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  たびそら > 旅行記 > 東南アジア編


 東ティモールの道路はかなりひどいものだった。首都ディリから伸びる何本かの幹線道路はまだまともだが、それ以外の道、特に中部から南部にかけての山道は、路肩が崩れていたり、土砂崩れで道路そのものが流されていたりしていた。主要道路はインドネシア占領時代に整備されたのだが、その後の騒乱と経済的困窮の中でメンテナンスが滞っているのだ。

長雨で土砂崩れを起こした道路。

洪水で流されてしまった橋。

 道路の状態は最悪だが、通る車の量も少ないので、交通事故はあまり起こっていないようだった。ベトナムやインドネシアのように一家に必ず一台のバイクがあり、いたるところで衝突事故が起こっているという状態とは全然違う。

 東ティモール人が安全運転なのも、事故が少ない原因のひとつかもしれない。アジアには「ハンドルを握ると性格が豹変する」人間も多いのだが、東ティモール人の場合は前に遅い車が走っていても、無理な追い越しをかけることもなく、のんびりと後ろについていくだけなのだ。ディリ市内を流しているタクシーも時速2、30キロほどでとろとろと走っている。これが高騰するガソリンの消費量を押さえるためなのか、「狭いティモールそんなに急いでどこへ行く」的な思想の表れなのかはよくわからなかった。

東ティモールのローカルバス。

 のんびりとした東ティモールの交通事情を反映しているのが犬たちである。どういうわけか東ティモールの犬は道のど真ん中で堂々と昼寝をしているやつが多いのだ。バイクが近づいてもピクリとも反応しない。「俺はここで寝てるんだからお前が避けろ」と言わんばかりの横着な態度なのである。

 まぁ滅多に車なんて通らないところだから、ほかほかと暖かいアスファルトの上に寝そべりたくなる気持ちもわからなくはないけど、カーブを曲がったところにいきなり「お昼寝犬」が現れて、慌ててハンドルを切って何とか避ける、ということを何度も繰り返していると、「んなことしてたら、いつか轢き殺されるぞ!」と怒鳴りつけてやりたくなった。

 東ティモールの中でも特にひどい状態だったのが、ティモール海に面したビケケ県の道だった。ここは1999年に起こった騒乱の際に主な橋がすべて破壊され、道路が寸断されたままになっていたのだ。最近になってようやく橋の再建が始まったのだが、それもたびたび起こる洪水のせいで思うように進んでいなかった。

 橋が壊れたままの場所では、バイクで川を渡ることになった。水深がさほど深くなければ簡単に渡れるのだが、前の日に大量の雨が降って水かさが増していたりすると、かなりの危険を伴うドライブになる。

川をバイクで渡る男。この川はまだ浅い。

 ラウテン県とビケケ県の県境のあたりを走っていたときには、幅が30メートルほどもある川に行く手を遮られてしまった。わだちは川に向かって直角に進み、そこで唐突に途切れていたから、ここを通る人はみんな川の中を突っ切っているに違いなかった。

 さて、どうしたものか。
 僕はとりあえずバイクを日陰に止めて、買っておいたビスケットを囓り、ボトルに入れた水を飲みながら、他のバイクが現れるのを待った。もし他の誰かがここを渡るようなら、その後に続こうと思ったのだ。「地元の人がやることを真似ろ」というのがこういうイレギュラーな事態に対処するときの基本である。

 しかし10分が経ち、20分が経っても、一台のバイクも現れなかった。どうやらここは極端に交通量の少ない道のようだ。
 仕方ない。自力でやってみるか。
 そう腹をくくった僕は、まず川の一番深いところまで歩いてみることにした。流れは速いが、水深は思っていたよりも浅かった。膝の少し上まで水に浸かるぐらいだった。これならバイクでも渡れそうだ。そう思ったが確信はなかった。

 そこへちょうど現れたのが、釣り竿を持った若者だった。
「ビサ? (できるか?)」
 僕はインドネシア語で訊ねてみた。そしてバイクと川を交互に指さして「このバイクで川を渡ることができるか?」と伝えた。
「ビサ! (できるさ!)」
 若者は自信ありげに頷いた。よかった。気休めにしかならない言葉だが、「できない」と言われるよりははるかにマシだった。

「よし、行こうか、相棒」
 僕はバイクに一声かけてスロットルを握り、ギアをセカンドに入れて川の中へと進んだ。こういうときには、行くと決めたら一気に走りきることが大切だ。少しでも躊躇してスピードを緩めると、川の流れに負けて身動きがとれなくなる可能性があるからだ。最悪の場合、バイクごと下流に流されてしまうかもしれない。

 出だしは順調だった。川底のツルツルした石にタイヤが取られて、何度かバランスを失いそうになったが、なんとかスロットルを緩めずに進むことができた。
 ところが、流れの真ん中を過ぎたあたりで急にエンジンが止まってしまったのである。エンジンが急に冷えたことでエンストを起こしたのだろうか。
 まずい。
 僕は一瞬パニックになりながらも、すぐにギアをニュートラルに入れてバイクを降り、下流に流されないように必死に足を踏ん張りながら全力でバイクを押した。水の中で息を止めたバイクはやたら重かったが、それでも何とか対岸までたどり着くことができた。

 やれやれ。僕は全身汗びっしょりになりながら、安堵のため息をついた。
「ビサ! (できたじゃないか!)」
 振り返ると、釣り竿の若者が右手の親指を立てて笑っていた。
「ビサ! (できたさ!)」
 僕も同じポーズで答えた。できたことはできた。でもギリギリだった。これ以上水かさが増していれば、渡れなかっただろう。運が良かった。

 そこからさらに1時間ほど進んだところにある川には、コンクリート製の立派な橋が架けられていた。壊された古い橋の代わりに新しい橋を一から造ったようだ。今度は楽に川を渡れそうだ。そう思ったのもつかの間、また別の問題が僕を待っていた。
 実はこの橋は未完成だったのである。橋そのものの工事は終わっているのだが、道路と橋桁とを繋ぐスロープの部分がまだ完成していなかったのだ。道路と橋桁のあいだには高さ3メートルほどの大きなギャップがあって、これがバイクの行く手を遮っていた。

未完成の橋が目の前に立ち塞がった。

 完全にお手上げだった。橋には歩行者が渡れるように小さなはしごがかけられていたのだが、重いバイクを担いでこのはしごを登るのは不可能だった。いったいどうしたらいいんだろう?
 橋の前で茫然としていると、どこからともなく若者たちが集まってきた。やたらテンションが高く、口々に「マライ! マライ!(外国人だ!)」と叫んでいる。

 若者たちは僕のバイクを取り囲んで「リマ・ドラー!(5ドル)」と言った。そしてバイクを持ち上げる仕草をした。どうやら彼らは「5ドル払えば、俺たちがバイクを橋の上に引っ張り上げてやる」と言いたいらしい。なるほど。そういうことですか。

 それにしてもセコい商売を思いついたものである。この橋をバイクで渡ろうとする人間はそれほど多くないはずなのだが、若者たちはその滅多に来ない「顧客」が現れるのを、ぺちゃくちゃお喋りをしながらずっと待ち続けていたのだ。よっぽど暇な人間じゃないとできないことだ。もちろんそんな暇人たちがいなければ、僕はここで立ち往生する羽目になっていたわけだが。

 5ドルという言い値は、3ドルにまで値切ることができた。交渉が成立すると、5人が橋の上に、5人が下の道路に分かれ、声を合わせてバイクを引っ張り上げた。そして橋の反対側でも同じ要領でバイクを下ろしてくれた。作業は実に手慣れていて、チームワークも抜群だった。

 こうしてバイクが無事に橋を渡りきると、僕は約束通り1ドル紙幣3枚をリーダーに渡した。リーダーはそれを戦利品のように頭上に掲げると、「ヒャホー!」と叫びながら橋の上を走り回った。

 いやはや、この道には予想もつかない罠がいくつも仕掛けられている。
 僕はため息をついて、バイクにまたがった。


 実はこの「バイクの引っ張り上げ」によく似たセコい商売を、別の場所で目撃したことがあった。
 現場は首都ディリから50キロほど西に行ったところにある橋の上。前日に大量の雨が降ったせいで川が氾濫し、流れてきた泥が橋桁の上に分厚くたまっていた。この橋の上を通過する自動車やバスが、地元の若者たちにとっての「顧客」だった。彼らは橋を通過する車のタイヤが泥にはまり、身動きがとれなくなるのをじっと待っていたのだ。まるでアリ地獄に潜むウスバカゲロウの幼虫のように。

ぬかるんだ道を走る車。

 運悪く泥にはまって立ち往生する車があると、たちまちそのまわりに若者たちが群がり、口々に「10ドル! 10ドル!」とはやし立てた。「10ドルくれたら後ろから押してやるぞ!」というわけだ。運転手は困った顔で値切り交渉を行おうとするのだが、優位に立ってっているのは若者の側なので、結局10ドルを払わされる羽目になるのだった。ご愁傷様です。

10ドルくれたら後ろから押してやる!

橋の上で「顧客」が現れるのをじっと待つ若者たち。

 この若者たちにしかるべき賃金を出して、「いますぐ橋の上の泥を取り除いてくれ」と指示すれば、ものの10分でやり遂げるに違いない。その方がずっと効率的だし、公共の利益にも適っている。でも、この国ではそういうアイデアを出す人は誰もいないのだ。そして大型のショベルカーが到着して泥を取り除くまで、この「アリ地獄的ビジネス」を延々と続けるのである。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、「雨が降れば暇人が儲かる」というのがこの国の現実なのである。


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