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バラナシという劇場
バラナシは特別な街だ。インド人にとっても、インドを訪れる外国人にとっても。
バラナシは二千もの寺院と数多くの沐浴場(ガート)が所狭しと並ぶヒンドゥー教最大の聖地であり、いくつもの火葬場を持つ「死者のための街」でもある。バラナシで沐浴すれば、現世で犯した罪は洗い清められ、ここで死んで遺灰をガンガーに流されれば、終わりなき輪廻の苦しみから解脱できる。ヒンドゥー教徒たちはそう信じているのだ。
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聖地バラナシに昇る朝日を浴びながらヨガをする二人。聖なる河ガンガーから昇る朝日は、特別に神聖なものだと信じられている。 |
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今回の旅では、バラナシはパスするつもりだった。もうすでに二度訪れていたから、改めて見るべきものは少ないと思ったからだ。
それなのにバラナシに泊まることになったのは、バラナシの西60キロのところにあるミルザプールという町でどうしても宿が見つからなかったからだ。ホテルはいくつもあるのだが、どこも外国人を泊めてくれなかったのだ。外国人が滅多に来ない田舎町では、時々起こる事態だった。外国人を泊めると煩雑な手続き(例のC-Formだ)が必要になるし、地元警察にも届けなければいけない。だからどのホテルも面倒くさがって「満室だからダメ」とか何とか適当に嘘をついて断ってしまうのだ。
もちろんホテル側が意図的に嫌がらせしているわけではないのだが、立て続けに十軒も「満室だ」と断られて、1時間以上も町をさまよっていると、だんだん腹が立ってくるし、町全体を憎むようにもなってくる。意味もなく小突き回されているような気持ちになってしまうのだ。
そんな苛立った気分も、バラナシの街を散歩したらすぐに吹き飛んでしまった。やっぱりここに来たのは正解だった、なんて思えたのは、バラナシの朝があまりにも素晴らしかったからだ。
それは「美しい混沌」とでも言うべきものだった。朝日に向かってヨガを行う若者。ガンガーの水を頭から被る女性。怪しげな存在感を放つ白塗りのサドゥー。外国人旅行者をわんさか乗せた観光ボート。川辺で洗った洗濯物を乾かす少年。マハラジャの時代に建てられた立派な建物。遺体が次々に焼かれていく火葬場。
様々な人々がバラナシという劇場に立って、それぞれの役柄を演じていた。それが喜劇か悲劇かはよくわからないのだけど。
スナップショットに向いた街
バラナシでの撮影は、僕のいつものスタイルとはまったく違うものになった。普段はまずコミュニケーションを取るところから始める。言葉が通じなくてもいいから、アイコンタクトや身振りなどで「あなたを撮りたいんだ」という意思を伝える。そこで良い反応が返ってくればレンズを向けるし、そうでなければ撮らない。
それがバラナシでは、相手に気付かれないうちに撮るスナップショットが基本になった。人を主役にして撮るのではなく、バラナシという舞台に役者を配置した1シーンを撮るようなイメージだ。人々だけでなく、背景も、光も、空気感も、全てが印象的なバラナシだからこそ成立する撮り方だった。
外国人旅行者がありふれているのも、この街がスナップショットに向いている理由のひとつだ。バラナシではガイジンの存在は特別なものではないし、わざわざ注目したりしない。10メートル歩くたびに「ボート乗るか?」と声を掛けてくる面倒くさい船頭たちを除けば、この街の人々は外国人に無関心なのだ。子供たちがわーわー後をついてくることもなければ、おっさんたちから「お前はここへ何しに来た」と詰問されることもない。外国人が珍しい田舎町ばかり好んで旅してきた僕にとって、その反応はとても新鮮だった。
しかし中にはカメラにすごく敏感な人もいて、それがヒンドゥー教の行者「サドゥー」だった。サドゥーは沐浴場の一角で哲学的な思索にふけっているような顔をしてじっと座っているのだが、外国人にカメラを向けられると、待ってましたとばかりに「カネをよこせよ」と言ってくるのだった。「モデルになってやる代わりに撮影料をくれ」というわけだ。彼らは自分が外国人からどう見られているのか、ちゃんとわかっているのである。
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いかにもサドゥーっぽい格好をした男が、実はカネ目当てだったりもする |
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壁に描かれた神様ガネーシュによく似た格好のビジネス・サドゥー |
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家族も捨て、住む家も捨て、終わりなき放浪の旅を続けているのが、サドゥー本来の姿だ。あらゆるものへの執着を断ち、瞑想と苦行と禁欲を実践しながら生きている。しかしバラナシに集まっているサドゥーたちの多くは、外国人から小銭をせびることで生計を立てている「ビジネス・サドゥー」だった。彼らはサドゥー本来の無頼の生き方とは正反対の道を行っている。「聖なる外見」とは裏腹の「俗なる内面」を持っているのだ。
しかしそういう怪しげな連中さえも受け入れることによって、バラナシという劇場がさらに厚みを増しているのも事実だった。聖なるものの中に宿る俗性、あるいは俗なるものの中に宿る聖性。善悪と美醜。すべてのものを併せ持つこの舞台の上で、今日もまた役者たちが悲喜劇を演じている。
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ガンガーは土足厳禁
相手に気付かれないうちにスナップ的に撮るのが有効なバラナシであっても、何でもかんでも撮っていいわけではなく、一定の節度を求められる場面もあった。たとえば火葬場で燃えている遺体を撮るのは厳しく禁止されているし、寺院などで神様に対して不敬な行動を取ると、その場から追い出されることにもなりかねない。
沐浴場で行われていた宗教儀式を撮影したときのことだ。川に向かって祈りを捧げる人々を正面から捉えようと、僕はサンダルを脱いで裸足でガンガーに入った。すると儀式を取り仕切っている男から、「何しているんだ!」という大声が飛んできた。
その声は僕に対して発せられたものではなかった。すぐ近くにいた欧米人の男が、僕と同じように川に入っていたのだが、彼が履いていた靴を脱がなかったのが問題だったのだ。インド人にとってガンガーは聖なる川。しかもバラナシを流れる水は世界一清らかだと信じられている。その川に土足で入るとは何ごとだ、というわけだ。
注意を受けた欧米人の男は慌てて川から上がり、申し訳なさそうにその場を離れていった。そのとばっちりを受ける格好で、僕も睨まれそうになったので、すぐに足を上げて「俺は裸足だよ」とアピールした。すると男は軽く手を上げて「あぁ、君はそのままでいいよ」と言ってくれたのだった。
「写真を撮るのは構わない。問題は靴なんだ」
と彼は言った。そう、問題は靴なのだ。
裸足は「浄」で、靴は「不浄」という感覚は、インド人に広く共有されている。それは靴の裏と足の裏のどちらが実際に清潔なのかという問題ではない。
聖なる存在の前で裸足になり、清らかな体と清らかな心で神様に向き合う準備ができているか。その心構えを問われているのだ。
実際にはガンガーの水は大腸菌だらけだし、牛の糞やら人の小便やらが大量に流れ込んだ汚い水だ。それでもこの水は清らかなものであり、土足で犯すべきものではないという前提を受け入れ、尊重しなければいけない。この街を訪れるすべての人に問われているのは、その姿勢なのである。
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