af04-6492 小学校を後にしてから更に坂道を下ったところに、いくつかの集落があった。男達が乾いた畑を鍬で耕し、種蒔きの準備をしていた。このようなところに外国人がうろうろしているのは稀なことらしく、男達は物珍しそうな視線を僕に浴びせてきたが、概ねそれは好意的なものだった。僕がカメラを持っていることを知ると、「俺の写真も撮ってくれよ」とポーズをつける陽気なおっさんも多かった。

 しかし、村人全員が外国人旅行者を歓迎しているわけではなかった。僕が山の斜面にいる羊の群れに近づこうとしたときに、そのアクシデントは起こった。近くの民家から一人の若者が飛び出してきて、僕の前に立ち塞がったのだ。彼は手に持っていた猟銃を構えると、銃口を僕の方に向けた。僕は驚いて立ち止まった。オモチャなどではなく、本物の銃だというのは一目でわかった。

 若者は何かに腹を立てているようだったが、その理由はよくわからなかった。僕は敵意がないことを表すために、両手を肩の高さに上げた。笑顔を作ろうと思ったけれど、上手く笑えなかった。男は銃口を僕の鼻先二十センチにまで近づけた。銃身は長くて黒々としている。心臓が大きく波打つのが聞こえた。

「お前、ここでなにしている?」
 男は僕を強く睨みながら言った。もちろん現地語なんて理解できないのだが、雰囲気からそのように言っていることはわかった。
「何もしていない。あそこの羊を写真に撮ろうとしていただけだ。僕は日本人で、ただの旅行者だ。カブールからマザーリシャリフへ向かう途中なんだ」
 僕は英語に身振り手振りを交えて、懸命に説明した。男の格好や風貌からすると、強盗とかテロリストの類ではないようだ。たぶん突然の侵入者に驚いて、銃を持ち出しただけなのだろう。でもここで相手を刺激すれば、勢いで引き金を引かないとも限らない。とにかく冷静に振る舞うことが必要だった。

 僕はふと思い立って、デジタルカメラの液晶画面を彼に見せてみることにした。さっきまで撮っていた人々の写真を見せれば、彼の緊張も少しはほぐれるのではないかと思ったのだ。

 その作戦は見事に的中した。彼は小さな液晶の中に映し出された近所の人の顔を見て、「これは俺の友達のムハンマドだよ!」と顔をほころばせた。してやったり、である。

 そうなると後は早かった。「俺の写真も撮ってくれよ」という彼の求めに応じて、何回かシャッターを切る。撮った写真をすぐに見せてあげる。彼は嬉しそうに笑う。丘の上にいる友達を大声で呼んで自慢する。「今度はみんなで肩を組むところを撮ってくれよ」とせがまれる。みんなニコニコである。さっきまで怖い顔で銃を向けていたことなんて、もうすっかり忘れているようだった。

 
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カブールの市場ではごく普通に銃が売り買いされている

 アフガニスタンは銃を肩に提げた男が、ごく普通に町中を歩いている国である。彼らは「自分の身は自分で守る」ということを長い間実践してきた人々であり、またそうしなければ生き延びられなかったという不幸な歴史を持つ人々でもあった。

 アフガン人がよそ者に対して抱く強い警戒心は、タフな土地で生き抜くために必要不可欠なものなのだろう。あの若者が銃を向けて威嚇したのも、番犬が見知らぬ人間に吠えかかるような反射的な行動だったのだと思う。本気で撃つつもりは、たぶん最初からなかった。

 しかしたとえそうだとしても、鼻先に銃口を突きつけられるような体験は、もう懲り懲りだった。今回は運良くデジカメに助けられたけれど、次もまた上手く行くとは限らないのだから。

 

 

ハンドルを握ると性格が豹変する人々

af04-5036 道路を半日封鎖していたゲートは、予定通り午後五時に開いたのだが、それからゲートを抜けるまでが大変だった。今まで何時間も和気あいあいと待機していたのが嘘のように、全車が一斉に狭いゲートに殺到し始めたのだ。そこには譲り合いの精神や秩序というものは全く見られなかった。どの車もちょっとした隙間があると、クラクションを鳴らしてそこに割り込もうとする。軽い衝突もあちこちで起こっているのだが、それを気にする人間は一人もいなかった。

  ゲートを抜けてからも、カーチェイスがしばらく続いた。アフガン人のドライバーは前方に少しでも遅い車がいたら抜かずにはいられない性格であるらしく、九十九折りの急な山道でもお構いなしにオーバーテイクを仕掛けていくのである。日本人にもハンドルを握ると性格が豹変する人がいるけど、アフガン人の場合はそれが極端なのだ。

 やがて日が落ち、辺りが真っ暗になっても、運転手は一〇〇キロを超える猛スピードで車を走らせた。今までの遅れを少しでも取り戻そうとしているのかもしれないが、既に十時間もストップしていたのだから、いまさら十分や二十分早く着いたところで大差ないじゃないか、と思わないでもなかった。

 

af04-6494 それでも結局、その日のうちにマザーリシャリフに着くことはできなかった。夜の九時を回ったところで僕らは食堂に入り、 そこで一夜を明かすことになったのである。食堂で働いている従業員が言うには「タリバンの残党に狙撃されることがあるから、夜は走らない方がいい」ということだった。それが本当なのかどうかは、もちろん確かめようがないのだが(口調からすると、それほどシリアスには思えなかった)、いずれにしても我々乗客は運転手の言うことに黙って従うほかなかった。

 食堂は一〇〇人ぐらい入れそうなほど広かったが、客は僕らを含めても十人ほどしかいなかった。僕らは遅めの夕食を取り、しばらく食堂のテレビを眺め(インドポップスのプロモーションビデオが繰り返し流れていた)、絨毯の上にごろんと横になって眠った。アフガニスタンの食堂は、食事代さえ払えば自由に仮眠を取っていいことになっているのである。

 やたらと長い一日だった。くたくたに疲れた一日だった。インドポップスの陽気で耳障りなメロディーでさえ、僕の睡眠を妨げる障害にはならなかった。

 

 

 

宿探しは苦労の連続

af04-6674  翌日は夜明け前に食堂を出発した。再び一〇〇キロを超えるスピードでひた走り、二時間ほどでマザーリシャリフに到着した。町にはまだ人通りは少なく、商店のシャッターも閉じたままだった。僕は町の中心地でハイエースを降り、バックパックを担いで、「ホテル」という看板を上げているビルを探して歩き回った。

 アフガニスタンでの宿探しは、いつも苦労の連続だった。この国には旅行者という存在が皆無に近いから、ホテルの数自体がとても少ないのである。部屋代もインドやパキスタンといった近隣諸国に比べると、二倍から三倍は高かった。

  マザーリシャリフでも、最初に回った三軒の安宿はどれも満室だった。四軒目にようやく空き部屋のある宿が見つかったのだが、案内された部屋はお粗末だった。床に敷かれた絨毯はドロドロに汚れているし、前の泊まり客が残していったゴミや煙草の吸い殻などが部屋中に散乱しているというひどい有様だった。

  窓はやたら大きくて日当たりは良好なのだが、カーテンがなかった。それが意味するのは、夏の日差しが容赦なく差し込み、室内が温室みたいに暑くなるということだった。天井にはファンがぶら下がっているのだが、壁のスイッチは土台ごともぎ取られていて、中の配線コードがペロっと剥き出しになっていた。従業員の男は「ファンを回したいときは、このコードをショートさせればいい」と使い方を説明してくれた。確かに「バチッ!」という火花と共に、ファンが勢いよく回り始めたのだが、どうもその発想自体が間違っているような気がしてならなかった。

 

af04-6662 汚れてもそのままに、壊れたものもそのままに、という 「そのまま思想」が、この宿の基本的な方針だった。一番困ったのはトイレの鍵が壊れたままになっていることだった。一応扉の内側に鍵は付いているのだが、 外で待つ人間が力任せに引っ張るものだから(アフガン人は力の加減ってものを知らない人が多いのだ)、すぐに壊れて使い物にならなくなってしまうのであ る。

 トイレの鍵が壊れたままになっているのは、この宿に限ったことではなく、アフガニスタン全土で見られる現象だった。ついでに言うと、 カブールで泊まった中級ホテルのトイレはこの国には珍しい洋式だったのだが、便座の上には靴底の模様がくっきりと残っていた。前に使った人がかなり無理な体勢で用を足していたのは間違いなさそうだった。

 このように文句を言い出せばキリがないような宿だったが、結局僕はここに一晩泊まることにした。アフガニスタンで清潔かつリーズナブルな値段の宿を見つけるのは、インドで混んでいない鉄道窓口を見つけるのと同じぐらい困難だということが、僕にはよくわかっていたのである。