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定食を食べ終わると、おばさんが食堂の裏にある犬小屋を見せてくれた。あまり大きくない粗末な小屋の中に、全部で7匹の犬が寝そべっていた。おばさんが言うには、小屋の中にいるのは食用犬だが、僕の足元に寝そべっていた犬は番犬なので食べないらしい。それが本当かどうかはかなり疑わしかったが、犬は頭がいいから、もし最後に食べられるとわかっていたら、人にはなつかないかもしれないなとも思った。
犬小屋の中の7匹の犬は、ラオスの田舎でよく見かける普通の大型犬だった。食用にされるからといって特に太っているわけではなかった。僕が小屋を覗き込むと、餌がもらえると勘違いしたのか、何匹かの犬が鼻を寄せてきた。犬たちはどことなく悲しげな目をしていた。それを見ていると、少し胸が痛んだ。
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もちろんラオスでも犬はペットとしてごく普通に飼われている。この犬は食べられたりしない・・・と思う。 |
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2002年に行われたワールドカップサッカー日韓大会の開幕直前に、韓国に犬を食べる習慣があるということが、ヨーロッパの動物愛護団体の間で問題になった。犬は家畜ではなくて友達なのに食べるなんてかわいそうだ、野蛮だ、というわけだ。
そう言いたくなる気持ちもわからなくはないが、犬を食べている韓国人から見れば独り善がりな意見にしか思えないだろう。世界には豚をペットにする人もいるし、牛を神だとあがめている人々もいるが、彼らが他人の食習慣に干渉することはない。犬が人の友達であり、牛や豚は人間のための食料なのだという認識は、全人類に共通しているものではないのだ。
結局のところ、食べるという行為は他の誰かの命を奪うということである。たとえ肉を食べないベジタリアンであっても、植物の命を奪うという点では少しも変わらない。
僕らはそうやって生きている。犬であろうが、鶏や牛や豚であろうが、生きるために殺し続ける存在なのだ。そしてそれを自覚することによって、僕らは罪悪感による心の疼きを感じるし、食べ物に対する感謝の気持ちを持つようになるのだと思う。小屋の中の犬たちの姿を見つめながら、僕はそんなことを考えていた。
この犬肉に比べれば、虫を食べる習慣の方がずっと一般的である。実際に僕も北ラオスにいる間、何度か昆虫を食べる機会があった。いずれも珍味としてではなく、ごく普通の家の献立のひとつとして出てきたものだった。
ナンバの町で仲良くなった家族と夕食を共にしたときには、トゥーチーという名前のコガネムシっぽい虫を食べた。テーブルの上にいくつか並んだ皿のひとつに、その小指の爪ぐらいの大きさの虫がたくさん浮かんだスープがあったのである。
「これは母親が森で採ってきたものなんだ」と僕を夕食に誘ってくれた若者が説明してくれた。「硬い羽と足をむしるのは妹の仕事さ。トゥーチーはとても健康にいいんだよ」
正直言って、僕はそれほど虫が得意な方ではないし、ゲテモノを進んで食べる人間でもない。でも地元の人々が当たり前に食べているものであれば、いつもあまり抵抗なく食べてきた。このトゥーチーも同様だった。ちゃんと足がむしってあったので、見た目がそれほど虫っぽくないのも良かった。
トゥーチーはぱりぱりとした歯応えがあり、ナッツ類に似た香ばしい風味を持っていた。目をつぶって食べれば、木の実の一種だと思っただろう。
「うん、なかなか美味しいよ」
僕が言うと、若者はそうだろうと頷いた。それを聞いた母親も妹も嬉しそうに微笑んだ。
山の民であるラオス人たちは、川でとれる魚やエビ、森でとれるタケノコや山菜など、自然からの恵みを最大限に利用しながら暮らしている。この昆虫食にも、痩せた土地で生き抜くための人々の知恵が表れているに違いなかった。
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