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旅を始めるときは、いつも不安な気持ちになる。
知らない国を旅するときはもちろんのこと、すでに何度も訪れている場所を歩くときでも、はじめの一歩を踏み出すときにはどうにも落ち着かない気分なのだ。
盗難やテロや病気に怯えることはない。僕は外務省の渡航延期勧告や「地球の歩き方」のトラブル事例なんかはほとんど見ないし、情報としてもあまり役に立たないと思っている。ああいうのは情報発信者側からのエクスキューズ(え? 被害に遭っちゃったの? だからそういうこともあるって言っておいたでしょうが)的な意味合いしかないからだ。結局のところ、「自分の身は自分で守らなければいけない」という大原則はどこへ行ったって変わらないのだ。
僕にとっての不安は「印象的なシーンに出会えるだろうか?」ということに尽きる。目的を定めずにあてもなく町を歩く中で写真を撮るわけだから、実際にそこを歩いてみるまでは何に出会えるのか、どんなものが撮れるかまったくわからないのだ。
「その瞬間」がいつ訪れるのかはわからない。それがいつ誰に宿るのか、それをキャッチできるのかもわからない。はっきりしているのは「その瞬間」が何の前触れもなく突然やってくるということだけだ。それまでは自分の勘だけを頼りにして、一歩ずつ歩いていくしかない。360度全方位にセンサーを張り巡らし、肩の力を抜いて、どんな状況にも対応できるように準備しておく。
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二頭の牛を引いた少女が目の前に現れたのは、カンボジアの農村をぶらぶらと歩いているときだった。美しいだけではなく、生命力に溢れた少女だった。
僕は反射的にカメラを構えた。彼女は恥ずかしがって顔を背けた。しかし反応は悪くなかった。
僕は彼女との距離を保つために、ゆっくりと後ずさりした。
一歩、二歩、三歩。
そこでやっと彼女の顔が正面を向いた。とびっきりの笑顔だった。
この笑顔に会いたかったんだ。
ファインダーを覗きながら僕は心の中で叫んだ。そして「その瞬間」を逃さないように、急いでシャッターを切った。
ほんの数秒の出会いが、かけがえのないものになった瞬間だった。
カンボジア人はよく笑う。本当によく笑う。タイは「微笑みの国」だと言われているけれど、カンボジアでは「微笑み」なんてマイルドなものじゃなく、みんな口を思いっきり開けて笑うのだ。特に子供たちが向けてくれるのは、南国の強い日差しにも負けないような一点の曇りもない笑顔だった。
アンコール遺跡と内戦の悲劇を別にすれば、カンボジアはこれといった特徴のない国である。農村の光景も単調だ。特に雨が降らない乾季には、農作業もほとんど行われておらず、人々は高床式の家の床下でハンモックに揺られながらのんびりと過ごしている。退屈な時間がとろりと流れる国なのだ。
それでも僕が繰り返しカンボジアを訪れているのは、笑顔に会いたいからだ。そして自分自身も笑顔になりたいからだ。
僕はクメール語を話せないし、相手も英語や日本語を理解できるわけではない。コミュニケーションには大いに問題がある。
それでも笑顔さえ交わせば何となくわかり合ってしまう。カンボジア人はそんなおおらかさを持った人々だった。
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