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 ベトナムの漁師たちはとにかく酒が好きだった。まだ午前中だというのに、輪になって酒盛りを始めている男たちも珍しくなかった。

 漁師の朝は早い。日の出前に出漁して、日が高くならないうちに浜に戻ってくる。それで本日の仕事はお終い。あとはゆっくりと酒を飲みながら、長い午後を過ごすのである。僕も相当に気楽な身分だけど、彼らだって負けてはいない。ベトナムの男性はあまり熱心に働かないことで有名だが、その中でも漁村の男たちの怠けっぷりは群を抜いているように見えた。

 ベトナム中部にあるプオックハイという漁村にも、昼間から酒宴に興じる漁師たちが大勢いた。漁師たちはいくつかのグループに分かれて酒を酌み交わしていた。二十歳前の新人グループは比較的おとなしく飲んでいたが、彼らよりも年上で長髪と入れ墨が特徴の「ちょいワル」グループは大声で盛り上がっていた。所帯持ちの中年グループは将棋を指しつつじっくりと飲んでいる。

ベトナムの将棋(?)

「おい、兄ちゃん、一緒に飲もうや!」
 浜辺をぶらぶら歩いていた僕を酒宴に誘ってくれたのは「ちょいワル」たちだった。みんなすでに酔っぱらっているらしく、ろくに英語も話せないくせに、「ハロー!」などと言いながら、僕を輪の中に引っ張り込んだのである。

若者のグループが酒の席に誘ってくれた。

 ひと通り自己紹介が終わると、さっそくリーダー格の茶髪の若者が酒を振る舞ってくれた。ジオウという名前の米焼酎である。ジオウはアルコール度数が40度近くもある強い酒なのだが、氷を入れたりジュースで薄めるようなことはせずにストレートで飲む。小さなグラスに注いだものを一気にあおるのである。

 ジオウを飲み下すと、カーッと熱い感覚が喉を通って胃の粘膜にまで達するのがはっきりとわかる。味なんてあってないようなもの。もちろん酔いはすぐに回ってくる。漁師たちの気性と同じようにかなり荒っぽい酒なのだ。
「ねぇ、あんたたちさ、仕事はやらなくていいの?」
 僕はジオウを飲み干すと、ちょいワル漁師たちにそう訊ねてみた。気楽に酒を飲む男たちを尻目に、女たちは実に忙しそうに働いていたからだ。水揚げされた太刀魚を籠に入れて運ぶ女、包丁で魚を開いて干物を作る女、小魚から魚醤「ヌックマム」を作る女。みんな真面目に働いている。

漁村の女たちは働き者だ。


「いいんだって。海に出て魚を獲るのが俺たちの仕事。ああいうのは女たちの仕事」
 リーダー格の茶髪は身振りを交えながらそんなことを言った。なるほど、一応筋は通っている。男は荒波に揉まれ、女は港を守る。俺たちはもう十分に働いたから、あとは女たちに任せればいい、というわけだ。

魚の干物を作るのも女たちの仕事。

漁網を繕う女たち。
 ベトナムは社会主義国ということもあって女性の社会進出がめざましく、他の東南アジア諸国に比べても女性の立場が強いように感じられる。しかしそのベトナムにあっても漁村だけは事情が違っていた。「海の主役は男」という伝統的な価値観がまだまだ強く残っているのである。

 しかしそうは言ってもめっぽう気が強いベトナム女性のこと。家に帰った飲んだくれ亭主に対して「ちょっとあんた、飲んでばかりいないで働きなさいよ!」なんて怒鳴りつけているんじゃないかと想像するわけだけど。

 昼間からジオウを飲む男を見かけたのは、漁村だけではなかった。北部山岳地帯に住む農民の中にも、町の市場で働く男の中にも、「一杯引っかけないと仕事が始まらないよ」と言わんばかりに朝からグイグイとジオウを飲む連中がいたのである。仕事の前からこんなに強い酒を飲んでまともに働けるんだろうかと疑問に思うのだが、本人たちはいたって平然としていた。

 もっとも、そんな半アル中みたいな男たちのことをとやかく言う資格は、僕にもなかった。ベトナムを旅しているあいだ、酒を飲まなかった日は数えるほどしかなかったのである。さすがに昼間から飲みはしなかったけれど、夕食はいつもジオウを飲みながら食べ、酔っぱらったままベッドに倒れ込み、そのまま眠りに落ちるという毎日だったのだ。朝から晩まで走り続けて疲労した体が、強いアルコールを切実に求めていたのである。

 ジオウは一般の流通ルートに乗らない地酒なので、酒屋で買い求めるのではなく、食堂で直接注文する。食堂の奥には使い回しのペットボトルに入れられたジオウが何本か並べてあって、そのうちの一本を持ってきてくれるのだ。500ml入りで値段は70円ぐらい。とにかく安い酒である。

 いつものように食堂でジオウを頼んだのに、なぜか出してもらえなかったことが一度だけあった。国道1号線沿いの町ヴァンニンでの出来事だった。
「ジオウはないよ」
 と店のオヤジは言った。僕は言葉を失った。まさか。ベトナムの食堂にジオウがないだなんて。それはフレンチレストランで「当店にはワインがございません」と言われるのと同じぐらいあり得ないことだった。

「どうして?」と僕は言った。
「ジオウはあるんだよ」と店のオヤジは言った。「でもあんたには飲ませられない。あんたはバイクに乗っているからな」
 オヤジは僕が店の前に止めているバイクを指さした。
 なるほど。それで納得した。彼は「バイクに乗っている人間がジオウを飲めば、飲酒運転になるからダメだ」と諫めているのである。
「確かにあんたの言う通りだ。俺が悪かった」
 僕は素直に謝った。彼の言い分が完全に正しかったからだ。
「わかりゃいいんだよ」とオヤジは頷いた。

海辺の食堂で食べたイカのコム。これは絶品だった。

 ベトナムでは「飲酒運転が罪だ」という意識は薄いし、警察が取り締まりを行っているという話も聞いたことがない。だから昼間から酒を飲んで赤い顔をしたおじさんが、ごく当たり前にバイクに乗ってその辺を走っているのである。きっとこのオヤジさんは、そういう現状に対して強い不満を持っているのだろう。酔っぱらい運転での事故の例をたくさん知っているのかもしれない。だからこそ、自分の店の売り上げを度外視して「酒は出せない」と言ったのである。

 仕方がない。今日は酒抜きの夕食にしよう。そう思った矢先、オヤジは思わぬことを口走った。
「ビールだったらあるよ」
「ビ、ビールだって?」僕は目を丸くした。「ビールなら飲んでもいいっていうのかい?」
「ジオウはダメだ。あれは強すぎる。寝る前に飲む酒だ。でもビールならいい。あれは酒じゃない」
 よくわからない理屈だった。無論ビールだって立派な酒である。アルコール分は薄いが、量を飲めばジオウと同じように酔っぱらうし、飲酒運転にもなる。これは日本でもベトナムでも同じである。

「なぁ、あんたジオウはやめて、ビールにしておきなって。うちにはいろんな種類が揃ってるからさ」
 オヤジは耳元で囁いた。
「・・・なんだ、そういうことだったのかよ」
 僕は全身の力が抜けていくのを感じた。このオヤジは「飲酒運転はいけない」という正論を主張する立派なベトナム人などではなくて、ただ単にビールを飲ませたかっただけだったのだ。きっと「安いジオウよりも値段の高いビールを飲ませた方が売り上げアップになる」という計算が働いたのだろう。

「いいよ。今日はジオウもビールも飲まないから」
「まぁそんなこと言うなよ。サイゴンビールはグッドだぜ。333(バー・バー・バー)ビールも悪くない」
 オヤジは盛んに国産ビールを勧めてきたが、結局僕は何も飲まずに夕食を済ませた。残念ながら(ある意味では当然かもしれないが)、この店の出す料理は高くてまずいうえに量も少なかった。まったく。


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