写真家 三井昌志「たびそら」 アジア旅行記 フォトギャラリー 通信販売 写真家・三井昌志プロフィール ブログ

  たびそら > 旅行記 > インド編(2015)


混沌に満ちたワンダーランド


 バラナシはそれほど広くなく、歩いて回るにはちょうどいいスケールの街だった。僕はこの街をゆっくりと歩きながら、心を動かされたものに対して素直にシャッターを切った。決して急ぐ必要はなかった。マイペースでゆったりと歩いていれば、必ず何か面白いものに出会えたからだ。

 バラナシは思わず足を止めたくなるような小さな驚きに満ちていた。壁に描かれた絵や小さな祠などの宗教的イコンにも心惹かれたし、ボロボロの古い自転車や、道ばたで昼寝をしている老人の足の裏でさえもとても魅力的だった。何気ない日常の中に隠された素晴らしい構図を自分の手で発見するのが、楽しくて仕方なかった。

















 最初にバラナシを訪れた2001年には、街歩きをのんびり楽しむ余裕なんてなかった。僕はこの街に圧倒され、飲み込まれそうになっていた。すさまじい数の巡礼者が沐浴を行う姿や、屋外の火葬場で当たり前のように遺体が焼かれる光景に、ただ驚かされるばかりだった。インド的な日常と、自分が慣れ親しんでいた日常とのギャップの大きさにたじろぎ、自分をかたちづくる価値観が根底から揺さぶられるのを感じていた。

 今回はそんなことはなかった。バラナシは相変わらず混沌に満ちたワンダーランドではあったけれど、その混沌に正面から向き合い、自分なりのやり方で咀嚼できるようになっていたのだ。







 僕の中で何が変わったのだろう?
 ひとことで言えば、余裕が生まれたのだと思う。この14年のあいだ、僕は様々な国を旅し、異なる価値観に触れてきた。その旅の経験が、何が起きても慌てない精神的な余裕を身につけさせたのだ。

 インド的なカオスに飲み込まれることなく、それをゆったりと受け止めつつ、自分が驚きを感じる場面に対して素直に反応する。そのようなしなやかな好奇心こそが、写真を撮るときにもっとも大切なことなのだ。








眺望は最高、料理は最低の宿

 バラナシで泊まった宿「シャンティ・ゲストハウス」は、迷路のように入りくんだ路地の奥にあった。入り口の隣には大量の生ゴミが捨ててあって、野良牛がそれをムシャムシャと漁っていた。いかにもバラナシらしい古くて陰気な建物だった。何十年も前からほとんど姿を変えずに営業しているのだろう。

 案内されたのは特に清潔でもない、殺風景な部屋だった。電灯は暗いし、天井のファンは「最強」と「オフ」の二段階しかない。それでもダブルルームが300ルピーとお手頃で、とても静かなのは良かった。泊まり客のほとんどは欧米人バックパッカーで、韓国人や日本人もちらほら来るという。

古くて殺風景な部屋が300ルピーだった

 屋上はレストランになっていて、そこからバラナシの旧市街が一望できた。眺めの良さに惹かれて、日がな一日ここに座ってぼんやりとチャイを飲んだり、ガンジャを吸ったりしてメロウに過ごしている旅人も多かった。宿代も安いし、話し相手にも事欠かない。沈没旅行者にはもってこいの安宿なのだ。

屋上のレストランからはバラナシの旧市街が一望できる

 しかしこのレストランには問題があった。眺望は抜群なのだが、出てくる料理がひどかったのだ。マズいし、高いし、遅いという三重苦。昼食にチキンフライドライスを頼んだら、たっぷり1時間も待たされた挙げ句、ご飯がべちゃべちゃのミックスベジタブル入りケチャップご飯が出てきて、それが90ルピーもしたのである。

 それでも1時間も待たされることにカリカリしているのは僕ぐらいのもので、他の旅人はギターを弾いたり、トランプをしたり、ビールを飲んだりしながらのんびりと待っていた。時間なんていくらでもあるじゃないか。インドではこれぐらい待たされるのなんて当たり前なんだよ。そんな構えなのだ。

 確かにバックパッカースタイルの旅をしていれば、1時間や2時間待たされることなんて日常茶飯事だ。公共バスや鉄道は遅れるのが当たり前だし、外国人が集うカフェというのはなぜか(人手が足りないからだと思うのだが)調理にひどく時間がかかるのだ。そうやってインドを何ヶ月か旅していれば、「これはインド時間なのだ」と諦めるようになる。


駅で列車の到着を待つ家族。何時間待たされても文句は言わない。


 しかし僕は相変わらず待たされることが我慢できない。それは長年バイクを使って自分勝手な旅を続けてきたからだと思う。バイクを使えば公共交通機関の遅延に煩わされることもないし、地元向けの安食堂に行けば料理はファストフード店よりも早く出てくるのだ。どうやら僕はマイペースな旅を続けたせいで、バックパッカー失格人間になってしまったようだ。



愛とセックスと善きカルマ

 夜明け直後のバラナシは言葉を失うほど美しく、いくら歩いても歩き足りないほどフォトジェニックなシーンに満ちている。しかし日が高く昇るにつれて、バラナシにかけられていた幻想的な魔法は徐々に効力を失っていく。そして耐えがたいほどの暑さになるお昼過ぎには人影もまばらになり、ガートで沐浴する人もほとんどいなくなってしまう。バラナシはあくまでも朝の街であり、昼時にうろうろしているのはエサを求めて歩く野良牛か、電柱をよじ登るサルぐらいなのである。


バラナシにいる猿は人に慣れている

細い路地を野良牛の巨体がふさぐ。これじゃ通れませんよ。


 僕も昼前には宿に引き上げ、しばらく昼寝をして体力を回復させてから、夕方になると再び街を歩くことにしていた。夕方から夜にかけて、バラナシは再び幻想の衣をまとい始めるのだ。


マニクルニカー・ガートで毎晩行われている祈祷の儀式。若い男たちが炎を振り回して祈る。




 日暮れ間近の旧市街をぶらついていたときに、流暢な日本語を話す土産物屋が話しかけてきたことがあった。
「こんにちは。私の名前はブラッド・ピットです。ね、似てるでしょ?」
 お約束のつかみなのだろう。言われてみれば確かに顔立ちは「12モンキーズ」に出ていた頃のブラッド・ピットに似ている。無精髭もなかなか似合っていた。
「うん、似てるね」
 僕が頷くと、彼はしてやったりという表情を浮かべて、さらにたたみかけるような早口で喋り続けた。
「俺は日本人の女が好きなんだ。日本人の女はサイコーね。オーストラリア人、ロシア人、イタリア人、みんなやったけど、日本人が一番よかった。やっぱり同じアジア人だからかな。ココロが一番近いのが日本人だった。日本人の女、紹介してくれないか?」

 観光地によくいるチャラい客引きだった。顔もハンサムだし話術も巧みなので、女性客を引っかけるのは得意なのだろう。暇さえあれば外国人旅行者に声を駆けまわって、うまく行けばセックスする。そういうジゴロみたいな生活を送っているようだった。

「日本人のカノジョがいたこともあるよ。でも長くは続かなかった。日本人は時間にすっごくうるさいでしょ。10分おきに電話かけてきて、『今どこにいるの? 早く来なさい』って言うから困るんだよ。インド人は1時間ぐらい遅れても気にしない。日本人は1分遅れただけで文句を言う。タイム・イズ・マネーでしょ。日本人の人生はまるで機械みたいだ。時計のように時間に正確で、きっちりしている。俺にはそれが疲れるんだ」





 ブラッド・ピット君が面白いのは、無類の女好きのくせに、結婚観は意外なほど保守的なことだった。これだけ奔放な性生活を送っているのだから、当然、恋愛結婚をするつもりなのかと思いきや、アレンジ婚がいいと言うのだ。

「お兄さんもアレンジ婚だったから、俺もそうしたい。お兄さんは結婚式の日まで奥さんの顔を知らなかったんだ。それでもオッケーだった。俺も結婚相手の顔はどうでもいいよ。むしろ美人じゃない方がいいね。だって美人はビッチばかりだから。日本語ではなんて言うんだっけ? ヤリマン?」
「よくそんな言葉知ってるね」
 彼のようにプラクティカルに日本語を覚えた人の特徴は、語彙が下ネタ方面に偏っていることだ。語学学校ではまず教えてくれない言葉を、実によく知っている。たぶん日本人旅行者が面白がって教えたのだろう。
「セックスするときは電気を消すんだから、顔なんて関係ないでしょ。胸とかアソコとかもみんな同じだよ。俺が奥さんに求めるのは、両親の面倒を見てくれること。それが一番大事だよ。もちろん外国人じゃダメだ。インド人で同じカーストの女じゃないとダメだね。処女? そんなの当たり前じゃないか。俺は27歳だけど、今の稼ぎで奥さんと子供を養うことは出来ないから、まだ結婚しない。あと5年ぐらいは独身だろうね。もし結婚したら絶対に浮気はしないよ。離婚もしない。一生、その人を愛し続ける。それが本当のラブってものだろう?」

 自分のこれまでの行状を棚に上げて、結婚相手に処女と貞節を求めているのがおかしかった。性に対してオープンな欧米人や日本人との遊びを楽しんではいるが、心の底では彼女たちを馬鹿にしているのだろう。どうせ一夜限りの関係なんだし、そこには愛情はないと彼は言い切る。「愛」とは一時的に燃え上がってすぐに燃え尽きてしまうものではなく、じっくりと長く続くものだというのだ。

「愛は雨と一緒だよ。激しく降る雨は、止むのも早いでしょ。穏やかに降る雨は、ずっと降り続いている」
 なかなかいいことを言う。名言としてメモっておきたいぐらいだ。しかしその言葉と実際の行動のあいだに明らかな矛盾がある。そこがまた面白かった。彼は「外国人女性を釣り上げるフィッシングを楽しむチャラ男」と、「将来を真面目に考える保守的なインド青年」という相反するキャラクターのあいだを行き来する器用さを持っているのだ。





「バラナシに建つ立派な建物は、マハラジャが建てた『死ぬのを待つための家』なんだ。死ぬための家を買うなんてインドだけでしょ。バラナシで火葬して、その灰をガンガーに流したら、ニルバーナ(涅槃)に行けるとみんな信じている。だからマハラジャはここに家を建てたんだ。自分がニルバーナに行くためにね。でもそんなのはデタラメだよ。生きている間たくさんの人を殺した悪いマハラジャが、ガンガーに流されたからってニルバーナに行けるはずがないじゃないか。俺はカルマの存在を信じている。生前善い行いをしたら、来世に善いカルマに生まれ変わるし、悪いことをしたら、悪いカルマに生まれ変わるんだ。だから善いことをしなきゃいけない」
「外国人の女とやりまくるのは、悪いカルマを積むことにはならないの?」
「それは違うさ」と彼は大きく首を振った。「セックスと愛は違う。セックスは楽しむためにやるものだ。ただやって、それでさよならさ。あとには何も残らない。愛は、もっと重くて、もっと大切なものなんだよ」

 わかるような、わからないような理屈だった。たぶん彼自身にも自分の抱えている矛盾の正体がまだよくわかっていないのだろう。彼は旺盛な性欲と好奇心を持ちながら、それを押さえつける保守的な価値観の中で生きようとしている。かなりアクロバティックな試みだと思うのだが、彼自身は別にそうでもなさそうだった。「結婚したらすべてが変わる」とシンプルに思い込んでいるのだ。

 バラナシはインドの中でもきわめて保守的な街である。旧市街の建物は厳しい規制の下で何百年も前と同じ姿を留めている。しかし同時にこの街は世界的な観光地であり、欧米人がもたらす新しい価値観にいち早く触れる場所でもある。そこに矛盾が生じるのは当然の成り行きであり、それを象徴しているのがブラッド・ピット君のような若者なのだろう。

「俺は夕暮れが一番好きなんだ。朝はあまりにもうるさくて、人がたくさんいるから好きじゃない。こうしてガートの階段に座って、暗いガンガーを眺めていると、とても穏やかな気持ちになるんだ。俺のお父さんもおじいさんも同じようにガンガーを眺めていたんだろう。バラナシはずっと変わらないよ。俺の子供も孫もきっと同じようにガンガーを眺めるだろう。そんな街はここだけなんだ」








メルマガ購読はこちら Email :