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イラクに出稼ぎに行った理由を訊ねられたサンク君は、少し憮然とした顔で、
「もちろんお金のためですよ。他に何がありますか?」と言った。
もっともな答えだった。米軍の侵攻以来すっかり治安が悪化し、今もまだ散発的に自爆テロが起きているイラクへわざわざ出稼ぎに行く理由が、「お金」以外にあるはずがない。
「僕だってイラクが危険なことは知っていました。新聞やラジオで伝えられていましたから。でも条件がよかった。僕はイラクでガードマンの仕事をしていましたが、月給は1000ドルを超えていました。カタールやドバイだったら、同じ仕事をしても月400ドルももらえなかったはずです」
サンク君の英語は発音がクリアで聞き取りやすかった。外国人と話すことに慣れている様子だった。
イラクに渡ったのは3年前。18歳になったばかりの彼にイラクでの仕事を斡旋したのは、カトマンズにオフィスを構える人材派遣会社だった。普通のネパール人がイラクの就労ビザを取得するのは容易ではないのだが、ドバイのエージェントを通すという「抜け道」を使えばすぐに取れるという。彼はビザの取得費用と航空券代としてエージェントに30万ルピー(30万円)を支払った。言うまでもなく、それは貧しい農家出身の若者にとって莫大な額だった。だから親戚や友達に多額の借金をすることになった。それだけのリスクを冒しても、イラクでもらえる月10万円の給料は魅力的だった。
「一番困ったのは言葉の問題です。英語は一応学校で習ってはいたけど、実際に外国人と話した事なんてなかったですから。最初の三ヶ月は周りの人が何を言っているのか全然わからなかった。友達もいないし、とにかく孤独でした。でもイギリス人の上司と毎日話していたら、自然と言葉がわかるようになったんです」
イラクには、危険と引き替えにもたらされる高給を目当てに、世界各地から労働者が集まっていた。ウガンダ人、南アフリカ人、ルーマニア人、イタリア人、メキシコ人、インド人。その中でもサンク君はもっとも小柄(身長は160センチを少し超えるぐらいだ)で年も若く、しかも童顔だったから、同僚たちからは子供扱いされた。からかわれたり、喧嘩をふっかけられることもよくあったという。
「仕事が休みの日にビリヤードで遊んでいると、ウガンダ人の同僚が理由もなく僕を突き飛ばしてきたんです。真っ黒い肌の大男でした。そいつは僕からキューを取り上げると、『このビリヤード台は俺のものだ。お前はうせろ!』と言ったんです。頭に来た僕はそいつの鼻っ柱を殴りつけました。彼はいつも僕を見下した態度を取っていたから、我慢できなかったんです」
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よく手入れされたククリは山羊や水牛を解体するときにも使われる。 |
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反撃されるとは思っていなかったウガンダ人は虚を突かれてその場にうずくまり、サンク君のとどめの一撃を脇腹に叩き込まれることになった。「今度こんな真似をしたら、お前を必ず殺してやる」とサンク君は言った。それは単なる脅しでなかった。彼はもしものときの護身用に「ククリ」と呼ばれる短刀を持ち歩いていた。よく手入れされたククリは水牛の首でさえも一刀両断にできる。
その一件以来、彼のことをからかう者はいなくなった。100年以上も前からイギリス軍の傭兵としてそのたぐいまれなる戦闘力を証明してきた「グルカ兵」の伝説は、今でも世界中に知れ渡っている。ネパール人は小柄だが、いざ戦いになったら勇猛で、決して容赦しない。幼い頃から山道を歩き、力仕事で鍛えられている体には、ただうすらデカイだけの男にはない本物の強さがある。サンク君はそのグルカ兵の血を引く者としてのプライドを守り、文字通り「男を上げた」わけだ。
「イラクは噂通りの危険な国でした。僕は基本的に建物の中で働いていたから、直接戦闘に巻き込まれるようなことはなかったけど、近くで爆弾テロが起きることはよくありました。防弾チョッキを着たまま眠ったこともあります。ネパールに帰ってきてからも、ときどき悪夢を見て飛び起きることがあるんです」
危険を伴ったイラクでの3年間を何とか無事に終えると、彼は故郷の村に戻った。そして叔父さんの紹介で別の村に住む18歳の女性と結婚した。いわゆるアレンジ婚だった。奥さんとは結婚式当日まで一度も顔を合わせなかった。写真すら見なかったという。信頼する叔父さんが「いい娘だ」と言ったんだから、四の五の言わずに受け入れる。不満など全くなかった。
結婚とはしかるべき時期が来ればするものであって、そこに自分の好みや判断が入り込む余地は少ない。そんなネパールの農村における結婚観は、昔からあまり変わっていないようだ。あまりにも選択肢が多くて決断することができないままずるずると年を重ねていく今の日本人とは正反対の「潔さ」である。
しかしネパール人の家族観は昔とはずいぶん違ってきている。一世代前までは「子供はできるだけたくさん産んだ方が幸せ」という価値観が強く、6人か7人もの子供を持つことが当たり前だった農村でも、今は「子供は一人か二人で十分」と考える人が増えている。サンク君も「子供は一人でいい」と言った。たとえ女の子であっても構わない、と。もはや農家の長男であっても「何としても男子を授かりたい」とは思わなくなっているのだ。
「僕の父親は10年以上前に家族を捨てて、他の女とどこかへ行ってしまったんです。それ以来一度も会っていません。会いたいとも思わない。悔しかったですよ。もし父親がいたら高校にだって通うことができたし、もっといい仕事に就くためのスキルを身に付けることができたはずだから。でも父親がいない以上、長男である僕が家族の面倒を見なければいけない。だから僕はイラクに行ったんです」
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