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バナウェからさらに北へ向かう道は、本当にひどい悪路だった。岩だらけ、穴ぼこだらけの未舗装の道なのだが、それに加えて数キロおきに土砂崩れが発生しているというオマケまで付いていたのだ。
フィリピンは貧富の差が激しい国だが、道路の貧富の差も相当に激しいようだ。首都マニラ周辺の平地を走るハイウェーは日本と変わらない素晴らしい道なのだが、ひとたび山岳地帯に入ると「国道」とは名ばかりのすさまじい悪路が待ち構えているのである。
僕はこの悪路を時速20キロぐらいでノロノロと進んでいた。しかし運悪く雨が降り出してきたので、さらにスピードを落とす羽目になった。ぬかるんだ道はとてもスリッピーで、ひとたびハンドル操作を誤ると深い谷底に真っ逆さまというおっかない状況だったのだ。
ずぶ濡れになりながらルブアガンの町にたどり着いたのは、日没間際のこと。さっそく親切な雑貨屋のおばちゃんが教えてくれた宿に向かった。
そこは宿屋と食堂と雑貨屋を兼ねている典型的な「町の何でも屋」だった。一泊150ペソと安く、部屋も新しくて清潔だったし、嬉しいことにトイレの便器にもちゃんと便座がついていた。フィリピンの安宿のトイレは、なぜかほとんどの場合便器から便座が外されている。すぐに壊れてしまうのか、最初からつけていないのかはわからないのだが。
一応電気も通っているのだが、町にある小さなディーゼル発電所で発電しているために、早朝と夜の短い間しか電気を使うことができなかった。
宿の管理人と商店主を兼ねていたのは、さっぱりした髪型のおばさんだった。おばさんが煎れてくれたコーヒーは、地元で採れた豆を使っているだけあってなかなか美味しかった。コーヒーの栽培はスペイン植民地の時代から始まったというから、すでに100年以上の歴史がある。コーヒー豆を収穫してローストするところまでを農家がやっているそうだ。
「私には6人の子供がいるのよ」と管理人のおばさんは流暢な英語で言った。「そのうち3人はバギオにある大学に通っているの。月に2000ペソの仕送りをしているけど、それが精一杯ね。子供たちのためにも稼がなくちゃいけないから、ずっと忙しく働いているわ。雑貨屋の店番をして、食堂で料理を作って、売り物のコーヒー豆の選別もする。休む暇なんてないわよ」
おばさんは言いたいことをずばずば言う勝ち気な性格らしく、商品を仕入れに行っていたご主人が戻ってくると、びっくりするほど激しい口調で彼を怒鳴り始めた。
「これは40ペソだって言ってるでしょう。あんたいくらで買ったの? 45ペソ? ダメじゃない! もう、あんたはどうしていつもいつも大事なことを忘れるのよ!」
(半分は僕の想像だが)奥さんはそんなことを言っているようだった。ご主人が商品をいつもより高い値段で仕入れてしまったことに腹を立てているのだが、ただ黙って口撃に耐えているご主人の様子を見ていると、同情の念を覚えずにはいられなかった。家庭も仕事も取り仕切るしっかりものの妻と、気弱で頼りない夫。それはフィリピン人夫婦のひとつの典型だった。
「うちの商売はあまり上手く行ってなんだよ」
夫婦喧嘩が収まってしばらく経ってから、ご主人は愚痴をこぼすように言った。僕が食堂で夕食を済ませた後、彼が「一緒にビールを飲まないか?」と誘ってくれたのだ。たぶん奥さんの前ではおおっぴらにビールを飲むことができないのだろう。
「ここは田舎だから、お客も限られているからね。近所の人が必要なものを買いに来るだけさ。宿にはたまに外国人が泊まりに来ることはあるけど、フィリピン人の旅行者はほとんどいない。こんな町に来たって何もすることがないからね」
何もすることがない山奥の田舎町。確かにそんなところを好んで訪れる旅行者はあまり多くはなさそうだった。
翌日は一日中雨が降っていたので、ルブアガンにもう一泊することにした。フィリピンは基本的に雨季と乾季がはっきりと分かれているのだが、山岳地帯では乾季であってもしとしとと雨が降り続くことがあるという。
僕が傘を差して町を歩くと、子供たちの物珍しそうな視線を浴びることになった。外国人が来ることは滅多にないのだろう。カメラを向けるとワーっと叫びながら逃げていくのだが、写真を撮られるのがイヤというわけではなく、単に恥ずかしがっているだけのようだった。山に住む子供たちのシャイな表情は、平地のフィリピン人の陽気さとは対照的だった。
ルブアガンには高床式の古い木造家屋が多かった。ここは良質のマホガニーやナラが採れる林業の町でもあるので、昔から木材をふんだんに使った家が建てられているのだ。中には築100年を超える家もあるという。良く手入れされた古い家屋は、日本の古民家のようなしっとりと落ち着いた雰囲気があった。
定年になるまで英語教師をしていたというフランシスカさんの家も、50年以上前に建てられた木造家屋だった。
「日本の家も木でできているんでしょう?」と彼女は言った。「昔なにかの本で読んだことがあるの。日本人はみんな床の上に座って、小さな丸いテーブルを囲んでご飯を食べるんだって」
「ええ、昔はどこもそうだったけれど、最近は違いますね。椅子に座る人の方が多くなりました」
フランシスカさんは幼い頃に日本の兵隊に会ったことがあるという。太平洋戦争当時の日本軍はこんな山奥にまで進駐していたのだ。
「彼らが『コニチワ』って言っていたのをよく覚えているわ。そう。ハローって意味なのね。全然怖くなかったわ。みんな優しかったし、背が低くて肌が白かった。フィリピン人の子供たちがみんな色黒なんで、石けんで体を洗おうとしていた。汚れて黒くなっているんだと勘違いしたんでしょうね」
彼女はこの町に生まれてこの町で育ち、70年以上ものあいだずっとこの町で生きてきた。マニラに住んでいる息子を訪ねたのが、彼女にとって唯一の町の外に出た経験だ。
「マニラは人も車も多すぎて全然好きになれなかった。何もかもが忙しくて、目が回りそうだった。どうしてみんなマニラを目指すのかしら。私にはわからないわ」
ルブアガンの町では、いたるところで豚が昼寝をしていた。このあたりで飼われている豚は、平地で飼われている白い豚と違って全身が黒い毛に覆われていた。黒豚たちはなぜか体を寄せ合って眠る習性があるらしく、決して寒いわけではないのに母豚と子豚数匹が体を密着させて眠っていた。
「この豚はイノシシに近い種類なんだ」と地元のおじさんが教えてくれた。「ほら見てごらん。キバもまだ残っている。野生に近いから平地の豚よりも肉の味が濃厚だし、高値で売れるんだ」
しかし実際に調理された黒豚は肉質がかたく、獣のにおいが強くて、それほど美味しいとは感じられなかった。
「豚っていうのは意外に賢いんだよ」とおじさんは言う。「呼べばちゃんと戻ってくるし、人の命令にも従う。ニワトリみたいに大きな声では鳴くこともないしね。いい奴だよ。あんたも一匹飼ってみたらどうだい?」
「僕の家は都会にあるから、豚を飼うのは難しいですね」と僕は笑って答えた。「眠っている子豚はすごくかわいいんですけど」
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