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一瞬たりとも気の抜けない危険な道・国道1号線を走ることにいい加減うんざりしてくると、小さな漁村に立ち寄って気分転換を図った。
ベトナムの漁村はとても穏やかな場所だった。白い砂浜と青い海。椰子の並木が続く海辺の道。魚の干物を並べた棚と、木陰で昼寝する猫。昼下がりの漁村をぶらぶらと歩いていると、初めて見るはずなのにどこか懐かしさを感じるような風景に出会えるのである。
ベトナムの町――特に内陸部の田舎町――を歩いていると、社会主義国ならではのよそよそしさを感じることがあった。町の規模に比べて道幅がやたら広く、きっちりと区画整理がされていて、どこか堅苦しいのである。アジアでありながらアジアっぽさが希薄なのだ。
しかし、沿岸部の漁村はそんな堅苦しさとは無縁だった。細い路地が迷路のように複雑に入り組み、開け放たれた窓から家族の話し声や食事の匂いなどが溢れ出している。人々は軒下に座ってトランプに興じたり、世間話をしたりしながら、気怠い午後をやり過ごしている。そこに漂う濃密な生活の匂いは、まぎれもなくアジアの匂いだった。
ベトナムの漁村でひときわ目を引くのが「竹籠舟」である。これは竹を編んで作った直径2メートルほどのお椀型の舟で、絵本の世界からそのまま飛び出してきたかのようなポップでかわいらしい乗り物だ。これが人を乗せてぷかぷかと波間に漂っているのを見ると、「おぉリアル一寸法師!」と叫びたくなった。
ちなみにこの竹籠舟の表面には防水のためにコールタールが塗ってあるので、見た目ほどヤワではない。高い波が来ても簡単には転覆しないようにできているのだ。シンプルだけど、ちゃんと実用に耐える乗り物なのである。漁師たちはこの竹籠舟を、主に沖合に停泊している漁船と浜辺との往復に使っていた。遠浅の砂浜では、浜辺の近くに漁船を泊めておくことができないからだ。
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漁師たちを乗せた竹籠舟は早朝に沖合に向かい、昼頃になると浜辺に戻ってくる。「獲物」を満載して戻ってくる舟もあれば、空振りに終わった舟もある。水揚げされた魚は浜辺で待つ女たちによって競り落とされ、市場まで運ばれていく。少しでも安い値段で買おうとする女と、少しでも高い値段で売りたい女との、熱いバトルが繰り広げられるのはこのときだ。表情は真剣そのもの。ときにはつかみ合いの喧嘩が始まることさえある。ベトナム女性の気の強さを改めて実感する瞬間だ。このバトルに男は参戦しない。もし男がこの中に入っても、女たちの迫力に圧倒されて終わることだろう。
ラギという港町には竹籠舟はなかったが、その代わりに「足漕ぎボート」が港を行き交っていた。普通の手漕ぎ式ボートのオールを足の裏で握り、自転車を漕ぐような要領でクルクルと回転させながら進むのである。ふざけているわけでも横着をしているわけではなく、このあたりの人はみんなこのやり方でボートを漕いでいるのだ。手よりも足の方が楽なのだろう。
ラギの港の船着き場では、この足漕ぎボートがまるで駅前のタクシー乗り場のように何十隻も集まって客を待っていた。これは面白い絵だなと思ってカメラを向けると、まだ十代の若い女の子が「あたしを撮んなよ!」と弾んだ声を掛けてきた。すげ笠の似合うなかなかの美人だった。
彼女の笑顔を見た瞬間、僕の頭にあるアイデアが閃いた。この子のボートに乗せてもらえれば、多くの船が行き交う港の活気をそのまま写真に写せるのではないかと思ったのだ。
問題は僕が運賃の相場を全く知らないということだった。これまでの旅の中で、ベトナムの物価水準はだいたい把握していたのだが、ボート一隻をチャーターするのに一体いくら必要なのか、見当がつかなかったのだ。
案の定、僕が女の子を相手に値段の交渉を始めると、近くにいたおばちゃんが機先を制するように、「5万ドン!」と声を張り上げた。5万ドン(380円)というのはいくら何でも高すぎる。僕は「それじゃ話にならないよ」と首を振った。さらに「そんなに高いんなら、別に乗らなくたっていいんだぜ」と船着き場を後にするような素振りも付け加えた。
言葉が通じない場での交渉では、多少オーバーアクト気味でもいいから、まずこちらの意志をはっきりと伝えることが重要だ。安かったら乗るけれど、高かったら乗らない。足元を見るような真似はしないでくれよ。そうやって交渉の主導権を握るわけだ。
「じゃあ3万ドンだね」
と交渉役のおばさんは言った。声のトーンは若干落ちていた。
「それでも高いねぇ」
僕は渋い顔をして腕を組む。でも感触は悪くない。
「なら2万ドン! これで最後だね」
おばさんは指を二本立てて、左右に振った。意外にあっさり下がるものだと思った。向こうだって外国人相手に値段の交渉するのは初めてなのだろう。もう少し粘れば1万5000ぐらいまでは下がりそうだ。そんな風にも思ったが、結局2万ドンで手を打つことにした。特別な注文を出しているのだから、いくらかボーナスを弾むぐらいがちょうどいいだろうと思ったのだ。
足漕ぎボートでの港巡りの旅は予想以上に面白かった。狭い港の中を多くの船が忙しなく行き交う様子は、首都ハノイのラッシュアワーにも似た活気があり、それを眺めているだけでも十分に楽しかったのだ。
漕ぎ手はチャンという名前の18歳の女の子だった。彼女は上体を少し斜めに反らせた格好でオールを足で踏みつけながら、ゆっくりとボートを進めた。漁船の立てる大きな波を巧みに避け、左右から迫ってくる他のボートと一定の距離を保ちながら慎重にボートを操る姿は、道を知り尽くしたベテラン運転手のようだった。おそらく学校を卒業してからずっとこうして働いているのだろう。
僕がカメラを向けると、チャンは被っていたすげ笠でさっと顔を隠してしまった。さっきは「あたしを撮んなよ!」なんて威勢のいいことを言っていたのだが、それは仲間がいる前ではしゃいでみせただけだったのだろう。こうして二人きりで向かい合うと、急に照れ臭くなってしまったようだ。
それでも、しばらく向かい合って時を過ごすうちに彼女の頑なさも少しずつ緩んでいき、短い旅の終わりにははにかんだ顔を向けてくれるようになった。海の向こうに沈みゆく夕陽が、チャンの笑顔を印象的に浮かび上がらせていた。
残念だったのは彼女と話らしい話ができなかったことだ。聞きたいことはたくさんあったのに、言葉の壁のせいで、ほとんど何も聞き出せなかったのだ。せっかく二人きりで公園のボートに乗ったのに、手も握れなくてがっかりと肩を落とす高校生のような気分だった。
「あんた、この子に抱きついたんじゃないだろうね?」
30分ほどの短い船旅を終えて、僕らが船着き場に戻ってくると、料金交渉を買って出たおばさんがひやかし気味に言った。彼女が喋る言葉はわからないが、身振りと表情から言いたいことは何となく伝わってきた。
「僕は抱きつきたかったんだけどね、彼女が『ノー』って言ったんだよ」
僕が残念そうに言うと、周囲は笑い声に包まれた。ただ一人チャンだけが、「なんてこと言うの!」という顔で僕を睨んでいた。
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