民族カレン族の村を訪ねた。今も焼き畑農法による自給自足生活を続ける辺境の村である。鶏や豚も飼ってはいるが、それらの肉を口にするのは特別な日に限られているという。
人々は見慣れない外国人に対してとてもシャイで、特に子供にカメラを向けると逃げられてしまうことも多かった。シャイなのは豚も同じでカメラから顔を隠している・・・わけではなく、ただ単に無心で餌を漁っているだけのようだ。(ミャンマー2004)