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 教会に泊まった翌日は、洗礼式が行われた。
 洗礼式は結婚式のような盛大なものではないし、厳粛さにも欠けていた。親に抱かれた赤ん坊の頭を神父が水で濡らし、それを布で拭いたらお終いという簡単なものだった。

洗礼式の様子

洗礼式に集まった人々。
 「洗礼」という言葉から連想されるのは、裸の赤ん坊がちゃぷんと水に浸かっている場面なのだが、一人一人にそんなことをしていたら何時間あっても足りないということで、儀式も簡略化されているようだ。何しろこの日だけで160人もの子供が洗礼を受けるために集まっているのである。

 ミゲル神父によると、このような洗礼式は年に6,7回行われているということなので、単純計算でも毎年1000人近くの子供がこのマウベシ周辺で生まれていることになる。ものすごい数である。

 統計的に見ても、東ティモールの子供の数は劇的に増えつつある。合計特殊出生率(一人の女性が一生に生む子供の数)はなんと7.8人。これは国連が認める世界ナンバーワンの数字だという。ちなみに少子化問題に頭を悩ませている日本の合計特殊出生率は1.27。東ティモール人女性は日本人女性の実に6倍もの子供を産むわけである。もしこの高い出生率が今後も続けば、わずか18年で今の人口が倍になるという。すさまじい勢いだ。

 東ティモールには「子供がたくさんいた方が幸せだ」という価値観が根強くあるようだ。それに加えて今のベビーブームの背景には、インドネシア占領時代と独立後の混乱によって多くの人が殺され、とても子供を産めるような環境になかったことの反動もあるようだ。

東ティモールにはとにかく子供が多い。どこに行っても子供が元気に遊び回る姿がある。


 平和を取り戻した国で多くの子供を産み育てたいという願い自体は、とても自然なものだ。しかしこのままの勢いで子供の数が増え続けていくとしたら、今後大きな社会問題となるのは間違いないだろう。小さな島国東ティモールにそれだけの人口を養う余地があるのかは疑問だし、失業者の問題もより深刻化することになるだろう。今でさえこの国の若者の半分は定職に就けずにぶらぶらしているというのに、これからさらに若年人口が増えればどういう結果になるのかは考えるまでもない。

 東ティモール政府も人口抑制策を打っているのだが、今のところあまり効果は上がっていない。その原因の一部はカトリック教会にあるという話を聞いた。教会がバチカンの意向に従って信者に対して避妊を勧めていないことが、次から次に女性が妊娠することに繋がっているというのだ。


「確かに子供の数は多いですね」とミゲル神父は言った。「お腹の大きな母親が、腕に1歳にもならない赤ん坊を抱え、足下には3歳の子供がいて、さらに離れたところで二人の子供を遊ばせている。そんな家族が教会を訪れるのです。母親は大変ですよ」
「そういう母親に対して教会は何かアドバイスをしているのですか?」
「我々カトリック教会が説いているのは、『結婚とは子供を作るための扉を開く鍵である』ということです。毎年のように妊娠して子供を産むのは母親の体にも負担がかかるし、生まれてくる子供にも良くない。だから3、4年あいだを置いてから次の子供を作りなさいと言っています。そのために女性の生理周期を知り、妊娠しそうなときにはセックスを控えるように教えています」
「避妊具、例えばコンドームは使わないのですか?」
「政府はコンドームの使用を勧めています。エイズ感染の防止のためにも必要だと。でも教会は『コンドームを使うべきではない』と教えています」
「それはなぜですか?」
「人々がコンドームの正しい使い方を知らないまま使うのは、危険だからです」

 それはずいぶん無理のある説明だった。コンドーム自体に危険性があるという話は聞いたことがないし、「エイズと望まない妊娠に対してもっとも安価で有効な対策はコンドームの使用だ」というのは世界中で広く知られた常識である。東ティモールでもエイズが深刻な問題になりつつあるということだから、なおさらコンドームの使用を勧めるべきではないのだろうか。

「教会で結婚するカップルは、必ずエイズ検査を受けることになっています。その結果が出ないと結婚の許可が下りないのです。二人とも陰性であれば、コンドームを使わずにセックスをすればいい。どちらかが陽性だった場合には、二人の判断に任せます。それでも愛し合っていて夫婦になるというのであれば、そのときには教会も特別にコンドームの使用を認めています」

 その説明もやはり苦しい言い訳にしか聞こえなかった。仮に結婚前のエイズ検査で陰性だったとしても、結婚後に夫婦のどちらかが買春やドラッグなどによってHIVに感染し、それをパートナーにうつす可能性もある。その場合には婚前診断の結果は全く意味をなさなくなる。エイズを広めたくないのであれば「コンドームを使え」と言うしかないのではないか。

 ミゲル神父もコンドームの有効性は知っているのだと思う。高い教育を受けた彼が爆発的な人口増加がもたらす未来を予測できないはずはないし、エイズの蔓延も止めなければいけないとわかっているはずだ。しかし彼は神父であり、カソリックの総本山バチカンの「人工的な避妊と妊娠中絶を禁ずる」という方針には逆らえない。板挟みの状態なのだ。だからこのような詭弁に近いロジックを持ち出さざるを得ないのだろう。

 東ティモールのカトリック教会はインドネシアによる占領時代に信者の数を大幅に増やした。それ以前は土着のアニミズム信仰が優勢だったのだが、カトリック教会が占領時代に虐げられていた東ティモール人の権利を守るという立場を貫いたことで、人々から厚い信頼を得たのだ。教会は東ティモールが独立を勝ち取るための「精神的支柱」となったのである。

 この国で教会が持つ影響力は大きい。だからこそ教会にはバチカンが決めた方針に従うだけではなく、東ティモールの実情に合った助言をする責任があると思う。たとえば「バチカンの方針はともかく、我々は避妊の問題に関して何も言わない」という態度を取るのもひとつの方法だろう。コンドームの推奨はしないが、禁止もしない。選択は信者に任せるということにすれば、事態は改善されるのではないだろうか。
 そんなことをミゲル神父に提案すると、「うーん」とうなったまま黙り込んでしまった。彼にとっても頭の痛い問題なのだろう。

 もっとも、神に仕える立場の神父が性生活についてアドバイスをするなんて土台無理な話なのかもしれない。カトリックの神父は結婚してはいけないし、もちろんセックスもしない。性欲さえもコントロール可能だという。この教会の見習い神父いにレオニルドという17歳の若者がいるのだが、彼も(おそらく性欲がもっとも盛んな時期であるのに)「女性に惑わされることはない」と言い切った。
「もちろん女性に対して興味が湧くことはあります。自然な欲求として。でもそれは自分の中の欲望のありかを見つめることによってコントロールできるものなのです」

 残念ながら僕はそのようなストイックな青春時代を送ってこなかったので、「性欲は意志の力で制御可能である」と言われると、「ほんまかいな」と首をかしげたくなってしまう。それが可能な人もいるのだろうが、一般的な欲望のあり方とはかけ離れたものであるのは確かだ。そんな人が世間一般の男女の性生活についてリアルな助言を与えることなどできるのだろうか。
 カニを一度も食べたことがない人に、カニのうまさについて語ることはできない。どれほど生物としてのカニの生態に精通していても、カニ肉の味は実際に口に入れない限り絶対にわからない。セックスもそれと同じではないだろうか。


 洗礼式が行われた日は一日中雨が降っていたので、教会とその周りをうろうろして時間を潰すことにした。
 夕方の教会は人気がなく、がらんとしていた。白く塗られた高い天井と、きちんと並べられた長椅子。磨き上げられた床。正面には聖母マリア像と磔になったキリスト像。そんな教会らしいしんとした空気の中で、僕は雨だれの音を聞いていた。

 しばらくすると賛美歌の練習が始まった。教会の最後部には聖歌隊専用の二階席があり、そこに少年少女が集まってきたのだ。僕は目を閉じてその歌声に身を委ねた。とても美しい旋律だった。天井や壁に反射して複雑なエコーのかかったハーモニーは、体の芯をじんわりと温めてくれるような力があった。

 6時になると聖歌隊の練習は終わり、それと入れ違いに棺を担いだ人々が教会に入ってきた。これからお葬式が始まるらしい。参列者は200人ほど。全員で賛美歌を合唱し、神父が説教を行う。再び賛美歌。それを何度か繰り返した。

棺が運び込まれて葬式が始まった。

 妙な外国人がお葬式に紛れ込んでいても誰も咎めなかったし、僕の存在を気にする人もいなかった。僕は全員が起立すれば一緒に立って、一緒に手で十字を切った。

 これまでにも何度か道ばたで葬列とすれ違うことはあった。東ティモールではたくさんの人が生まれると同時に、たくさんの人が死んでいるのだ。

道で出会った葬列。

 東部トゥトゥアラでは流産した胎児のお葬式を目にした。亡くなった胎児の母親は親戚の葬式に「泣き女」として参列した際、あまりにも感情を高ぶらせて泣きすぎた結果、道ばたで転んでしまい、それが元で妊娠5ヶ月の子供を流産してしまったという。その手のことはしょっちゅうは起こらないにせよ、特別珍しいわけでもないらしい。その村では3日間で4度もお葬式が行われたそうだ。そのうちの3人が幼児か赤ん坊。衛生状態が悪くマラリアなどの風土病も多いので、乳幼児死亡率が極めて高いのだ。だからこそ、「できるだけ多くの子供を産んでおかなければ」と考えてしまうのだろう。

 死者が埋められる墓地は、貧しい村には不釣り合いなほど立派なものだった。人々は見晴らしの良い丘の上や椰子の木陰に、コンクリート製の大きなお墓を作るのである。生前よりも死後の方がよっぽどのんびりと暮らせそうだった。

海を見下ろす丘の上に作られた墓地。

コンクリートでお墓を作る男たち。

 教会の一日。それは生と死を司る一日だった。
 朝には新しい生に祝福を与え、夕方には死者を弔う。

 東ティモールでは、人の生も死も日々の暮らしのすぐそばにあった。毎日多くの人が生まれ、毎日多くの人が死ぬ。
 だからこそ、この国の人々は教会というものを切実に必要としているのだ。


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