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首都プノンペンの線路沿いには、土地を持たない人々が勝手に家を建てて住み着いている。他に住むところのない貧しい人々が廃材を使ってあばら屋を建て、一種のスラム街を形成しているのだ。
線路といっても、実際にこの上を列車が走ることはほとんどない。住人によれば1日に3,4回ほどだという。僕はこの「貴重な」列車が走るところを見たのだが、何も牽引していない1両編成の機関車が、歩くのと同じぐらいのスピードでゆっくりと通過していっただけだった。これなら線路に座っておしゃべりをしていても、さほど危険ではないだろう。実際、線路をまたぐようにして机を並べている食堂もあったりする。警笛が聞こえてから椅子や机を片付けても、十分に間に合うのだ。
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1日に3,4回しかお目にかかれない「貴重な」列車。 |
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カンボジアの鉄道網はフランス植民地時代に一度整備されたものの、1970年代から続いた内戦によって大きく荒廃し、それ以来旅客の輸送は中止されたままになっている。国内交通の主役はバスまたは船なので、あえて鉄道を復活させる必要もないのだ。それでも完全な廃線とはせずに細々と運行を続けているのは、いざというときのための輸送路を確保しておくためだという。将来的には荒廃した路線を修復して、旅客の輸送を再開する計画もあるらしい。
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線路をまたぐ格好で営業する食堂。歩行者天国の線路版といったところか。 |
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線路沿いのスラム街に住む人々はとても気さくだった。こんなところを外国人がふらふらと歩いているのは珍しいのか、昼間から楽しそうに酒を飲んでいる兄ちゃんたちが「一緒に飲もうや」と声を掛けてきたので、ご相伴にあずかることにした。
「これ、いい酒なんだ」
悪役プロレスラーみたいなごつい体をした若者レーが、透明の酒瓶を指さした。
「うぇ!」
それを見た瞬間、僕は思わず声を上げた。酒瓶の底には大きな蜘蛛が何匹も沈んでいたのである。真っ黒い毛で覆われたタランチュラ的な蜘蛛だった。
「蜘蛛はここに効くんだ」とレーは自分の股間を指して笑った。「俺、蜘蛛食べる。何匹も食べる。だから強い。こっちもあっちも強い。だからあんたも食べてみろって」
しかしいくら「あっちの方」が強くなるといっても、さすがに蜘蛛は食べられなかった。これは無理だ。罰ゲームでも無理だ。しかし蜘蛛のエキスが出ているという蜘蛛酒は何とか飲むことができた。サソリ酒、ハブ酒と同じように「キクー」って感じはあったけど、味自体は普通の焼酎とさほど変わらなかった。これで「あっち」が強くなったのかは不明だが。
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カンボジアの市場には蜘蛛や虫を揚げたものが売られている。おつまみとして普通に食べられているようだ。うーむ。 |
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線路沿いのスラム街で薬屋を営んでいるイットさんは、コミュニティーのリーダーをしている人物だった。彼によれば、このスラム街の住人たちはカンボジア政府から立ち退きを迫られているという。線路から20m以内にある家屋を全て撤去し、そこに新しい道路を造る計画が進行中なのだ。
「もちろん住民は計画に反対している。もう何十年もここに住んでいるんだからね。違法かもしれないが、ここは私たちの町なんだ」
現在65歳のイットさんは若い頃に大学で勉強したインテリだけあって、しっかりとした英語を話した。線路脇にある自宅では、若者に薬学を教える私塾も開いている。イットさんは終始にこやかな笑みを絶やさない温厚な人だったが、話題がポルポト時代に及ぶと、にわかに表情が曇り、眉間に深い皺が寄った。
「ポルポト時代について誰かに話したことはほとんどないんだ。息子にも甥っ子にも何も話さなかった。怖かったんだ。ポルポトは1975年に全権を掌握して虐殺を始め、1979年にプノンペンから追い出された。でもそれですぐに平和が戻ったわけではなかった。そのあとも内戦状態がずっと続いた。ポルポト率いるクメール・ルージュがいつかまた復活するんじゃないかとみんな怯えていた。この国で生き延びるためには、政治について余計なことを口にしてはいけなかったんだよ」
彼はしばらく黙り込んで目の前の線路を見つめた。滅多に列車が走ることのない忘れられた線路の上を、野良犬がゆっくりと横切っていく。
「でも今なら話してもいいだろうね。ポルポトが死んでからもう何年も経ったんだからね。私は大学で薬学を勉強して、プノンペンで薬屋を開いた。商売はうまく行っていたよ。でもポルポトの支配が始まってから、すべてが変わってしまった。ポルポトは私のような商売人や教師や医者などを敵視した。みんな住んでいた場所を追われ、収容所に入れられるか、農村で強制労働をさせられることになった。慣れない農作業はとても辛かったよ。その辛さを言葉で表すのは難しいな。食べ物もほんのわずかしかもらえなくて、おおぜいの仲間が病気や栄養不足で死んでいった。反抗的な態度を取った者はすぐさま兵士に撃ち殺された。もちろん逃げたかった。でもどこにも逃げる場所がなかった。隣国への国境は全て閉鎖されていて、監視の目が光っていたからだ。逃げた者は必ず捕らえられて殺された。国全体がひとつの刑務所のようだった。あの4年間、カンボジアは真っ黒い雲に覆われていた。みんな今日生きることで精一杯で、明日がどうなるかなんて考えられなかったんだ」
イットさんの話を聞きながら、僕は「キリングフィールド」と呼ばれるポルポト時代に大量虐殺が行われた刑場跡で目にしたおびただしい数の頭蓋骨を思い出していた。それはポルポト派の兵士たちにほとんど理由もなく連行され、拷問を受け、殺された後に穴に埋められた人々の骨だった。
「銃で殺された人はほとんどいませんでした」とキリングフィールドのガイドは言った。「無駄な弾を使わないために他の方法で殺されたのです。ときには椰子の木も凶器になりました。砂糖椰子の枝にはのこぎりの歯のようなギザギザがついているのですが、これを使って首を切ったのです。とてもゆっくりと切るので、死ぬまでには長い時間がかかったそうです。子供たちを殺すときはこの大木を使いました。兵士が子供の両足を持って、頭を木の幹に打ち付けたのです」
その木の根元には大小様々な白骨が散らばっていた。白骨は沈黙の中で何かを訴えていた。私たちは確かにここで殺されたのだと。彼らの魂はまだ癒されてはいない。そう感じた。
「どうしてポルポトはあのような虐殺を行ったのでしょうか?」
僕はイットさんに訊ねた。
「それは私にもわからない。誰にもわからないんだ。ポルポトは特に知識を持つ者を弾圧した。しかし皮肉なことにポルポト自身はパリに留学したことのあるインテリだったんだ。彼はあるとき狂気にとらわれてしまった。そして暴走を始めた。その本当の理由は誰にもわからないんだ」
イットさんは「わからない」という言葉を発するたびに首を大きく振った。
「クメール・ルージュは最初1万人ほどしかいなかったんだが、あっという間に勢力を拡大した。まるで伝染病のように。新しく加わったのはまだ十代前半の子供たちだった。ポルポトはイノセントな彼らを洗脳して、忠実な手下にした。彼らは『腐ったリンゴは箱ごと捨てなくてはならない』と言って、反抗する者を容赦なく殺した。知識層を敵視したのは人々から考えることを奪うためだったのかもしれない。しかしそれによってカンボジアの経済や文化は回復不能なダメージを受けることになったんだ」
カンボジア人は温厚でのんびりしていて、「お人好し」という言葉がぴったりと来る人々である。そのカンボジア人の中からどうしてポルポトのような狂気が生まれ、100万とも200万とも言われる人々が殺されることになったのか、僕にはどうしてもわからなかった。「カンボジア人も普段はにこやかだが、激情に駆られると衝動的な行動を取ることもある」と言う人もいたが、たとえそれが本当だとしても、そのような感情の振れ幅は特別珍しいことではないように思う。「殺してやりたい」と思うほど強い憎しみを持つ瞬間は誰にでも訪れる。
おそらく問われるべきなのは「なぜポルポトが生まれたのか」ではなく、「なぜポルポトの暴走を止められなかったのか」なのだろう。狂気を持った人間はいつの時代にも、どの国にもいる。中世ヨーロッパの魔女狩りや、アステカ文明を滅ぼしたスペイン人などの例を挙げるまでもなく、人間の中には身震いするばかりの残虐性が潜んでいる。その残虐性が一方的に暴走するのを誰も止められなかったことが、カンボジアを惨劇に導いたのだ。
本物の狂気をはらんだ人間に対してはっきりと「ノー」と言うことができず、恐れと尻込みと同調によって一人の男の妄想が国全体を支配することを許してしまった。問題の本質はそこにあると思う。
ひとつ気がかりなのは、カンボジアの若者がポルポト時代についてあまりよく知らないということだった。カンボジアの公立学校では内戦や虐殺についてほとんど何も教えてこなかったという。キリングフィールドなどの史跡を訪れるのも大半が外国人だった。国の人口の三分の一が失われてしまった悲劇からまだ30年しか経っていないのに、すでに記憶の風化が起こり始めているのだ。
隣国ベトナムでもおびただしい数の犠牲者を出した戦争が起きたが、その後の語られ方はカンボジアとは大きく違っている。ベトナム人にとってベトナム戦争とは、アメリカという侵略者に対してねばり強く戦い勝利を収めたという誇るべき物語なのだ。
だが、カンボジアで起きた内戦と虐殺はカンボジア人自身の手で作り出した悪夢であり、しかも事態の解決のために外国の力に頼らざるを得なかったのである。いまだに虐殺の動機は不明で、何が目的だったのかもはっきりとしない。後に残されたのは、白骨の山と知識と文化の喪失というあまりにも惨めな結果だけだった。
カンボジア人がポルポト時代を忘れたいという気持ちはよくわかる。事実を直視してそれを語り継ぐのは、激しい痛みを伴うことだから。しかしたとえそうであっても、次の世代に向けて語らなければいけないこともあるのではないか。忘れてはならないこともあるのではないか。
「そうかもしれないな」とイットさんは頷いた。「私はこの30年、辛い記憶をただ黙って忘れようとしてきた。私にはそうすることしかできなかった。でも私が死んだら、あの時代に死んでいった人たちの苦しみを伝える者は誰もいなくなってしまう。話してみるよ。私に残された時間は少ないけど」
イットさんは別れ際に「オークン(ありがとう)」と言ってくれた。もちろん僕も「オークン」と返した。
彼の顔にはいつもの穏やかな微笑みが戻っていた。
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