ベトナムで迎える最初の朝は、突然の大音響で始まった。ドッドッドッドという硬くて重い音と共にベッドが揺れ、天井から白い粉がぱらぱらと落ちてきた。
(まさかベトナム戦争が再開したっていうんじゃないだろうな・・)
 寝起きでぼんやりとしている頭でそんなことを考えながら、僕はベッドから這い出て、フロントに降りた。

0812 ホテルのフロントには、まだ20歳そこそこの細身の女の子が、一人で電話番をしていた。
「何ですか? この音は」と僕は言った。
「あら? 昨日言ってませんでしたか? 明日は朝から工事をするって」
「それは聞いてたけど、『10時までは静かにさせますから、心配しないでください』って言ってたでしょ?」
 僕は彼女の背後にある壁掛け時計を指差した。時計は7時15分を指している。カウンターに置かれた女の子の腕時計も覗き込んでみる。7時15分に間違いない。
「工事の人が早く来ちゃったの。でも早起きが出来てよかったじゃないですか?」
 そう言うと彼女はにっこりと笑った。
「まぁそうだね・・・」
 僕は力なく微笑んだ。確かに早起きは出来た。それを望むか望まないかは別として。このホテルは頼みもしないのに、モーニングコール・サービスとして客室の隣の部屋の壁を、ドリルでぶち抜いているわけだ。

「でも、僕は自分が起きたい時間に起きたいんだよ。ドリルの音で目を覚ますんじゃなくて」
「わかりました。それでは部屋をお取替えします」
 彼女は宿帳をさらさらとめくって、新しい部屋の欄に僕の名前を書き込んだ。なんだ、やればできるんじゃないか。
「これで明日からは、ゆっくり眠れるはずですよ」
 そう言うと彼女はまたにっこりと微笑んだ。その屈託のない笑顔には、腹立たしい気持ちを萎えさせる力があるらしく、僕はそれ以上文句を言うのは諦めて、言われた通りに3階の部屋の荷物をまとめて、5階の部屋に移った。移動が完了する頃には、すっかり目も覚めてしまった。確かに早起きにはうってつけのホテルだった。

 異様に広い部屋と高い天井は、このホテルがかつてはそれなりの水準にあったことを示している。しかし、今ではあらゆる設備が老朽化していた。トイレの水は流れたまま止まらないし、壁紙はあちこちで剥がれているし、床の羽目板が抜けている場所もある。それを直すためにフロアの半分が改装工事中なのだが、残りの半分にはいつも通りに客を泊めているのだった。

 でも工事のお陰で、格安の値段で泊まることができたのも事実だった。「いつもの半額ですよ」とフロント係は言った。
 だから少々うるさくても、あまり文句は言えないのだった。それにいくらホテルが静かだとしても、朝になれば表通りが車とバイクのクラクションで大騒ぎになる。ハノイで静寂を求めるというのは、おすぎとピーコに「10分間黙っていろ」と言うようなものなのである。

 
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アジア的喧噪に包まれたハノイ

 ベトナムの首都・ハノイ空港に降り立ったのは、香港を飛び立ってから3時間後のことだった。飛行機のタラップを降りると、ボロい中古バスに乗せられて、田舎のバスターミナルみたいに小ぢんまりとした空港ビルまで連れて行かれた。空港内の移動に無人電車を使っていた香港の新空港とは、まさに天と地の違いだった。入国管理官の愛想の無さだけは同じだったが。

 入国スタンプをもらい、荷物を受け取って外に出てみると、目に飛び込んできたのは広大な水田地帯だった。田んぼの真ん中に、一本の幹線道路が延びている。その他には何もなかった。何だかすごいところに来たらしいな、と僕は思った。
 田んぼの向こうには背の高い椰子の木が等間隔に並び、葉の間からややくすんだオレンジ色の夕日が覗いていた。夕日は地平線ぎりぎりに張り付いたまま、まったく動かないように見えた。それは僕が生まれて初めて見る南国の夕景だった。

0762 空港からタクシーに乗ってハノイの中心地に近づくに連れて、牧歌的な田園風景はバイクと自転車が引き起こす騒音と混乱に取って代わった。狭い道にバイクや自転車やトラックやシクロが入り乱れ、交差点は祭りの中心のような大騒ぎになっていた。誰も彼もがクラクションを鳴らし、そしてそのクラクションはただやみくもに鳴らされているだけで、何の効果も発揮していないのだった。香港だって相当にやかましい街だと思ったけれど、ハノイの騒音はそれとは次元が違っていた。それはまさに「アジア的喧噪」だった。

 アジア的喧騒は、その無秩序さに源を発している。ハノイには交通ルールというものが、無いに等しい存在なのだ。信号機はあるにはあるけれど、まともに機能してはいない。赤信号で真面目に止まっていると、後ろから「早く行け」とせっつかれる。一方通行の標識もお構いなし。左折しようと(ベトナムは右側通行である)交差点の真ん中で待っていると、いつまで経っても曲がることが出来ない。前後左右360度、車の流れが途切れることがないからだ。

 この交通カオス状態を更に決定的なものにしているのが、クラクションである。昼夜を問わず、ハノイの街からクラクションの音が消えることはない。本来、クラクションというものは注意を促す為のものなのだが、「危険なときには鳴らす」「危険がないときには鳴らさない」というメリハリがまったく失われているので、実用的な意味を持たない、「ただの騒音」になっているのだ。
 あるベトナム人が「ベトナムのバイクで最初に壊れるのは、エンジンでもタイヤでもブレーキでもなく、クラクションなんですよ」と真顔で教えてくれた。それも出鱈目とは言い切れないところが怖い。

 ところで、混乱の極みにあるハノイの交通戦争(これは控え目に言っても、「戦争」と表現して差し支えないと思う)を、住民はどうやって生き抜いているのだろうか。ここで典型的なハノイ人による、ハノイの歩き方を学んでみよう。

0779【ハノイの歩き方1.物売りのおばちゃんの場合】

 近代的な高層ビルディングが建設されていくハノイの街にあっても、天秤棒にすげ笠という伝統的なスタイルの物売りのおばちゃん(お姉さんも散見される)は、いまなお健在である。おばちゃんはサトウキビやトウモロコシやフランスパンを籠に満載して、その重みでしなった天秤棒を肩に担いで、街じゅうを売り歩いている。彼女達の歩き方の極意とは、「迷わないこと」である。
 例えば天秤棒おばちゃんが交差点に差し掛かる。当然交差点には、右からも左からも前からも後ろからも、バイクと車と自転車が殺到している。ハノイには横断歩道や歩行者用信号などという生ぬるいものはない。ホットな街なのだ。
 しかし、すげ笠おばちゃんは全く動じない。彼女は混乱の中を、イスラエルの民を引き連れて海を渡るモーセのごとき確信に満ちた足取りで、脇目も振らず進んでいく。そして、交差点のど真ん中を何事もなく渡りきってしまう。
 おばちゃんにとってバイクは避けるものではなく、「避けてくれる」ものなのだ。彼女には細く、しかしはっきりとした一本の道筋が見えている。海は割れ、バイクは彼女を避けていく。とても真似なんかできないし、してはいけない。

【ハノイの歩き方2.学校帰りの子供の場合】
 ベトナムで朝昼夕、どの時間帯でも制服姿の小学生を見かけるのは、学校が午前と午後の交代制になっているからだ。学校と教師の絶対数が不足しているのである。小学生達も当然、交通カオスの中を通学するわけだけど、ヘルメットを被るわけでもないし、黄色い旗を持ったPTAのおばちゃんがそこかしこに立っているわけでもない。
 中にはバイクに気を付けるどころか、友達同士でサッカーボールを蹴り合いながら歩いている子供もいる。もちろん、彼らは『キャプテン翼』みたいに器用ではないから、サッカーボールはしょっちゅうバイクで溢れる車道に転がってしまう。それでも、子供はろくに左右を確認せずに、ボールを取りに車道に飛び出していく。
 日本のドラマなら、「危ない!」とハンサムな主人公が飛び出してきて、子供をトラックから守る場面だ。目の前でそれを見ていた成城のヤングミセスは失神するだろう。でも、ハノイにはハンサム主人公はいないし、そんな必要もない。どういうわけか子供は、するするとバイクの群れを潜り抜けていくのだ。どうやらハノイの子供達は、動物的勘によってぎりぎりの鼻先でバイクや車をかわすことができるらしい。

 明文化されたルールは、ここではまったく意味を成さない。ハノイを歩くために必要なのは、感覚を研ぎ澄ませて危険を察知する「嗅覚」と、行くと決めたら絶対に立ち止まらない「思い切りのよさ」なのだ。

 
 

1日70円で自転車を借りる

1094  僕は宿の近くの貸し自転車屋で、1日1万ドン(70円)の自転車を借りてハノイの街を走った。もちろん最初のうちは、この交通カオスに戸惑い、圧倒された。遠慮なく正面から突っ込んでくるバイクと衝突しかけたことも、一度や二度ではなかった。

 でもしばらくすると、ハノイのリズムを頭ではなく身体感覚として捉えることが出来るようになった。交通規則や常識は一度完全に頭から追い払って、とにかく波に乗ってみるのだ。そして混乱の中で、自分の進む道を見つけていく。不思議なもので、道の端を慎重に走っていた頃は危なくて仕方なかったのに、のろい自転車を大胆にパスしていった方が、危険な目に遭う確率は遙かに少ないのだった。

 黒潮に乗って移動するイワシの大群のように、数え切れない程のバイクと自転車に混じって、僕はハノイの街を巡った。道端には実に様々なものが露出し、転がっていた。無造作に赤ん坊の両足を掴んで、道路に向かって小便をさせる母親がいる。小さな鏡とビニール椅子だけで営業する青空散髪屋がある。歩道に椅子と黒板を並べて授業をしている学校もある。郊外を走ると、誰彼構わず水風船を投げつけてくるちびっ子ゲリラに襲われる。湖畔の公園には、「あなたのスニーカーを磨かせてくれ」としつこく追ってくる靴磨きの少年がいる。

 ハノイはうるさくて埃っぽくて気忙しい街だったが、同時にとても魅力的だった。何もかもが日本とは違っていた。もちろん香港とも違っていた。そこは人々の熱気が渦を巻いていて、規則や組織というものをどこかへ押し流していくようなダイナミズムがあった。その熱気にの中に自分自身が飲み込まれていく感覚は、今までに味わったことのない種類の快感だった。

 夕暮れ時になって、自転車でロンビエン橋を渡った。ロンビエン橋は20世紀の初めにフランスが作った、当時東洋一を誇った古い鉄橋である。ベトナム戦争中、アメリカ軍は大量の爆撃機を使ってこの橋を落としにかかったが、ベトナム軍も対空高射砲で応戦し、橋を死守した。
 30年前の戦争時には、戦略的に価値が高かったロンビエン橋も、今ではバナナを満載した自転車が通る生活の道であり、狭いスペースに物売りのおばちゃんが並ぶ橋上市場でもある。

0802 僕は鉄橋の上からカフェオレ色のホン川を見下ろす。そこには何隻かの船上生活者(ボートピープル)の小船が浮かんでいる。ひとりの子供が船から川に飛び込んで、水を跳ね上げながら泳ぐのが見える。彼は橋の上にまで聞こえるぐらいの大声で、何かを叫んでいる。

 旅に出たんだ。僕は濁った川の流れと、鉄橋を渡る自転車の流れを眺めながら、そう思った。
 何も持たず、何ものにも縛られず、右へ行くのも左へ行くのも全くの自由だ。この先、どういう道筋を通って、どこに向かうのかはわからなかったが、きっと面白いことが待ち受けているだろう。
 根拠のない、しかしはっきりとした予感が、僕の心を震わせていた。