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  たびそら > 旅行記 > ネパール編


 サンク君は18歳の新妻を呼んで、お茶を運んでくるように言った。彼女は少し恥ずかしそうに僕の方を見てから、かまどのある奥の部屋に向かった。しばらくすると薪のはぜるパチパチという音がして、香ばしいにおいを伴った煙が部屋の中にゆっくりと流れ込んできた。

重い水瓶を担いで山道を歩くのは、村の生活の基本だ。
 サンク君はイラクで3年働いて貯めたお金で、トリシュリという町に新しい家を買った。町はなにかと便利だ。学校も病院もたくさんあるし、電気も使える。モノも豊富だ。それにひきかえ、故郷のオクレイニ村は電気も通っていないし、トイレもないし、水汲みにも多大な労力を使わなければいけない。だからたとえ生まれ育った村であっても、そこを離れることにさほど未練はなかったという。

 でも彼の母親は違った。住み慣れた村の方がいいと言い張って、町に移住することになかなか同意してくれなかった。
「自分たちが食べるものは自分たちで作る。母親にとってはそれが当たり前のことでした。どこか別のところでお金を稼いできて、食べ物や水や電気を買って暮らすということに馴染めないんだと思います。わざわざ危険な国に行ってお金を稼がなくても、この村で暮らしている限り食べ物には困りませんから」



 もちろん海外へ出稼ぎに行った人がみんな成功するわけではない。失敗例もある。悪徳エージェントに騙されて、ろくに給料が支払われないまま帰国を余儀なくされた人もいるし、仕事をすぐに覚えられない労働者が雇い主から虐待を受けたり、出稼ぎ先で病気になったりする人も多い。稼いだお金を酒やギャンブルに使ってしまって、帰国するときには無一文というトホホな人もいる。

 僕が話を聞いた男は、アフガニスタンで働くつもりでエージェントに60万ルピー支払ってドバイに向かったのだが、ドバイの空港で極度の緊張とアルコールが手に入らないという不安(彼はアルコール依存症だった)から錯乱状態になり、現地の警察に逮捕されて精神病院で一ヶ月入れられたあと、ネパールに強制送還させられたそうだ。自らが招いたこととはいえ、支払った60万ルピーをまるまるドブに捨てる結果になってしまったのだった。

 それでも出稼ぎ労働者は年を追うごとに増え続けている。2010年の統計では、年間35万5000人ものネパール人が新規出稼ぎ労働者として国外に渡航しているという。現在、外国に滞在しているネパール人労働者の数は、(正確にはわからないが)270万人を超えているとも言われている。これは3000万というネパールの人口を考えると驚くべき数字だ。人口の半分が男性で、その半分が就労人口だとしても、750万人の男性就労者のうちの実に三人に一人が外国で働いていることになるのだから。

 実際、僕が泊めてもらったほとんどすべての農家で、家族のうちの誰かが外国に出て働いていた。長男はサウジアラビアで、次男はドバイで、三男はマレーシアで働いているという「離散家族」も珍しくなかった。

 サンク君のように危険を承知でイラクやアフガニスタンなどで働く男もいるが、大多数のネパール人はもっと安全で治安のよい国を出稼ぎ先に選んでいる。サウジアラビア、カタール、クェートなどの産油国。古くから多くのネパール人が働く隣国のインド。それに外国人の受け入れに積極的なマレーシアあたりがポピュラーな「派遣先」だ。職種にもよるが、道路工事や工場作業のような単純労働の場合、月給は2万から3万ルピー程度。決して高くはないが、それでもネパール国内で仕事を見つける困難を考えると、はるかに恵まれた労働環境なのだ。

チットラさんと息子
 42歳のチットラさんはカタールで6年、マレーシアで3年働いた経験があった。工事現場で働く彼の給料は月1万ルピーほどとかなり安かった。彼は小学校に3年しか通っていないので英語はほとんど話せないし、英語の読み書きはまったくできないので、単純な肉体労働しかできなかったからだ。

 しかしそんな彼でも飛行機に乗ってイミグレーションや税関を通過し、外国で何年も働けたのは、人材派遣会社が用意したコネクションと出稼ぎ労働者たちのコミュニティーがあったからだ。ネパール人にとって(一部の)外国はもう特別な場所ではない。ごく当たり前の就職口に過ぎないのだ。

 男が外国へ渡って金を稼ぎ、女性と子供と年寄りがその金を使って村で暮らす。このような家族が今のネパールでは主流になっているわけだが、それによって生まれた問題も多い。かつてはほとんどなかった離婚も、家族がバラバラに暮らすようになったことで急激に増えているという。

 夫が外国で働いているあいだに妻が恋人を作って逃げてしまった、というパターンで離婚した夫婦の話は、旅先で何度も聞かされた。たとえばガイドのフルさんの弟は、カタールに行っているあいだに最初の妻に逃げられてしまい、そのあと二度目の結婚をしたものの、ドバイで働いているあいだにその再婚相手にも逃げられてしまったそうだ。気の毒である。

 でも相手の素性もよくわからないで結婚して、夫婦で共に過ごす時間もろくに持てないまま出稼ぎに行ってしまった夫を、何年もじっと待ち続けることの方が難しいと思うのは僕だけではないだろう。妻の不貞だけを責めることなんてできない。

 ここ数年でネパールの農村にも携帯電話が普及したおかげで、外国にいる夫と連絡を取ることが簡単にはなった。しかしだからこそ、今後も離婚は増え続けるという気がする。電話で話すことと、ひとつ屋根の下に暮らすことのあいだには大きなギャップがある。いつでも電話で話せるからこそ、「会いたい」という気持ちも、「でも会えない」という苛立ちもより強く感じるのではないか。


「それは人によるんじゃないですか」とサンク君は笑って言った。「夫の帰りを信じて待つ人もいるし、そうじゃない人もいる。彼女は待ってくれると信じていますけどね」
 彼は屈託のない笑顔を妻に向けた。僕らが何を話しているのかわかっていない奥さんは、それでも何かを察したように恥ずかしそうに微笑んだ。二人はうまく行くだろうか。それは僕にも、たぶん二人にもわからない。

「僕の夢は家族みんなが幸せに暮らすこと。そのためにはお金を稼ぐ必要があるんです。町での暮らしはお金がかかりますから」
「じゃあまたイラクに戻るつもり?」
「ええ、できればそうしたいですね。将来はアフガニスタンに行くことも考えています。イラクよりも危険だけど、その分サラリーも高いと聞いていますからね」


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