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下半身丸出しの幼児には、トイレの有無は関係ない
ネパールの山村を旅していて、一番困ったのがトイレがないということだった。電気が使えないこともシャワーが浴びられないことも最初からわかっていたのだが、泊まった村にトイレというものがひとつも存在しないという状況が何日も続くなんてことは予想していなかったのだ。
以前、モンゴルの草原で遊牧民のテントに泊まらせてもらったときにもトイレがないという事態に直面したのだけど、草を求めて移動を繰り返す遊牧民がトイレを持たないのは当たり前のことだったし、見渡す限り人の姿なんて無いのだから、野外で用を足すのも特に不都合には感じなかった。でも人っ子一人いないモンゴルの草原とは違って、ネパールの村は数十戸の家が寄り集まって集落を成しているわけで、そのようなところにトイレがひとつも無いというのは、僕にとっては驚きだった。
ガイドのサンタは「トイレに行きたくなったら、その辺でしてください」と僕に言った。村の人達もその辺で適当にやっているから、それに習えばいいということなのだ。しかし問題は「その辺というのは、どの辺を指しているのか?」ということである。もちろん村人達はあたり構わずしゃがみ込んで用を足しているわけではなく、「この辺でやっておけばいい」というおおよその場所を決めているのだが、初めて訪れる旅人にはそれが「どの辺」なのか全くわからないのである。
仕方がないから、便意を催すたびに周囲を窺いながら、「この辺だったら誰も来ないな」というポイントを探してせかせかと歩き回ることになる。しかし、ズボンを下ろしてしゃがみ込んでいる間も、「ひょっとしたら誰かが通りかかるんじゃないか?」と気になってしょうがないから、どうにも落ち着かない。これを毎日繰り返すのは、正直言ってとても気が重かった。
ネパールの山村には「トイレのある村」と「トイレのない村」があるのだが、トイレの有無がその村の豊かさを示すひとつの指標になっていた。見るからに貧しい村にはひとつのトイレもなく、豊かになるほどトイレの普及率が上がるという傾向がはっきりと見られた。
ただし「トイレがないのは経済的余裕がないからだ」とは言い切れない部分もあった。例えばモジュワ村にはトイレがひとつもないのだが、この村には今年になって新しく水力発電所ができたという。電気が使える村がまだまだ少ないネパールの山村にあっては、これはかなり異例のことである。水力発電ではなく太陽光発電なら、比較的安上がりだということもあって広く普及している。しかし太陽光発電は電力を天気に頼っているから不安定だし(雨季にはほとんど使えない)、屋根の上に取り付けた発電パネル一枚が生み出す電力は限られたもので、裸電球を三つ四つ使うのがせいぜいだという弱点もある。テレビなどの電化製品を使うためには水力発電がベターなのだ。
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これが水力発電所の全貌。上流から引いてきた水を使って、発電機を回す。
もっともモジュワ村に作られた水力発電所にしても、発電所というよりは少し大がかりな水車小屋といった方がいいぐらいのチープな代物である。外観は納屋みたいなトタン葺きの小屋で、その中に小型の発電機が一台備え付けられているだけなのだ。出力も四キロワットとかなり小さいけれど、今のところモジュワ村でテレビを持っているのは三戸だけだから、この出力でもまかなえているという。
「これは村人がお金を出し合って作ったんだ。政府や外国からの援助を待っていたんじゃ、いつまで経っても電気なんて来ないからね」と発電所の建設及び管理を担当している男は言った。
巨大な発電用ダムを巨額のお金をかけて造り、それで地域全ての電力をまかなおうとするようなプロジェクトは、たとえそれが効率的ではあってもなかなか前には進まないのがネパールという国なのだ。それだったら自分たちで作ってしまった方が早い、というわけだ。
「費用はどれぐらいかかったんですか?」と僕は訊ねてみた。
「そうだなぁ、発電機だけじゃなく、貯水池もいるし送電線も必要だからね。全部で約二十五万ルピー(三十七万円)ぐらいかかったかな。ああ、もちろん安い金額じゃないね。でもこの村には兵隊としてインドに出稼ぎに行っている若者がいたり、カトマンズでトレッキング・ガイドをしている人からの送金があったりするから、集められない額じゃないんだよ」
「でも、この村にはトイレがないですよね?」
「トイレ?」と男は不思議そうな顔をして聞き返した。
「発電所を作るお金があるんだったら、トイレぐらい作れるんじゃないですか?」
「まぁそれもそうだな。確かにトイレを作るのにお金はかからないよ。穴を掘って囲いを作ればいいだけだから。でもトイレなんて誰も必要だとは思っていないんだよ。今までだってトイレが無くて不便だと思ったことはないしね。学校の先生にも『健康のためにトイレを作りましょう』とか何とかって言われたことがあったけど、いらないもんはいらないんだ」
他の村でも同じような質問をしてみたけれど、やはり多くの人が「トイレなんていらないよ」と答えた。テレビは今まで知らなかった外の世界を見せてくれるし、電灯があれば夜に仕事をしたり本を読んだりすることができる。しかしトイレにはそういうわかりやすい利点が見えにくいのではないか、というのがガイドのサンタの意見である。そう言われてみればそうかもしれない。
僕ら日本人にとってトイレは当たり前すぎるほど当たり前の存在で、それがない生活というのは不便この上ないのだけど、ネパール人にとってはそうではない。何を便利と感じるのかは、その土地によって違う。それは習慣の違いであり、価値観の違いなのだ。
僕はこの土地で暮らせない
三年前に初めてネパールを歩いたときは一週間の日程だったが、今回の旅ではおよそ四週間かけてじっくり歩き回った。そこを訪れてすぐに立ち去るだけではなく、もう少し深い部分までその土地に自分を馴染ませたかったのだ。ネパール人の日常に溶け込むことによって、今までと違う角度から写真が撮れるかもしれない。そういう期待もあった。
四週間の旅の中で、ネパールの農村の等身大の暮らしに触れることはできた。村の人達と一緒に食事をし、家畜小屋の上の離れで寝起きし、共に結婚式を祝った。でも、その中に溶け込むことは最後までできなかった。僕ら日本人とは全く違うシンプルで素朴な暮らしの中に自分の身を置くことは心地良かったけれど、電気も水道もトイレもない不便な生活に対する拒絶感もまた僕の中で膨らんでいったのだった。
狭くてもいいから、雨風を防いでくれる部屋に泊まりたい。少々固くてもいいから、普通のベッドで眠りたい。冷たい水でもいいから、とにかくシャワーを浴びたい。そして汚くてもいいから、トイレを使って用を足したい。日を追うごとに、そんな欲求ばかりが募っていった。バングラデシュで泊まった一泊七十円の代用監獄みたいな安宿でさえ懐かしかった。
ネパールの農村の暮らしに近づけば近づくほど、農村のリアルな現実に適応できずに疲労していく自分の姿が露わになっていくようだった。旅をすることはできても、この土地で暮らすことはできないな、と僕は思った。
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