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「踏切を巡る戦い」もインドらしい不条理に満ちていた。
インドは鉄道網が発達した国なので、無数の踏切が設置されているのだが、そのほとんどが機械化されていない有人の踏切なのである。遮断機の開閉は専門の職員がハンドルをグルグル回して行うというかなり原始的な方法を採っている。これは私見だが、踏切が電動式に切り替わらないのは、それをすると膨大な数の職員がリストラされて路頭に迷いかねないという「職能カースト」的な事情と、停電で動力が失われると即大事故に繋がるという未熟なインフラ側の事情の両方に配慮しているからだと思われる。「お国柄」と言ってしまえばそれまでだけど。
この手動式遮断機の問題は、閉まるタイミングがあまりにも早すぎることである。だいたい列車が通過する5,6分前から(最長では12分も前から)遮断機を下ろしてしまうのだ。衝突事故を起こさないために余裕を持たせているのだろうが、それにしても10分は長い。食堂で昼食を済ませてチャイを飲めるぐらいの時間である。そんなにも前から下ろす必要があるのだろうか?
そう考えているのはインド人も同じらしく、だから遮断機が閉まってからも人々はその下をどんどんくぐり抜けていくのだった。歩行者はもちろん、自転車やバイクに乗った人もまるでリンボーダンスのように器用に体を曲げて遮断機をくぐっていくのだ。
やがて「ファーン」という警笛と共に、列車がはるか彼方から現れる。しかし遮断機をくぐる人の列は途切れない。列車が通過するまで、まだ若干の余裕があることを知っているのだ。インドのローカル鉄道はかなりノロい。時速40キロぐらいでゆっくりとやってくる。
ディーゼルエンジンの轟音がすぐそばまで近づき、二度目の警笛が鳴らされても、まだ踏切を渡ろうとする人がいる。チャレンジャーである。ひとつ間違えれば轢かれかねないタイミングだ。そんなリスクを冒す場面ではないように思うのだが、「行ける」と思った瞬間に体が勝手に動き出してしまうのがインド人なのである。
結局、この男はギリギリのタイミングで列車をかわして踏切を渡り終えることができたのだが、これじゃあ10分も前から遮断機を閉めている意味なんて全然ないじゃん、と思ってしまった。
遮断機をくぐる人の体の曲げ方や、自転車を斜めに寝かせるタイミングは実に巧みだった。「プロ」の領域に達していると言ってもよかった。しかしそれと同時に「その努力って使う方向を間違えていないか?」とも思った。遮断機を巧みにくぐり抜けるために使っているエネルギーを「みんなで知恵を出し合って、踏切での無駄な待ち時間をなくしましょう」という議論に向けることができれば、この理不尽な状況を改善できるのではないか。
しかし残念ながら、そんな風に考えるインド人はどこにもいない。と言うか、もしインド人がそのように考える人たちであれば、インドという国が今のような不条理に満ちた場所になっているはずがないのである。
必死に遮断機をくぐろうとする歩行者と対照的なのが、バスや自動車だった。10分ものあいだ、バスの乗客やトラックの運転手は文句ひとつ言わず、ただじっと遮断機が開くのを待っていた。
インド人は「自分の力がおよばない」とわかると、諦めるのが早い。「なるようにしかならない」という状況でなら、いくらでも忍耐力を発揮できる人々なのだ。渋滞や事故などでバスが何時間も遅れても、「ま、そのうちくるでしょう」という超然とした態度で待ち続けることができるのである。
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線路の上で堂々と靴の修理をする男。列車が来たらどうするのだろう? |
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インド人のものの考え方を特徴的に表す例としてもうひとつ挙げたいのが「野良牛」である。野良牛とは町にたむろする誰にも飼われていない牛のこと。ヒンドゥー教徒が牛を「神の化身」として崇め、殺して食べることを厳しく禁止しているために生まれた存在である。
野良牛にはインド人も迷惑している。道路の真ん中にどんと居座って動かないから交通の妨げになるし、あたり構わずボタボタと糞を落としまくって汚いし、通行人が逃げ回る牛にぶつかって怪我をすることもある。それでも「牛をどこかに収容して飼う」とか「牛を放した飼い主にはペナルティーを与える」いった根本的な解決手段がとられたという話は聞かない。野良牛問題は基本的に放置されたままなのである。
マワイという田舎町の市場で見かけた野良牛たちは、見るからにお腹を空かせていた。誰からもエサをもらえないので、仕方なく市場に並んだ野菜をかすめ取ろうとしていた。それに対して、市場の女たちはそれぞれの手に持った棒で野良牛を追い払っていた。
野良牛vs人間のガチンコバトルはなかなか見応えがあった。野良牛はふらふらした足取りで市場を歩き回りながら、野菜売り場の女たちが見せる一瞬の隙をしたたかに狙っている。女が客とのおしゃべりに気を取られた瞬間がアタックチャンスだ。牛はそれまでの足取りが嘘のような素早い動きで店先に近寄ると、スルッと舌を出してジャガイモを口に入れる。ミッション・コンプリート。作戦成功だ。
「しまった!」
女が気付いたときには時すでに遅し。ジャガイモは野良牛の胃袋に収まっている。だが売り物を盗られた女の悔しさは収まらない。
「こいつ!」
女は手にした木の棒で牛の顔面を思いっきりひっぱたく。驚いて飛びのいた牛に、女はさらに罵声を浴びせかける。
「てめぇ、二度と来んじゃねぇ!」
とでも言っているのか。もちろんそんなことで野良牛がめげるはずもなく、あらたな獲物を求めて市場の中を徘徊し始めるのだった。
これがインドで「神の化身」と崇められている牛の哀しくもおかしい現実である。ブッダは「人の一生は苦だ」と看破したが、牛の一生だってやはり苦ではないかと思う。
「開かずの踏切」や「野良牛との戦い」から見て取れるのは、おおむね「場当たり的」で「その場しのぎ」に終始するというインド人の特徴である。
野良牛を何とかしようとか、踏切をもっと使いやすくしようといった大元の仕組みを変えるために行動する人は誰もいない代わりに、野良牛の盗み食いを防ぐために叩き棒を用意するとか、遮断機をくぐり抜ける技を洗練させるといった個人レベルの工夫には全力を注ぐのだ。
ヘンといえばヘンだ。
しかしそのヘンテコさは僕が日本社会で育った人間だからこそ感じるものであって、インド人からすれば日本人の行動も大いに奇妙で理不尽なものに思えるに違いない。
たとえば、車が通っていない道を「赤信号だから」という理由で渡ろうとしない日本人の姿は、かなり不思議なものに見えるはずだ。真夏なのにネクタイを締めスーツを着て汗だくになっているサラリーマンの姿も理解に苦しむだろう。銭湯という場であれば他人同士が素っ裸になっても恥じ入ることがないという感覚にも、ついていけないものを感じるに違いない。
それぞれの社会には固有のゆがみ方がある。その固有のゆがみ方――それこそが文化というものの根っこなのだが――にじかに触れ、驚いたり感心したりすることが、異国を旅することの醍醐味なのだと思う。
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