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僕はこの何年か写真家を名乗って活動を続けているわけだけど、カメラを操る技術や、構図のセンス、光を見極める能力などが人よりも優れているわけではない。上手い写真、センスの良い写真を撮る人は他にいくらでもいる。決して謙遜などではなく、本当にそう感じている。
そんな僕が曲がりなりにも写真家を続けられているのは、ひとえに「セレンディピティ」のおかげだと思う。
セレンディピティ(serendipity)とは、「幸運に出会う能力」という意味の言葉である。語源は18世紀のイギリスで生まれた童話に由来する。セイロン(今のスリランカ)の3人の王子が探し物をする旅に出る。その途中、肝心の探し物はいっこうに見つからないのだが、いつも意外なものに遭遇して、もともと探していなかった何かを発見する。この物語が元になって、「セレンディピティ」という言葉が生まれたという。
探し物とは違うものが見つかる、というのがポイントだ。
本来の目的とは違う「変なもの」に魅力を感じる能力、偶然の出会いを面白がれる能力が、すなわちセレンディピティなのである。
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幸運に出会うためには、不運もたくさん味わわなければいけない。
これが僕の経験則だ。サイコロで「1」だけを連発することが不可能なのと同じだ。当たりも出れば、ハズレも出る。それが人生ってものだ。
ある人が「優れた写真家は晴れ男でもあるんです。彼が来ると曇り空がさーっと晴れたりする」と言っていたけれど、旧約聖書のモーセじゃあるまいし、そんな特殊な能力がある人は実際にはいないと思う。きっとその写真家は、晴れているときでも、曇っているときでも、常にいい写真を撮れるように準備を整えているのだ。だからたまたま訪れた「晴れ」を生かすことができるのだろう。
大切なのはサイコロを振って「1」が出たときに、それが「1」かどうかをちゃんと見極められるかどうかだ。ときには「2」ばっかり出て、気持ちが萎えてしまうこともある。「このサイコロ、おかしいんじゃないの?」とサイコロに八つ当たりしたくなることもある。
でもいつか必ず「1」は出る。そして「1」が出たときに、それがあたかも当然の結果であるように、余裕のある態度でことにあたる。それが「セレンディピティ」なのだ。
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チャティスガル州西部を走っていたときに出会った不思議な儀式も、セレンディピティがもたらしてくれたものだった。たまたま立ち寄った村で耳にした賑やかな音楽に誘われて村の中に入ってみると、何とも奇妙な儀式を目にすることになったのだ。
ヒンドゥー教の儀式のようだった。楽団が太鼓や鐘を打ち鳴らしながら歌をうたっていた。その隣に聖者らしき男が座っているのだが、その態度が面白かった。映画に出てくる趣味の悪い成金みたいにだらしなく足を投げ出した格好で寝そべっていたのである。およそ聖者らしからぬ尊大な振る舞いだった。そしてその投げ出された足を、大変ありがたいもののように村人が優しく揉んでいたのだ。
この一連の振る舞いにどういう意味が隠されているのかを、あれこれ考えている暇はなかった。
歌を聴いていた村の少女たちに異変が起きたのだ。少女たちは頭を前後に大きく揺さぶり、長い髪を振り乱しはじめた。どうやら一種のトランス状態に陥ったらしい。目を固く閉じられ、口は半開きのまま、見得を切る歌舞伎役者のような迫力で頭をぐるんぐるんと振り回すのだった。
その鬼気迫る様子に圧倒されながらも、僕はカメラを向けた。すぐそばでシャッター音が鳴っても、少女たちがそれに気付くことはなかった。完全にいってしまっているのだ。
少女たちがトランス状態に陥ることにどんな意味があるのか。足を揉まれている聖者は一体何ものなのか。そもそもこれは何のための儀式なのか。聞いてみたことは山ほどあったのだが、村人は誰一人として英語を話さなかったので、残念ながら一切の事情は謎に包まれたままだった。
それにしてもインドの田舎はまったく油断ならない。実にラディカルである。
土俗的な因習がいまもなお色濃く残るインドの農村では、都会よりも過激なもの、得体の知れない出来事に出会えることがあるのだ。
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