0615 僕は後ろを振り返らずに全力で走った。
 ネイザン・ロードに出ると右に折れ、買い物客で賑わう雑踏を文字通りかき分けて走り続けた。誰かの紙袋に足をぶつけて転びそうになったが、立ち止まっている暇などなかった。
 どこをどう走ったのかよく覚えていない。とにかく僕は目に付いた路地を曲がって、地下鉄の階段を駆け下りた。プリペイド式のカードを買ってあったから、切符を買う手間をかけずに改札を抜けることができたのは幸いだった。そして、ちょうどタイミングよくホームに滑り込んできた車両に飛び乗った。

 僕は混み合った車内で荒い息を整えながら、二人が追ってこないかとホームを窺った。サラリーマン風の中年の男が新聞から目を上げて、こいつは一体何なんだという訝しげな視線を僕に投げつけた。あの二人の体型からすると簡単に追いつけるとは思えなかったが、地下鉄の扉が閉まって発車するまで安心はできなかった。

 結局、フィリピン人達は追ってこなかった。僕は2つか3つ目の駅で地下鉄を降りて階段を駆け上がり、足早に繁華街の雑踏の中に入った。普段僕は人ごみを毛嫌いする方なのだが、このときばかりは自然に人の波に吸い寄せられていった。
 鳥籠を大事そうに抱えた老人や、ココナッツの実にストローを差して飲みながら歩く女子高校生達に混じって、僕は香港の繁華街をあてもなく歩き続けた。

 

最初の目的地が香港だった理由

0725 12月の香港は生暖かかった。暑さと寒さのちょうど中間で、どっちに付くか決めかねているという感じだった。天気もはっきりしなかった。降っているのかいないのかわからない程度の小雨が、いつも降り続いていた。
 傘も持たずに何時間も街をうろついていると、髪の毛もウィンドブレーカーもぐっしょりと濡れてしまったが、僕は構わずに歩き続けた。他にやることが思いつかなかったからだ。

 旅の最初の目的地に香港を選んだのには、特別な理由があったわけではない。
 まず頭に浮かんだのが、ベトナムという国だった。そして南北に長いベトナムを縦断して、カンボジア、タイへと抜けようと考えた。
 僕は海外旅行というものがまったくの初めてだったので、東南アジアの玄関口として最もポピュラーなのはタイのバンコクで、多くの長期旅行者はそこを基点にして旅を始めるのだ、ということも知らなかった。そういうことは後になって、旅慣れた人たちに聞くことになるのだけど。

 そんなわけで、日本で旅のルートを漠然と計画していたとき、最初にハノイに入ってから南へ下り、ホーチミン市からカンボジアに入るのが理想的だと考えた。というより、それ以外のルートが思い浮かばなかったのだ。
 まずハノイへ。そのためには、香港で飛行機を乗り換える必要があるのだが、どうせなら香港の街に何日か滞在してみるのもいいだろうと思ったのだ。要するに香港滞在は、オマケみたいなものだったのだ。

 

0740 香港に着いてから3日間は、『重慶大厦』という雑居ビルの中にある安宿に泊まった。この『重慶大厦』は、その道(つまり節約旅行家達のあいだ)では有名な安宿ビルであるらしく、欧米人や東洋人のバックパッカーも何人か見かけたが、その数は決して多くはなかった。香港は物価が上がりすぎて、節約旅行家には縁のない土地になりつつあるのだ。

 その代わりに、正体不明の男達がビルの入り口辺りをいつもうろついていた。エレベーターに乗ると、中国語でも英語でもない耳慣れない言葉が2,3ヶ国語飛び交っていることも珍しくなかった。
 身なりのいい黒人のバイヤーらしき男と、虚ろな目をしたインド系の痩せた男と、どういうわけか白いバスタブ(!)を担いだアラブ系のおっさん二人組と一緒のエレベーターに乗って、同じように首を45度上に傾けて階数表示ランプをじっと眺めていると、ここは一体どこなんだろうという疑問が涌いてくる。
 例えばこのビルの11階が石油王のハーレムになっていたとしても、13階に清朝時代の阿片窟が現われたとしても、僕はあまり驚かなかっただろう。『重慶大厦』は、そういう非現実的な空気に包まれたビルだった。

 

 

自分の身は自分で守らなくちゃいけない

 もちろん11階に降りても、そこはハーレムではなかった。リノリウムが剥がれた床と、むき出しの空調装置、割れた窓ガラス。昼でも夜でも、この陰気臭い光景は変わらなかった。

 僕は夜の10時を回った頃になって、『重慶大厦』の11階にある自分の宿に戻ることにした。フィリピン人の二人がこの宿を見つけて、僕を待ち構えている可能性がないわけではない。彼らは僕の泊まっている宿の場所を知らなかったが、その気になれば旅行者が泊まりそうな宿を探し回ることは難しくない。だからと言って、いつまでも繁華街を雨に濡れながら歩き続けているわけにもいかなかった。

0725 香港の宿は防犯上の理由から何重にも鍵が掛けられているところが多く、この宿も自分の部屋に辿り着くまでに、3種類の鍵を使わなくてはいけない構造になっていた。昔の『ドラゴンクエスト』みたいな趣向である。
 ふたつ目の鍵を開けてフロントの前を通ると、従業員の男が椅子に座って新聞を読んでいた。
「背の低いフィリピン人の二人組が、ここに来なかっただろうか?」
 僕は男に訊ねてみた。
「フィリピン人? さぁ、今日は見ないと思うよ。何かトラブルかい?」
「来なかったんならいいんだ。ありがとう」
 僕はそれだけ言って、自分の部屋に戻った。今日一日の僕の行動を、他人に説明するのはあまりにも馬鹿げていたし、上手く説明する自信もなかった。
 それに、もしフィリピン人が追ってきたとしても、警察に飛び込まれて困るのはイカサマ賭博をやっている彼らの方なのだから、僕がいつまでもびくびくしている理由はないはずだ。

 雨で濡れた髪をタオルで拭いてから、僕は固いベッドの上に寝転がって天井を眺めた。そして、今日一日の出来事を振り返ってみた。
 フィリピン人の客引きに捕まった。汚いビルの一室でイカサマトランプの手ほどきを受た。いつの間にかブルネイのオカマと賭けトランプをすることになった。6万ドルの現金が目の前に置かれた。街の雑踏の中を走って逃げた・・・。

 

0754 まったく出鱈目な一日だ。まるでB級コメディー映画のワンシーンみたいじゃないか、と思った。確かにあの詐欺師達には、真剣な中に(いや真剣であればこそ)どこかコミカルなところがあった。
 オカマのルイにしてもそうだ。あいつは一体何者なんだろう。あの場面で、彼がオカマという役作りをする必然性がどこにあるんだろう。彼らはオカマという存在に注意を向けさせることで、詐欺の手口を気付かれないようにしていたのかもしれない。そうだとしたら、その目くらましは一応の効果はあったと言えるだろう。僕がオカマの存在に翻弄されている間に、いつの間にかカジノのプレーヤー役に仕立て上げられていたのだから。
 でも、実際のところ話はそんなに複雑ではなく、ルイが本物のオカマだったということも考えられる。いずれにせよ今となっては確かめようもないのだが。

 コミカルで馬鹿げてはいたけど、彼らは本気だった。結局僕は1ドルも取られることはなかったが、ひとつ間違えば1万ドルを払わされる羽目になっていたかもしれない。旅を続けることができなくなっていたかもしれない。そう考えると、また冷たい汗が出た。
 最後にはうまく逃げ出せたけれど、僕の行動は決して上出来と言えるものじゃなかった。普通の旅行者だったら、オカマが登場して賭けを始めた段階で、あの場を離れるだろう。いや、そもそも最初から怪しげなフィリピン人なんかについて行かないだろう。

《自分の身は自分で守らなくちゃいけない》
 この基本中の基本ともいうべき旅の原則を、この日僕は身をもって叩き込まれることになった。赤ん坊が転びながら歩き方を覚えていくように、旅人としての僕は、つまずきながらもようやく最初の一歩を踏み出そうとしている段階なのだ。
 そこまで考えると、急に眠気を感じた。激しい疲労感が後頭部を鈍く締め上げ、それ以上何も考えることができなくなった。

 

 

「警察です」と男が言った

0634 その夜の夢の中にもブルネイのオカマは出てきた。
 オカマは普段の柔らかな物腰とは反対に、走らせると異様に速いのだった。オリンピック選手みたいに高く腿を上げて、ポマードでセットした髪を振り乱して、オカマは猛ダッシュで追いかけてきた。僕はビルの階段を必死に駆け上がり、自分の部屋に入って鍵を閉めた。それでもオカマは諦めずにドアを乱暴に叩き続けた。
「ヘイ!ジャパニーズ・ボーイ!掛け金は6万ドルよ!キャッシュで払えないのなら、体で払ってもらうわ!」
 甲高い声で、そう叫びながら。

 ドアがノックされる音で、僕はその嫌な夢から覚めた。
 最初、ノックの音は夢の続きだと思っていたのだが、それは現実に僕の部屋のドアが叩かれている音だった。腕時計を見ると、1時を指している。まさか本当にあいつらがやってきたんじゃ・・・。
 僕はこのまま居留守を決め込もうかと思ったけれど、ノックがあまりにしつこいので、諦めて立ち上がった。
「誰?」と僕はドア越しに聞いた。フィリピン人じゃないことを祈って。

「警察です」とドアの向こうの男が英語で言った。
 警察? どうして警察が午前1時に僕の部屋のドアをノックしているんだ。夢から覚めきっていない頭を使って、僕はあらゆる可能性を考えてみたが、結局答えは出なかった。香港ではいろいろとわけのわからないことが起こりすぎる。

「ドアを開けてくれませんか?」
 警察だと名乗った男が、さっきよりも大きな声で言った。仕方なく僕は鍵を開け、ドアを小さく開いた。
 そこには制服ではなく、グレーのコートを着た男が二人、並んで立っていた。一人は顔色の悪い背の低い中年男で、もう一人はがっちりとした若い男だった。中年の方が、コートの内ポケットから黒い手帳のようなものを出して、僕の目の前に突き出した。たぶん警察手帳なのだろう。

「パスポートを見せてもらえますか」
 中年の男は無表情に言った。
「パスポートはビザを取るために旅行代理店に預けているんです。コピーでいいですか?」
 それでいい、と男が言ったので、僕はパスポートのコピーを見せた。男は黙ってそれを受け取って、顔写真と僕の顔とを二度三度見比べてから返した。
「旅行者ですか?」
 男は聞きながらざっと僕の部屋を眺め、僕が「イエス」と答えると、何も言わずに部屋を出て行った。こういったことには慣れているんだという身のこなしだった。

 僕がドアを閉めると、すぐに隣のドアがノックされる音が聞こえてきた。たぶん彼らは、この『重慶大厦』に泊まっている密輸業者や不法滞在者を取り締まるために、頻繁にこういう「手入れ」を行っているのだろう。なにしろ、怪しい人間には事欠かないのが、この『重慶大厦』なのだ。
 警察にあのフィリピン人達のことを言うべきだったんだろうか。僕は閉めたドアノブを握ったままの姿勢で、しばらく考えてみた。いや、そんなこと言ったところで、たぶんどうにもならないだろう。僕は何か実害に遭ったわけではないから、警察が真剣に動くとも思えない。それに誰かに何かを説明するには、僕はあまりにも疲れていた。

 

0597 彼らが出ていった後も、すぐには眠ることが出来なくて、窓の外をぼんやりと眺めていた。夢の続きのような、あるいは今日一日ずっと夢の中にいたような、変な感覚だった。僕自身が、このビルの非現実的な空気に覆われてしまっているようだった。

 それにしても、俺はこんなところで何をやっているんだろう・・・。
 長い旅になるはずだった。3ヶ月か、半年か、1年か、それはわからなかったが、いずれにしろ一度も海外旅行をしたことのない僕にとっては、長旅に違いなかった。その最初の国の最初の宿で、僕は最初の疲労と最初の孤独に襲われていた。

 窓の外には、真夜中だというのに香港名物の派手なネオンサインが眩しく光っていた。漢字やアルファベットやハングル文字やラコステの鰐が、赤や緑の光を夜の中に撒き散らしてた。細かい霧のような雨はまだ降り続いていて、アスファルトの表面にできた薄い水たまりに、ネオンの光が歪んで反射していた。
 眠らない都市、香港4日目の夜は、眠れないまま更けていった。