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  たびそら > 旅行記 > バングラデシュ編


 UFOみたいな奇妙な物体が、のどかな田園地帯に突然現れた。
 それは直径3mほどの円錐状で、ベトナム女性が被っているすげ笠を巨大化したような形をしている。


 いったい何なんだ、これは。
 不思議に思ったので、そこで働いている人に訊ねてみた。すいません、これは何に使うんでしょう?
「あぁこれね。これはお米にかぶせるフタなんだよ」
 親切に教えてくれたのは、精米所でマネージャーをしているカリムさんだった。この精米所では収穫した後の籾(もみ)を一度天日干ししてから精米するのだが、乾いた後の籾が雨で濡れてしまわないように、この円錐形のフタをかぶせておくのだという。

フタは竹を編んだものに布を張って補強してある。

 カリムさんの案内で精米するまでの流れを見学させてもらった。
 まず初めに行うのは、収穫した籾米を高温の蒸気に数十秒さらして蒸す行程だ。これは「パーボイルド」といって南アジアで広く行われている伝統的な加工法だそうだ。加熱することでカビや害虫の発生を防ぎ、保存性を高めるのが目的だという。また粘り気がとれて食べやすくなったり、栄養価が増したり、腹持ちがよくなるという効果もある。(その代わり味はいくぶん落ちることになるのだと思う)

籾米を高温の蒸気に数十秒さらして蒸す「パーボイルド」という行程

 蒸した籾は大きな湯船に一晩つけられた後、コンクリート床の上に広げて天日で乾燥させるのだが、この床がとんでもなく熱かった。南国の強烈な日差しにあぶられた床の表面は、おそらく50度を軽く超えていたはずだ。アチチチ。これじゃすぐにやけどしてしまう。労働者と同じようにサンダルを脱いで裸足で床の上に立った僕は、タップダンサーみたいに常にステップを踏んで片足を地面から離しておかなければいけなかった。

 ところが地元の人は床が熱いことなんてまったく気にするそぶりもなく、平然と働いているのである。きっと足の皮が靴底のように硬く分厚くなっているのだろう。人間の環境適応力というのはすごいものだと感心してしまった。

コンクリート床の上に広げた籾を足でかき混ぜていく。

バングラデシュにはこのような精米所が何百何千とある。

人々は焼けつくような床の上で裸足で作業していた。

乾燥させたお米は円錐形に集められる。

籾を乾燥させるのに使われるトンボのような道具


 強烈な日差しが支配する外の世界から、精米所の建物の中に一歩足を踏み入れたときの衝撃は今でも忘れられない。

 それはモノトーンの世界だった。明かり取りの窓がいくつかあるだけの薄暗い工場で、「産業遺産」と呼んでもいいほど古びた精米機が鈍い光を放っていた。空気中に漂う細かな籾殻のせいで光が散乱した部屋の中には、粒子の粗い古いキネマを見ているような非現実感が漂っている。その中でサリー姿の女たちが黙々と働いていた。籾米を入れた缶を肩に担ぎ、小さな階段を上って、回転するドラムの中に注ぎ込んでいく。その姿は時間そのものが動きを止めてしまったかのように静かだった。


 何げない労働の一場面を印象的にしているのは、光の効果だった。そこにしか生まれ得ない粗い光が、実直な働き者の姿を闇の中に浮かび上がらせているのだ。重々しい機械も、女の立ち姿も、その場を支配する光も、すべてが完璧だった。

 ファインダーを覗いたとき、妙に自分が冷静だったことを覚えている。焦る必要はない。これだけの舞台装置が用意されているのだから、あとはどう切り取ろうと良い写真になるに決まっているのだ。そんな風に思いながら僕はシャッターを切った。




 バングラデシュ全土をバイクで走り回ってみて感じるのは、国土の豊かさである。どこを走っても、ひたすら水田が続いている。開墾していない土地、遊んでいる土地はほとんど見当たらない。鮮やかな緑色の絨毯が、まるで海のようにどこまでも広がっているのだ。

見渡す限りの水田

田んぼで雑草を取っている女たち

 起伏の少ない平坦な地形と、肥沃な土壌。いくつもの大河から供給される豊富な水と、温暖な気候。バングラデシュは米の栽培に適した条件を備えた国だ。農業技術の普及によって、二期作や三期作を行える地域も増えつつある。実際、バングラデシュの米生産量は世界第4位である。

 それなのに米が不足しているという。国内産の米だけでは需要を満たすことができず、インドなどの外国から米を輸入せざるを得ないのだ。
 一体なぜなのか?


「人が多すぎるんだよ」とカリムさんは言う。「お米はたくさんとれるけど、それを食べる人間の数も多いからね。『緑の革命』で収穫する米の量は二倍に増えた。でも人口はそれ以上に増えたんだ。しかもまだ増え続けている。どうしようもないんだよ」

 人口問題。結局はそこに行き着くのである。バングラデシュは1億5千万人もの人間が日本の38%という狭い国土に住んでいる、世界でももっとも人口密度の高い国だ。しかも当分は人口増加に歯止めがかからず、2050年には2億5000万人に達するという予測もある。空恐ろしい数である。

 僕がバングラデシュを旅したときにも、安いお米を買い求める人々が販売所の前で長蛇の列を作っていた。一般価格よりも2割ほど安い政府価格米を求める人々の中には、早朝から4時間以上も待っているという人もいた。強い日差しが照りつける屋外で、押し合いへし合いしながら長時間待ち続けているので、苛立ちがつのり、小競り合いが発生することもある。

「ちょっとあんた、横入りしないでよ!」
「なによ、あんたの方があとから来たんじゃないじゃないのさ!」
 言葉はわからなくても、表情と身振りから彼女たちの言っていることはだいたい理解できた。バングラ人の8割はムスリムである。ムスリム女性には「あまり表に出ずに家庭を守る貞淑な女性」というイメージがあるが、とんでもない。バングラ人というのは男女関係なくやたら喧嘩っ早いのである。女だってときにはつかみ合いの喧嘩までやってしまう。だから販売所には警官が配備されていた。

安い政府価格米を求めて行列を作る人々

そ、そんなに怖い顔をしなくても・・・

 人々が安い米に群がる原因は、米の値段が半年で50%も上がったことにあった。バングラデシュ南部を襲ったサイクロンの影響で収穫が落ち込み、それに世界的な米価格の上昇が追い打ちをかけたのだ。家計の中の食費の占める割合(いわゆるエンゲル係数)が70%を超えるというバングラデシュの貧困層にとって、米価の高騰はまさに死活問題だった。

「貧しい人にとっては7タカ(10円)の差は大きいんだ」とカリムさんは言う。「農村の労働者の日給は100タカから150タカぐらいだ。しかも毎日仕事があるとは限らない。限られたお金でたくさんの家族を養っていかなくてはいけない。米の値段に敏感になるのは当然だよ」

 国土が広がらない以上、バングラデシュに残された選択肢はあまり多くはない。人口抑制策を地道に続ける一方で、米の収穫量を増やす努力を続けるしかない。そうしないと近い将来もっとひどい事になる。
 残念ながら、魔法のような解決法はどこにもないのである。


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